ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.7.21(金)

 7/20〜21、一泊で和歌山市に出張してきました。7/20は休日でしたが、返上しての出張です。まあ、移動だけですから苦にはなりませんでしたが…。朝はゆっくり出て、夕方着いて、メーカーさんと夕食を一緒にとって、あとは寝るだけ。久しぶりにぐっすり、10時間ほど寝ましたね。ホテルも和歌山では一、二を争うような所らしいので良かったですよ。ビジネスのシングル、というのが侘しい気もしますが、もう慣れました。
 仕事は原料メーカーさんへの技術指導。技術指導というと恰好はいいんですが、要は測定器を貸し出して新たな仕事を押しつけることなんで、ちょっと気が引けましたが、弊社も御社もメリットがある、という口調で納得してもらいました。最近、うちの営業とのつき合いが深いので、そんな言葉もスラスラ出てきて、自分でも驚いています。意外と営業のセンスもあるのかな。おっと弊社の社員もこのHPを見ているのでうっかりしたことは言えません。今のは内緒ね(^^;;


詩誌『紙碑』191号
shihi 191
2000.5.31 東京都町田市
紙碑之会・木村和氏発行 500円

 故里のイヴ/山田野理夫

老いたぼくは故里の雪をみに旅にでた 幼い
時分イヴの夜純白な雪を掬って口
(クチ)にしたもの
だ 夜気の寒さに場末のカフェに逃げ込んだ
 もと歌手という老女ひとりがいるだけだ
ぼくは酔いつぶれ眠った  老女がぼくをゆ
すっていった もう夜明けですよ おまちか
ねの雪も降っているよ ぼくは扉を開けてみ
た 毒花のような朱の雪が降っている 道も
むこうの家の屋根も朱だ 老女は呟いた 神
はまだ血を流しているわ
ぼくは故里をふたたび追われた

 大先輩に向かって言う言葉ではありませんが、うまいなと思いました。「神はまだ血を流しているわ」というフレーズには背筋が震えるのを覚えました。しかし私にはきちんとした説明はできません。例えば「毒花のような朱の雪」や、なぜ「ぼくは故里をふたたび追われた」のかという理由を論理的に説明することができないのです。「毒花のような朱の雪」をわずかな雪が降っている朝焼け、と屁理屈を述べることは可能です。しかし、この作品の価値はそんなところには無いと思います。
 ある意味では大人の童話と言ってもいいかもしれませんね。私よりは30歳ほど年配の方ですから、大人と言っても相当開きがあります。このような心境、作品をまだまだ書けませんが、予感はできます。いずれ、こんな作品が書けるまでに成長したいものだと思いました。


詩誌『こすもす』38号
cosmos 38
2000.7.10 東京都大田区
蛍書院・笠原三津子氏発行 450円

 蝶は死んだ/柏木友紀絵
   −胎児性水俣病の子−

この子の
脳の水平断面映像
美しくも見える墨流し
黒 濃く うすく
不透明な白
描き出す 奇怪 微密な脳内模様

南の島の蝶が羽根をひろげ
緑の木陰に憩っているよう
この子の脳重量は
そう 蝶のように軽い
左右の脳を連絡するベンチ体
毛の様に細い
殆ど発育していない 錐体路

胎児の時 祝福されていたが
へその緒から吸収したのは
濃縮された水銀 栄養のように
おめでとうのまなざしの中
産声をあげてこの世の光を浴び
六才までは生きのびた

ねじまがり 突っぱった手
膝のあたりから交叉している はさみ足
脳性マヒと白痴の二重苦
不思議に水俣病を発病しなかった母
涙をかんで狂気をおしころす

 私のかわりにこの子が毒を
 みんな 吸いとってくれたんです
 水俣を恨みます それでも水俣を離れることはできません

深い空を見上げる母

 非常に重いテーマです。水俣は何度も作品化されていますが、これでもういいと言える時は来ないのではないでしょうか。利益優先の会社、社会が一番弱い者へ皺寄せした罪。罪と知りながら隠蔽した罪。20世紀の中でも最大級の犯罪です。それをいつまでも告発していくのは詩人の役目と私も思っています。
 しかし私は水俣を書かないでしょう。時事、事件を扱う作品には、私はひとつの枷をはめています。時事、事件と直接私が関与していない場合は書いてはいけないと思っているからです。関心は持ちますが、自分の身内なり地域なりという関係が無い場合に書くと、表面をなぞるだけになり当事者にむしろ失礼になると思うからです。どういう関係か、というのが実は難しくて、例えば日本人のひとりとしてという関係もあります。それはそれで良いのですが、私はそれでは表面をなぞるだけになってしまうと思っています。この考え方には異論も反論もあるでしょうが、自分の過去に書いた作品の失敗から、これは堅持したいと思っています。
 さて、作品に戻りますが、作者は水俣とどういう関係にあるのか判りません。前出の私の意見に付け加えるなら、水俣との関係を作品の中で示す必要はありません。作者の背景として持っていればよいのです。柏木さんの場合、何らかの関係があるように思います。3連、5連を見ますと、作者の背景を感じます。間違っていたらごめんなさい、ですが…。


鬼の会会報『鬼』339号
oni 339
2000.8.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費1万円

 日本詩人クラブの理事会で、賞の受賞者敬称を殿にするか様にするかで議論になったことがあります。結果は当面、従来通りの殿にすることに落ちつきました。

 殿と様
 殿は身分の高い人の大邸宅の意味で、転じて住む人になった。最初は関白や摂政に限られたが、現在は下落。辞書には、下位の者への軽い敬称とあり、多くは公用に用いられるとある。一般の場合は様が多く、殿の着いた手紙を受け取ると怒る人も珍しくない。昭和二十七年の国語審議会の建議に、将来は公用文の殿も、様に統一することが望ましいとあり、殿か様かで騒動の起きた自治体もある。

 私の愛読「鬼のしきたり」(28)のうちの一節ですが、なるほどね。日本詩人クラブの場合は賞を授与するという立場ですから、殿の選択は間違いではないようです。しかし今後はどうなることやら。公用文からも殿が消えると、様にするしかないのかもしれません。そして、様も使い古されてくると、別の言葉に変るかもしれませんね。まさか「さん」や「君」にはならないでしょうが…。



 
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