きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.10.24(
)

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 以前、小学校の校長先生から拙詩を使わせてくれという依頼があり、もちろんOKを出してありました。どんな使い方をするのか興味があったんですが、今日それが判りました。「学校だより」に使ったんですね。主にPTAや地域の人を対象に発行しているようです。「感じよう・考えよう・表現しよう 読書の秋」というタイトルのカラーの1頁もので、全面に使ってありました。画像で表現すると大きくなり過ぎますので、テキストで転載してみます。
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 いよいよさわやかな秋がやってきました。食欲の秋・読書の秋ですね。きれいな花が咲き乱れ、木々はまもなく紅葉を迎えるというすばらしい季節になりました。夏休みの前に紹介しましたが、「生き物すべてに愛を」について宮沢賢治の作品を紹介しました。ここでは詩の中から人間として、考えていくことが大切だなと思われる作品を紹介します。この詩は北足柄に住んでおられる詩人****さんの作品から紹介させていただきます。

 かつを/村山精二

赤道からオホーツク海までただひたすらに泳ぎ回る魚
体長90センチにも及ぶ巨体をただひたすらに動かし続ける
速度を上げて 速度を上げて ただひたすらに

今でも一本釣りが正統なんです
イワシを撒いて ポンプで水を撒いて海面を泡立たせる
最初は餌のついた針で釣り上げるけど 釣れ始めたら偽物で
まあ なんて悲しい習性の魚であることか

不況の底は脱した
と経済企画庁の発表があった
ああそうですか
思わずニュースキャスターに返事をしてしまう
世間はそんなふうに動いているんだろうな
大樹の陰で暮らしていると見えるものも見えない
ただひたすらに速度を上げるだけである
研究を急いで
商品開発を急いで
シェアを1%でも速く

かつをが速く泳ぐことには理由があった
浮き袋が無いのである
浮力をつける条件は浮き袋があること
無ければひたすら速く泳ぐしかない 

 この詩を読んで感ずることは、かつおについての限りない愛情が感じられます。ただひたすらはやく泳ぐこと、釣れはじめたら偽物で、なんて悲しい習性の魚であることか。
 さて、ただひたすらに速く、速度をあげるだけで、見えるものも見えない。現在の私たちはどうでしようか、結果を求めて急ぎすぎるのではないでしようか。何十年という月日をかけて、学んできたことを短時間で教えることは不可能です。
 教育も、子育てもじっくりと、時間をかけて、急がず、長い目で見ていくことが大切だなと私はこの詩を読んで感じました。
 この詩は小学生の皆様には難しいかもしれませんが、保護者の皆様には子育てという面で参考になると思われます。地域にこんなすばらしい詩を作られた方がいるということはとても嬉しいです。この詩は、『特別な朝』という村山精二さん(****氏)の詩集から紹介させていただきました。
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 なんとなくコソバユイ気持ですが、作者の思い以上に読んでもらえてうれしいです。教育や子育ての観点で読んでもらえるとは思いもしませんでした。なるほど、そういう見方もできるな、と本人が驚いている始末です。校長先生から電話があって「かつを」を使わせてくれと言われた時は、小学生には難しいだろうなと思っていましたが、保護者向けという意識だったんですね。納得しました。拙詩を使ってもらうというのは詩人仲間では何度かありますが、学校関係者が、というのは初めてです。こんな使い方もあるのかと感心しています。
 「****」は私の本名が書かれた部分です。インターネットの性格上、伏字とさせていただきました。また「学校だより」では作品名が「かつお」になっていましたが、原作は「かつを」です。教育の場ではおそらく「かつを」は使えないので直したものと思います。ここでは原作に戻したことをお断りしておきます。



立野雅代氏詩集『皮膚のまわり』
hifu no mawari
2001.11.1 東京都目黒区 あざみ書房刊 1800円+税

 カーディガンをはおる

この秋はじめて
お湯で顔を洗う十一月の夜
肩が寒いのでカーディガンをはおる。
ぽんぽんしゅっしゅっと唄いながら
シーツをかける。
幼椎園で列をつくるときに唄ったうた。
きらきら星よのメロディで。

ぽんぽんと手を叩く
しゅっしゅっで腕を前に出す。
時おり横に出す。
出した腕の長さが前の人との距離
横の人との距離。
あの頃より
長く伸びた腕でシーツをかけ終える。

ピンクのアルマイトのカップ。お茶が入っている。雨だったのだろう
か薄暗い幼稚園の部屋。男の子は青いカップが多いのに、隣のひろふ
みくんのカップは黄色、アルマイトだから金色。こん、とわたしの手
が当たってひろふみくんのカップが倒れる。金色のお茶がこぼれる。
どうしよう。わたしはとっさにピンクのカップのお茶を空になった彼
のカップに入れる。きたないとひろふみくんは言った。どうして。ひ
との飲んだお茶だからとひろふみくんは言った。
その日からわたしに皮膚が生まれた。この世との境目。

