きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.7.8(土)
日本詩人クラブの7月例会が「神楽坂エミール」でありました。今回は新会長と新理事長の講演がメイン。新会長・鈴木敏幸さんの講演は良かったと思います。「続・浅野晃」と題して、昨年、理事長に就任した折の講演の続きです。ひとりの詩人を研究するということはこういうことか、と教わりました。一篇の詩の意味を執拗に追い続け、一定の結論を出すという態度に打たれました。会長にとって故・浅野晃は師にあたりますから、熱心に研究するのは当然という見方もありましょうが、そうではないと感じました。師である前にひとりの詩人、人間として接しているのが判ります。ですから浅野晃にとっては触れてほしくないだろう部分も出てきます。ひとりの人間を研究するには避けて通れないという判断からです。そのような真摯な態度が私には共感できました。
会場の様子です。今回も満員の盛況でした。 |
○詩誌『布』11号 |
2000.7.1 千葉市花見川区 先田督裕氏他発行 100円 |
落葉/松田克行
振り返ると
落葉が風に吹かれて
道いっぱいに広げられていた。
ぼくは心の中を覗いた
歩きながら
落葉を一枚拾ってポケットにねじ込む。
その落葉は
ぼくの心から落ちてきたものだ
*
ぼくを要らないと云っているのは
何という神様なのだろう
ぼくにとって何が必要だったのだろう
いつも野原を歩いて思うのだが
ぼくには雑草が似合っているような気がする
「落葉」という総タイトルのもとに6篇の作品が載っています。その中の2篇を紹介しました。「その落葉は/ぼくの心から落ちてきたものだ」にまず惹かれました。その前の2行が効いているんだと思います。普通なら陳腐な言葉になってしまうのですが、使い方によってはうまくいくという例でしょうか。
「ぼくを要らないと云っているのは/何という神様なのだろう」という言葉にも惹かれました。すごい言葉ですね。神なぞ信じてはいませんが「要らない」とは言われたくない。神への反発とともに認められたいという複雑な心境になりました。
○川村慶子氏詩集『半生』 |
2000.6.20 東京都練馬区 銅林社刊 2500円+税 |
亡兄の日記
昭和十三年
十一月十八日(金)
学校、火事の夢を見る。火事の夢は大吉----。
病気はなおり、尋ね人は来るそうである。
十一月十九日(土)
井上先生の家へ、荷作り手伝いに行く。
米一俵、胸迄 持ち上げた。
十一月二十日(日)
風呂に入る。
乳首(左)より、黒い毛二本生えた。
身体の衰弱が直った 証拠であろう。
(男は利権を得、女は損失がある)
雪降り、三糎積る。
(十九日、電気火傷して 死んだ夢を見た)
十一月二十一日(月)
日露戦争参加の某将軍談、姉より聞く。
満月ごろ 吹雪になっても、月が出ていれば
大吹雪にはならない。
*
あゝ、亡兄さん!
おなたは私に <オルガン> と <本箱>
と
<孤高> ----を のこして下さった。
亡兄さん! 私はまず あなたを踏み越えて 進む
そして 幸せを しつかりと掴む
あなたの分まで!
1960年に出版した処女詩集『半生』の再版、とあります。40年前の作品を拝見していることになりますが、古さを感じさせないのは驚きです。再版のあとがきで作者は「わたしって何にも向上・進歩していないじゃないの」と謙遜していますが、すでに詩人として確立していたんだと思います。
紹介した作品は作者の原点ではないかと思っています。もうひとつの原点に母君がありますが、亡兄への思いの方が強いと感じています。作品としては最終連のみが作者の言葉で、それ以前は亡兄の「日記」の形ですから、弱いという見方もできます。しかし私は「日記」の部分も作者の詩であると思います。日記のどの部分を切り取るかという感性も詩と思うからです。そして日記が実在かフィクションかは別にしても、詩として充分読める内容ではないでしょうか。
日記が詩であるかどうかという判断は、最終連にかかってくるでしょう。「おなたは私に
<オルガン> と <本箱> と/ <孤高>
----を のこして下さった。」というフレーズが、それ以前の「日記」を詩たらしめていると思います。40年前、昭和13年、そして2000年と、時間を超えた作品、詩集と思いました。
○詩誌『飛天』20号 |
2000.7.7 東京都調布市 500円 飛天詩社(代表磯村英樹氏)発行 |
毎年1冊の本を7月7日に出す、というグループがとうとう20周年記念号を出すところまで来ましたね。おめでとうございます。代表の磯村さんをはじめ、同人の皆さんの喜びもひとしおではないかと思います。
かたい/中井ひさ子
夕方家に帰ってくると
部屋の片隅で
ねずみが何かをかじっている
「何をかじっている」
と 私
「さみしさ」と
黒目がちの眼でねずみ
ここのところずっと
さみしさについて
考えていたので
ねずみのさみしさとは
どんなものかと
のぞきこむ
でも
ねずみの口が
忙しそうに
動いているだけ
「おいしい?」と聞くと
「味は好きずき」と
そっけなくひたすらかじっている
私も
私のさみしさの端を
かじる
「かたい!」
人間の歯にはかたすぎる
味わうどころじゃない
これは
ちょっとやそっとでは
減らないな
うまい!と思いますね。最後の一連、一行できちんと締めるなんて、本当にお見事。中井さんはもともとこういう作品はうまいんですが、ますます磨きがかかってきているようです。実はこの作品の前に「前にも」という自分の分身が家に鍵を掛けて出かけてしまうという作品があるんですが、それの続き物という読み方もできて、そういう作り方にも感激しているんです。日常の中でありそうで無いことを、作品として存在させて、人間の奥底を見透かされているようで、怖いといえば怖いんですが、惹かれてしまいました。
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