ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.7.12(水)

 日本ペンクラブの電子メディア対応研究会が赤坂の事務所で開かれました。その中で会員に対して電子メールによるアンケートをやることが決まりました。文学者として自分の表現にどのようにインターネットやEメール、ホームページを役立てるか、役立てていきたいと思っているか、というのが主な設問です。意義のある企画と思い、当然私は賛成しました。
 日本ペンクラブ会員約1800人の中で、現在Eメールを使っている人は300人ほどのようですから、仮に100人から返信があったとしても、現代日本の最先端で活躍している文学者の意識が判ろうというものです。文学と電子メディアは切り離せないものになっていきますから、先んじたアンケートは今後の電子メディア対応研究会、日本ペンクラブの活動方向に多いに参考になると思います。
 それはそれとして、会議の中で座長の秦恒平さんがおもしろいことを言っていました。Eメールは文学、特に詩になっているのではないか、というものです。ん?と思って訊ねると、行分けのことを言っていました。通常の文章はベタで書く場合が多いんですが、Eメールの場合、比較的行分け詩のような書き方をして、それが詩、強いては新しい文学の萌芽になるのではないか、というものです。
 確かにEメールをベタで書くと読み難いし、ベタでもこの文章のように適当に空の行を入れています。これはある意味では読んでくれる相手を思いやった自然発生的なものですが、確かに今までにない文章表現の方法ではあります。この手法が本当に新しい文学の萌芽になっていくかどうか、私には疑問もありますが、むしろそれを感じ取る座長の感性に脱帽しました。座長はプロの作家ですけど、並の詩人には及ぶべくもないほどの詩的な感性を持っていると思いました。そんな座長のもとで副座長という仕事をさせてもらっている私は、なんて運がいいんだろうとうれしくなりましたね。


詩誌『展』53号
ten 53
2000.6 東京都杉並区
菊池敏子氏発行 非売品

 出刃/菊池敏子

俎板に横たえた鯖の背の
秋雲の陽画
(ポジ)に似た紋様に
ふと気をとられたばっかりに
扱い慣れた道具から
思わぬ仕打ちを受けてしまった

たかだか流し台の高さを落ちた
持ち重りする三角形の厚みもつ鋼は
自ら禍禍しい矢印となって床に突き立ち
「意味」を「形」で示してみせた
垂直-----このなんと不穏な重力の方向

もののはずみ?使い手の迂闊?道具の造反?
とっさに反応したものの
そこは右足のあった位置だ
引き抜くときの手応えで
はじめてうそ寒く血の気がひいた

台所という平穏な場所で
剣呑な不意打ちを喰らわせた出刃は
夜 流しの下の収納扉の内側で
その切っ先に知るはずだった感触について
まだ 拘っているのかも知れなかった

 このHPでは原則として詩誌の主宰者の作品は取り上げないことにしています。主宰者の作品は書評などでも取り上げられる場合が多く、同じ轍を私が踏んでもおもしろくも何ともない。それよりその詩誌の他の優れた作品を見つけた方が主宰者の喜んでくれるのではないか、という下心もあります(^^;;
 その禁を破ってまでも紹介したい気持ちをお判りいただけますよね? 怖いですね、出刃包丁が落ちてくるというのも怖いですけど、私は最終連が一番怖い。「その切っ先に知るはずだった感触」というフレーズでゾッとしました。そして、三連目までは誰でも書けるけど、最終連は菊池さんにしか書けない感覚だと思いました。出刃包丁の気持ちになって書けるというのは並の詩人の仕事ではありません。さすがは「現代詩女流賞」をとっただけのことはある詩人と思いました。


愛知高等学校『研究紀要』26号
kenkyu kiyo 26
2000.6.30 名古屋市千種区
愛知高等学校(編集・阿部堅磐氏)発行 非売品

 日本詩人クラブ会員の阿部堅磐さんよりいただきました。阿部さんは愛知高等学校国語科の先生のようです。この「研究紀要」では21号から編集後記を担当、と記録されています。先生方の研究報告をまとめた年刊誌と思います。高等学校の先生方がこんな本を作っているということにまず驚かされますね。私が卒業した高校(もう30年以上前ですけど)では見た記憶がありません。大学の研究室では出すところもあめようですが、全国の高校の中でも珍しいのではないかと思います。
 拝見して、その多様さにも驚かされました。日韓の歴史的な関係についての研究、薬物についての報告、図書館活動報告、海外研修報告、それに福田万里子の詩についての阿部さんの詩論など、実に多彩です。実に熱心な先生が多いと思いました。
 その中で最も私が興味を覚えたのは、水門晴樹という先生が書いている海外研修報告でした。昨年、米国ユタ州に行ったときのもので「モルモン教」についての報告です。日本でも活発な布教を行っていて、私も一度、布教者と論争をしたことがありますので興味津々でした。水門先生の結論はここでは述べませんが、公正な態度は評価しています。ほとんどの文献をインターネットで探したようですから、興味のある方は検索してみるといいでしょう。研修報告のひとつの見本のように思いました。


詩誌『燦α』4号
san alpha 4
2000.8.16 埼玉県大宮市
二瓶徹氏発行 非売品

 夜汽車/さたけまさこ

一人暮らしの祖母の見送り
淋しくて
なんども なんども手をふった
人は どうして
さよならしなけりゃ
ならないんだろう
ずっとずっと
みんな一緒が
楽しいのに

母と二人で お家に帰る
私は 夜汽車が
好きだった
闇の中に 浮かぶ家の灯
それが お星様のようだから
きらきら きらきら
輝いて 流れて

私の話す 絵空言
母が 白いメモ帳に
ボールペンを 走らせる
この時は 私だけの母だった

ガタンゴトンと
汽車が 鳴く
ガタンゴトンと
母が 揺れる
ガタンゴトンと
私も 歌う

ガタンゴトン
ガタンゴトン
星くずをまきちらし
どこまでも 走る夜汽車
母と私を乗せて

 祖母、母という肉親に対する愛情が痛いほど伝わってきます。いい家族なんだろうなと思います。特に「私の話す 絵空言/母が 白いメモ帳に/ボールペンを 走らせる」というフレーズを見ていると、母上の娘に対する大きな愛情を感じます。
 しかし「ガタンゴトン」というオノマトペーはちょっと考えてみる必要があるのではないかと思います。言い古された言葉を4回も使うというのは、この作品が良いだけに惜しまれます。もう亡くなりましたが私の先輩に山田今次という詩人がいて、彼は「ズテッテンデン」と表現しました。教科書にも載るような詩人と比較するのはコクな気もしますが、作者はいいものを持っていますので、作者の言葉で音を表現してもらえればなあ、と思います。



 
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