きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.11.27(月)
15時までは神奈川県PTA大会というものに行ってきました。式次第を見ると「国歌斉唱」「PTAの歌」とあるじゃありませんか。「PTAの歌」は西條八十補詞とあるし、どうってことないからいいんですけど、問題は国歌=Bここでも何度も書いていることですが、私は君が代を国歌だとは思っていません。BGMで流れる分には無視すればいいんですけど、斉唱となると自分の主張と反します。さてどうしたものかと考えて、その時間だけ退席してトイレに行きました。1200人も集まっていますから、会場がざわついていて目立ちはしませんでしたけど、問題は来春の卒業式だなあ。まあ、その時までに考えておきます。
基調講演は数学者の秋山仁氏による「種を早く蒔くより、まず土壌を耕せ」。これはよかったですよ。東南アジアと日本の子供の比較をして、日本の子はなぜ軟弱になったかの解説や、日米中の学生の違いを話してくれました。そのあと「父親の参画」なんて分科会に行きましたけど、そんなものより秋山氏の話を長く聞きたいと思ったくらいです。どんな話になったかはマスコミにも出ている人ですから、様子は想像してもらえると思いますが…。子供の時は劣等生だったという前提があるから、親近感を持ちますね。
15時15分までに分科会は延長されましたけど、振りきって15時に会場をあとにしました。18時からは東京会館で年に一度の「ペンの日」だったんです。最近はペンクラブの月例会にも行けない状況でしたから、これは行きたかったんですよ。久しぶりにいろいろな人に会えて楽しかった。「ペンの日」が始まる前に行われていた理事会では、私の推薦したお二人がお二人とも入会を認められたという報告も秦理事から伺いました。これもうれしい話でした。
今回はやけにテレビの取材が多いなと思っていたら、国会でコップの水をかけて話題になっている松浪健四郎氏が来ていたんですね。彼も会員だったんだ。名簿で調べたら「E」になっていましたから、エッセイストとして入会していたようです。みんなから「近づくと水かけられるぞ」なんてひやかされていましたけど、司会の奨めには素直に従って壇上で「お騒がせしてすみませんでした」なんて、これも素直に謝っていました。意外に素直な人なんだなと思いましたよ。それにしても日本ペンクラブって所は自民党から共産党まで、実に幅広い人たちが集まっている所なんだな。いいことです。
○詩とエッセイ誌『山脈』 創刊25周年記念増刊号 |
1975.7.1
神奈川県横須賀市 山脈会・筧 槇二氏発行 非売品 |
筧代表から送られてきました。今から25年前のものです。ガリ版刷りという大変貴重なもので、私が実家に書庫に保管してある『山脈』と一緒にしておきます。当時の同人のうち赤石信久、手塚久子、村田春雄の各氏が亡くなっており、時代の流れを感じさせます。この当時は私はまだ入会しておらず、現同人では筧槇二、石原武、高橋弘、西本梛枝の各氏が残っているだけですね。『山脈』の歴史を感じさせる一冊です。
○丸山勝久氏詩集『雪明かり』 |
2000.12.1
東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2000円+税 |
未生
U
うまれるな
ひつじよ
うしよ
ヒト よ
羊の
牛の
人の
名のもとに
神のつくりたもうた
かりそめに
いつわりのかりそめの
手を加えるな
それは
羊の頸を引きちぎり
牛の眼を晒し
人のこころを吊すこと
にんげんよ
みずからの
驕りに
気づけ
やすらかな水のほとりに
我欲を捨てて
あるがままに
生まれてくるものを
待とう
人為的にものを捨てて「あるがままに/生まれてくるものを/待とう」と言う作者の思想に、丸山勝久という詩人の本質を見た思いがしました。ここがすべての原点になっていて、丸山詩があり生活があるのかな、という気がします。なぜ「あるがままに」なんでしょう。あとがきには「複雑な家庭環境のもとで、人生の裏側を知ってしまった幼年時代。軍国少年へと駆りたてられた少年時代。戦火のあとの廃墟の街で、詩らしきものを書き始めた思春期。」とあります。おそらくその原風景が作者をして「あるがままに」と悟らせたのではないかと想像しています。
しかしそれはいわゆる東洋的な諦観とは一線を画していると思います。4連を見ると「神のつくりたもうた/かりそめに」とあります。神が創ったものでもかりそめ≠ナあるという視線は宗教的でもなく、ましてや諦観ではありません。それすらもかりそめ≠ナあるという思想が丸山勝久という詩人の大きな特徴ではないかと思いました。大先輩の詩集に、新たな視点を勉強させられた思いです。
○詩誌『火皿』96号 |
2000.11.20
広島市安佐南区 火皿詩話会・福谷昭二氏発行 500円 |
回天特攻隊/井藤綱一
低い階段を降りた部屋は
海底のように蒼い空気に充たされていた
部屋を歩くひとびとは
ゆらゆら
海底をさまよう藻のようにゆれていた
僕とSはすべるように歩き
若い死者達の遺品にせめられていた
軍服に無帽鉢巻の
回天特別攻撃隊金剛隊
…………
深夜の黒い樹林
に囲まれた谷間の地下工場
山中に疎開した海軍工廠で
その夜も
僕らは小型旋盤にかじりついていた
「特急工事 回天五型部品B−273」
それが僕ら中学生の仕事だった
休憩時間返上
僕らは回天五型をのろった
蒼白い半透明の若者が
僕の間をすり抜ける
あのとき僕の作った部品と
この若者の操縦した回天魚雷とは関係ない
僕らの工廠は長崎の大村湾だし
ここは瀬戸内海の江田島だし……
僕はSをふりかえり
少し感情的に云った
「僕はこの回天魚雷の部品を作っていた」
Sは氷のように笑った
「僕は大村湾で回天の訓練をしていた
順番待ちでね……」
回天魚雷……戦争末期に日本海軍が開発した特攻兵器、人間魚雷である。直径一メートルの胴内に匍腹搭乗し(従って搭乗員は無帽鉢巻姿)、操舵追尾しそして体当りする。
なんともやりきれない作品です。S氏の方がもっとやりきれない気持ちかもしれません。いや、「僕らの工廠は長崎の大村湾だ」った「僕」の作った回天に、「大村湾で回天の訓練をしていた」S氏が乗っていたかもしれず、一番やりきれないのは「僕」なのかもしれません。
今にして思えば馬鹿げた兵器ですが、それに関連した遺品を残してあることはよかったと思います。そういう事実をきちんと残すことが、過ちを繰り返さない基本でしょう。この作品によって遺品が残っていることが判り、それも作品のひとつの成果だと考えます。作品上でも「海底のように蒼い空気に充たされていた」「海底をさまよう藻のようにゆれていた」「蒼白い半透明の若者が/僕の間をすり抜ける」という比喩は有効に働いていると思います。なにより「氷のように笑った」がいいですね。「順番待ちでね……」を強調する比喩だと思います。
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