きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.11.23(木)
シャンソン歌手・金丸麻子さんのライブに行ってきました。渋谷の「カフェコンセールinさくらんぼ」という30名も入ればいっぱいという店です。ピアノが常設のようですから、いつもミニ・コンサートをやっているような店なのかもしれません。
「巴里に憧れて」というタイトルで15曲ほど歌ってくれました。金丸さんとは4年ほど前のセイリングでご一緒になり、それ以来、何かというと声をかけてもらっています。年に1〜2度、彼女の歌を聴きに行っています。いつもはお仲間と舞台をやったり、クラブで歌ったりしているんですが、今回は初めてのソロライブということで楽しみにしていました。期待は裏切られませんでしたね。1時間みっちり彼女の歌が聴けるというのも魅力、その上おしゃべりも楽しめました。彼女のおしゃべりは以前から好きだったんですけど、今回はソロということもあって、のびのびとやっていたんじゃないかな。観客も巻き込んで、ワイワイやっていました。私もつい「早く嫁に行け」なんて言ってしまいましたけど(^^;;
「うるさいわね」なんて怒られましたけど、掛け合いがうまいなと思いました。ソロの方が金丸麻子というシャンソン歌手の魅力が充分に引き出せるようです。これから、せめて年に一度くらいはソロでやってもらいたいものです。
○奥沢拓氏詩集『こんな母ですが』 |
2000.11.30
東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 1800円+税 |
ふざけずにはいられない
----そんじゃらば屋上からぶん投げてくれっかよ
歩けなくなった母は
----おら死んじまいたいよォー
こんな身体(からだ)になっちまって
などとしょっちゅう言うので私はついふざけてしまう
しかし 母はそれは痛そうだからイヤだと言う
----そんじゃらば穴掘って埋めてくれっかよ
母はそれも苦しそうでイヤだと言う
根がぜいたくにできているひとなので
眠るようにポックリと死にたいのだそうだ
私たち親子はヒマな時
こんな会話をしている
作者が1997年に出版した第一詩集『母と手押し車』によって、母上の看護のため中学校教員をお辞めになったことは記憶していました。その後の様子を語る第二詩集です。母上との二人っきりの生活が飾り気なく表現されています。介護という辛い作業に中にもほのぼのとした親子の情愛を感じることができます。この作品にはそんな様子が端的に表れています。
教職を捨ててまで母上の介護にあたるということは、なかなか出来ることではありません。そのことに敬服するとともに、なぜ出来るのかも考えてみました。的外れとは思いますが、作者の出身が会津であるということと関係するのかもしれません。私の父親の実家は福島県いわき市で、私も小学校3年まではそこで過ごしています。会津とは比べものになりませんけど、福島県人のこだわりを感じるのです。何が今一番大事なのかに対するこだわりです。
詩集の中の「臨終」「母の眼鏡」「天国の父と母」などの作品によって母上が亡くなったことが判ります。詩集に添えられていた手紙には、昨年5月に亡くなったとありました。最愛の母上を亡くされて作者のお気持ちを拝察し、母上のご冥福をお祈りいたします。
○詩誌『すてむ』18号 |
2000.11.20
東京都大田区 すてむの会・甲田四郎氏発行 500円 |
からむ/長嶋南子
舌からませ
手からませ
足からませて
からだひとつあれば
なにもいらない
あなたとわたし
でも
こころはひとつではない
からだもこころぐらい
たくさんあれば
あっちこっちの男と
あっちこっちからみあって
誰ともからみあえない部分が
わたしのなかにあって
その部分が
からみたいというのだ
巻頭作品だけあって、さすがにうまいですね。リズム、視点、文句なしです。そして最終連の効いていることと言ったら、まったく申し分ありません。特に「誰ともからみあえない部分」というのがミソで、ここで読者は自分の部分≠考えさせられてしまいます。その、間の取り方が実にうまい。
私自身にとっての「誰ともからみあえない部分」って何だろうな、と考えてみました。原風景? 本能? 後天的な知識? いろいろ考えましたけど、正直なところはよく判りません。それら全部だという気もします。しかし、それは何だろうなと考えることは楽しいことです。作者の意図とは外れているかもしれませんが、そんな勝手な読み方をしています。
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