ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.7.9(日)

 『山脈』106号の発送を、横須賀の筧槇二代表宅で行いました。同人が8名も集まってくれて、順調に作業は終わりました。ここしばらくは、同人が経営している待望社という印刷所で印刷も発送もやってくれていたんですが、発送は同人がやらんとイカン、という筧代表の一声に依ります。私も実は同感でした。待望社で印刷をする前は、2〜3の印刷所で作ってもらっていましたが、発送は当然こちらです。それが同人が経営する印刷所に変わって、発送も無料で代送してくれるという言葉に甘えてしまったんです。楽であることは確かでしたが、それでいいんかなという思いはありました。そこをきちんと諭した筧代表はさすがですね。

 実は筧代表のお宅に伺うことに、下心があります(^^;; 作業が終わったあとは奥様の手料理で宴会、というのが慣習です。手料理もうまいし出てくるお酒も超一流。それが楽しみで伺うようなもんです。今回も当然、慣習通りです。でもネ、私はそのオイシイところを享受できなかったんです。夕方から自治会の会議があって、それに出なければならなかったんですよ。後髪を引かれる思いで筧家をあとにしました。手料理とお酒が出てくる前に、です。出てきたら固い決心も揺らぎますからね。残った連中はさぞやいい思いをしただろうなあ、クソッ!


詩とエッセイ誌『山脈』106号
sanmyaku 106
2000.7.1 神奈川県横須賀市 筧槇二氏発行 500円

 これが、その『山脈』106号の表紙です。ここでは詩作品の紹介はしません。このHPの基本は、無料で私に送ってきてくれている詩誌・詩集の紹介です。自分の所属する同人誌をこと細かく書くことは、そのポリシーに反します。でもまあ、「出たよ」ぐらいはやらないとネ。そんなスタンスです。各同人の作品紹介は、いずれ『山脈』のHPを担当してくれている三上透さんが載せてくれると思います。実物をご覧いただけない方は『山脈』のHPをご訪問ください。私のHPにリンクしていますから、お気軽にどうぞ。


大野杏子氏詩集『弦月』
gengetu
2000.5.30 東京都豊島区
東京文芸館刊 2000円+税

 山茶花

突然思考が止まった
喪中の葉書は掌に冷たい
知らない女性の名で
年賀を遠慮するという
ただそれだけ
誰の死とも書いてないが
貴方がもうこの世にいないと告げている
医者の貴方が先に逝ってしまうなんて
晴れ渡った碧い空に
昼の半月が白く浮かんでいる
茶会の集いは久しくなかった
学会に上京するという
突然の電話もなし
近頃賀状ばかりになっていた
患者を日に三十人と決めたのは
馬に乗る時間が欲しいからと
元気な声をしていたのは数年前だった
煙草を吸いすぎる「医者の不養生奴」と
厳しく言ったこともあった憎まれ口は
なんの役にも立たなかった
似ていたのは白い花が好きなだけ
生命の終りはただ一人のもの
所詮は神の掌によると思うしかない
冬の陽は傾き
山茶花がひっそり白く散っている

 「生命の終りはただ一人のもの」というフレーズに惹かれました。言われてみればその通りなんですが、いずれ全員が死ぬという事実から、自分ひとりではないという錯覚に陥っているようです。自分の死は自分のものでしかあり得ないということを改めて知らされました。
 医者の描き方には、人間像がくっきりと浮かび上がっていて、私も知っているような気になってきます。「昼の半月」、「冬の陽」、「山茶花」と場面設定も適切で、情景描写と心象がうまく合っていると思います。きちんとした詩の書き方を教わりました。


文芸同人誌『時間と空間』45号
jikan to kukan 45
2000.7.1 東京都小金井市 北岡善寿氏発行 700円

 歌/布川 鴇

思い出した青春を再び謳歌するように
人々の顔が輝きだした
力強い旋律が続いていたが
その歌を私は知らなかった

「あれは何の歌でしょうか」
「ああ あれは軍歌ですよ」
こともなげに 傍らの人は答えた

 軍歌・・・ 軍歌なのか・・・

青春をことごとく
犠牲にされたという人々が
今なお戦争を否定し続ける人々が
ああ 声高く軍歌を歌っている

店内の明るくまぶしかった光が
とつぜん 冷たい霙となって振りかかり
かつて見たこともないほどの
大きな氷の塊がうなるような音を立てて
私の方へ向かってきた

知るべくして知らないで来た
その時代は
知ろうとすればするほど
重く苦しい戦いを私に強い
想像しがたい世界は
悪夢となって私を脅かし続けてきた

そうしてまだ
わずかな時間しか経っていない
とうてい自分たちの苦しみは解るまいと
詰め寄られて首を垂れたときから

打ち砕かれたのは私の脳髄以外の
何であったろう
落下して飛び散ったものを
悲しく私は拾う その無念の断片を

無力な私はこうして
この時代の片隅に ただ震えながら
座っているしかないのだろうか
(流れていくものを止めることも出来ずに)

「郷愁ですよ 郷愁・・・」 と人は付け加えた
私は後ろ手でそっと入り口の戸を開ける

 この作品は恐ろしいですね。軍歌を歌っている側に私自身が入っているのではないかという脅迫観念にとらわれています。もちろん私は戦後生まれですから直接軍人の歌う軍歌を聞いたことはありません。しかし子供の頃はよく歌っていたんです。遊びの中で「軍艦マーチ」を歌ったり、母艦水雷なんていうゲームもありました。ですから誰かが歌えば一緒に歌えます。
 成人してからはある程度は反戦活動もしていましたから、さすがに歌うことはなくなりましたが、酔ったときが怖い。それこそ「郷愁ですよ 郷愁・・・」と子供時代を思い出して歌うかもしれない。いや、わずかな記憶ですが酔って歌った覚えがあります。
 人間の弱さ、心の底から反戦と言えるのか、そんなことを突きつけられました。さすがに戦争について「とうてい自分たちの苦しみは解るまいと」詰め寄ることはないでしょうが、戦争以外のことでは同じようなことをやってしまうのではないか。例えば、仕事の苦しみは解るまい、創作の苦しみは解るまい、と。心せねばと思っています。


詩誌『饗宴』24号
symposion 24
2000.7.1 札幌市豊平区
瀬戸正昭氏発行 500円+税

 めぐりのなかで…/谷内田ゆかり

みえない
(ちり)にも
存在の いみが あるように

ぬれそぼった
朽ち葉にも
小さな いのちを
はぐくむ 用
(よう)が あるように

プランクトンの なきがらも
深海へ おち
地表ちかくの えいようを
底へ もたらしているように

ひとも また
めだたない       
しず
微小な在りように 身を 鎮めて

あたりの 美に
うっとりと
見入っている…

無用 にも 似た
その 用 の
ちり
塵 ひとかけらの
うつくしさ…

 この作品を読んで、ハッとさせられました。「無用 にも 似た/その 用 の」と語りかけられたとき、この世に無用なものは何もない、と知らされました。物理的にはエネルギー不滅の法則で表わされているように、なにひとつとして欠くことができないはずです(最新の物理学ではそう言えるのか不明ですけど)。塵さえにも存在理由があるという作者の視点は立派です。
 「塵 ひとかけらの/うつくしさ…」と歌い、それが「めぐりのなか」にあると指摘する作者のやさしさが伝わってきました。私の生地にこのような詩人がいることを誇りに思います。



 
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