きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.12.30(土)

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 元旦に自治会主催で行われる拝賀式の準備をしました。地域の神社に自治会役員や組長、長老が集まって執り行われる恒例の行事です。過去に一度だけ出席したことがありますが、神道とは無縁の、地域の単なる一行事でした。神主もいない神社ですから、そんなもんかもしれません。
 神社の清掃やら注連縄の飾り付け、圧巻は座卓の脚の付け替えでしたね。脚が相当痛んでいて、肘をつく人がいて、毎年、酒やら料理やらがひっくり返っていたそうです。満足なものはほとんど無く、20脚ばかりを付け替えました。シンドかった。でも、なんか清清しい気分でした。



浅野章子氏詩集『セピアのかなた』
sepia no kanata
2000.12.10 横浜市南区 横浜詩人会刊 1200円

 黄昏の食卓

『青春の食卓』と言うのがあるなら
黄昏の食卓もある
隣のテーブルの二人は
なんと饒舌だろう にこにこと
二人の手は休みなく会話を紡いでいる
ときどき運ぶ箸の静かな動きが聞こえるだけ

だのに私たちふたり
ほんの先程からどうにも会話が弾まない
いいかげんな相づちをうって
窓の外の風景を見るともなく眺めている
動かない帆船の白い船体がまぶしい
観覧車の回るイルミネーションを数えている
幸せ 不幸せ 幸せ不幸せと
花を毟るように

食卓には過去の遍歴がくりかえし巡っている

 「ねえタワーに昇らない」
 「何処まで視えるかな 二人で眺めよう」
赫い夕日が海に消えないうちに

あの賑やかな ためらいのない若い恋人達は
まだ二人だけの言葉で笑い合っているだろう

遠いブリッジにライトが照射した
私はふりかえって言った
「あの辺りに在った赤い灯台まだあるのかしら」

 『青春の食卓』というのはTV番組にでもあったのでしょうか、聞いた覚えがあります。それに対比させた「黄昏の食卓」という発想はおもしろいですね。私の家なんか、まさにその通りです。男としては、うちに帰ってきてまで面倒くさい話はゴメンだ、という気持になるようです。ま、いずれ「若い恋人達」も同じことになってしまいますから(^^;;
 「若い恋人達」は「二人」、「私たち」は「ふたり」と区別している点も注意が必要ですね。ディテールにこだわるというのは、良い作品の特徴だと思っています。それに、最終連がとてもいいですね。どんな返事がくるかも興味があるところです。



詩誌『布』12号
nuno 12
2000.11.20 埼玉県戸田市
阿蘇豊氏・他発行 100円

 地獄の練習/先田督裕

地獄
ちょうど麻酔と逆の状態を想像してください
感覚が麻痺するのでなく
感覚が加わるのです

地獄の鬼は言いました
ここにおいで
新しい感覚を与えよう
神経
(ことば)がひとつ増えれば
痛みがひとつ増すだろう

苦痛を与えるのが
地獄の鬼の役目です
やさしい人は
鬼を楽にしてあげられるのです

 言い得て妙、といいますか、怖い作品ですね。「新しい感覚」をもらうということは「痛みがひとつ増す」ということ。まさに芸術の真髄を言っていると思います。そうやって泥沼にはまっていくんだろうなあ(^^;; それでも一度芸術の魅力にとりつかれるとやめられない、とまらない、、、。そうやって「やさしい人は/鬼を楽にしてあげ」ているんでしょうね。短い作品ですが、ドキッとさせられました。



詩歌文芸誌GANYMEDE20号
ganymede 20
2000.12.1 東京都練馬区 銅林社・武田肇氏発行 2100円

 一寸の灯/宗 美津子

真面目で正直で頭がいいと言ってくれる人がおりました
融通が利かなくて出世欲がなくて
バカなのか利口なのか見当がつかないと言う人もおりました
石部金吉石を叩いても渡らないとも

口数すくなく
酒は静かに嗜んで
酔がまわるとバイオリンや三味線を出してくる
思索的な表情をしているので
何か閃いたのかしらと待っていても
何もなかったりで
娘が拍子抜けしてしまう
生前の父親でありました

戦争ではまる裸になり
どん底になったのに
子バカは
時間がたつほどに善き人≠ノ似ていると思ってしまう
  ひょうひょうとした 三遊亭円生
  じっと見すえる 川端康成
  しぶーい 志村喬
  落ちついた知性の 城山三郎
ちょっとした雰囲気
目の表情それだけなのに

凡人は小さなことに喜ぶと笑われても
そこにあったほんわか小さな灯が
米俵のような形して
わたしの部屋にありますので
ときどきニタリニタリしながら
思い出を噛むのです

石川五右衛門に似ていたら
わたしはどうしていたかしら

 三遊亭円生=落語家(故)
 川端康成=作家(故)
 城山三郎=作家
 志村喬=俳優(故)


 亡き父上の思い出の作品ですが、すばらしい父上だったようですね。芸術家タイプ、あるいは研究者タイプの方ではなかったかと想像します。おそらく明治生まれだったのでしょうか、昔の良き日本人の典型を見ているようです。それにしても比較されている男性はいい顔の人たちばかりですね。「子バカ」にもホドがある、なんて思ってしまいます。女性はやはり顔のいい男性には弱いようで…。本当に「石川五右衛門に似ていたら」ここまで書いたかな(^^;;



中島登氏詩集ワルシャワの雨
warszawa no ame
2000.12.5 東京都千代田区 砂子屋書房刊 2800円+税

 三本のグリッシーニ*

しあわせは三本のグリッシーニ
しあわせは一個のピクルス
しあわせは一杯の赤ワイン
そしてしあわせは一度だけの愛のしるし

そんなことを思いながら
サンテミリオン
*を味わうテラス・カフェ

わたしは仕事を辞めて
また新しい仕事を始める

人生は一つでは足りない
誰だって人生を二つも三つも
欲しくなるものだ

人は巨万の富をしあわせと思いこんでいる
それは間違いだ
しあわせは三本のグリッシーニ

 グリッシーニ:細くて長い固焼きのパンの一種。イタリアン・レストランで供されることが多い。
 サンテミリオン:フランス、ボルドーのワイン生産地区の一地区の名。この地区はシャトーが密集しており、ここで生産される銘醸ワインを総称する呼び名でもある。


 「わたしは仕事を辞めて/また新しい仕事を始める」という決意のもとに書かれた作品だと思います。人生の転機に重大な決意で臨もうというときに、ふと「しあわせは三本のグリッシーニ」と思い至る著者の精神的な余裕すらを感じます。それはフランス文学に造詣の深い著者の、文学的余裕から来ているのではないか、とも思います。



 
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