もう一枚カーディガンをはおる。
まだ寒いので一枚。
長い風が木の葉を巻き込み
部屋のまわりをぐるぐる走る。
いつもの椅子にうまく腰掛けていられない。
足元が震え始める。
わたしはバタバタと足を踏み鳴らす。
バタバタと続ける。

 冒頭の作品です。「皮膚のまわり」と題する作品はありませんから、この作品中の「その日からわたしに皮膚が生まれた。」からとっているのではないかと思います。うまいタイトルのつけ方ですね。外界と区別する皮膚を幼稚園で感じたわけですから、天性の詩人であると言えましょう。
 そういう眼で詩集を読んでみると、著者の皮膚感覚とでも言うべき、外界との接点を描いた作品が多いように思います。「里子」という作品だけは異質で、それ以外はおそらく直接接した人間、事物をモチーフにしているようです。それらに対する著者独特の視線がおもしろい詩集です。「里子」はまったくのフィクションと思われますが、それを描けるという意味でも詩集の価値を高めていると思います。



児童文芸誌『こだま』19号
kodama 19
2001.10.10 千葉県流山市
東葛文化社・保坂登志子氏発行 年間購読料1000円

 ことば/廖振廷 小五

ことばは一個の軽い荷物です
あなたはそれさえあれば
それで世界旅行ができ
だれもはばむことはできません

 世界各国の子供の詩を日本語に翻訳して紹介するというユニークな雑誌です。今号は日本はもちろんのことアルメニア、朝鮮民主主義人民共和国、韓国、フランス、オーストリア、中国、ギリシャ、ドイツ、台湾の作品が載っていました。紹介した作品は名前からすると中国か台湾の小学校5年生の詩のようです。かなりの作品に原文と翻訳文の両方が載せられているのですが、残念ながらこの作品にはありませんでした。中国語は漢字なので、意外と原文が読めるんですね。原文と翻訳を対比させて鑑賞するのも、この雑誌の楽しみ方のひとつです。
 それにしても「ことばは一個の軽い荷物」という発想はすごいですね。小5の発想とはとても思えません。あるいは小5だから発想できたのかもしれませんが…。言葉の特筆をよく言い表していると思います。おそらく作者は意識していないと思いますが「だれもはばむことはできません」という最終行には、私などは重要な意味をとらえてしまいます。「世界旅行ができ」るできないではなくて、民族の言語は奪えない、という意味においてです。そんなことまでも考えさせられた作品です。



CD『大きな木作品集』vol.3
ookina ki 3
2001.10.17 福島県西白河郡
さたけまさこ氏発行 非売品

 詩・小説・写真・イラスト・音楽など盛沢山のCDです。さたけさんと仲間たちの作品が460MBも詰まっていて見応えがあります。無断転載禁止と断ってありますので、作品の一部を紹介するにとどめます。

 産むことは
 自分自身が生まれ変わること

 気付かずに通り過ぎてきた たくさんの愛に
 ふと涙すること

 さたけさんの作品「産むことは」の冒頭の2連です。親になるということは、実は「自分自身が生まれ変わること」だというフレーズには実感がありますね。私は男親ですから、女性よりも感激は浅いのかもしれませんが、生れ変ったという気はあります。もちろん「通り過ぎてきた たくさんの愛に」気付いた思いもあります。人の親になって初めて気付くことって多いんですよね。このCDの中で一番光っている部分だと思います。



月刊詩誌『柵』179号
saku 179
2001.10.20 大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀秀夫氏発行 600円

 義弟/戸張みち子

お祭り好きの義弟が逝った

戦災でそれぞれの生活が変わり
住居も そこかしこ
「逢いたいね」
たまに電話ではなしても
せまい筈のこの国で
声だけ掛けあって歳月が過ぎた
兄貴より十一年も永く生き
もう少し頑張れば卆寿だったのに

喧嘩ばやくて 威勢がよくて
算盤玉模様の細帯に
向う鉢巻きりりとしめて
「義姉さん」と呼ぶ声が耳に残っている
明治生れ最後の男
しめっぽくない通夜であった

 この作品の本当の良さが判るのは、それこそ「卆寿」近くにならないと駄目なのかもしれませんが、今の私にもそれなりに理解できるつもりでおります。実際のことはまったく知りませんけど、純粋に作品として見ると「義弟」「義姉」という関係が微妙なバランスを保っているように思います。「声だけ掛けあって歳月が過ぎ」ていく間柄、「喧嘩ばやくて 威勢がよくて」と見る見方、それらひとつひとつに縁者としての親しみと、ある一定の距離が感じられます。その関係を読み取ることがこの作品のポイントではないかなと思っています。
 そして最終行。悲しくないはずはないのに、諦念とは違うカラリとしたものを感じて、これこそが一定の年齢に達しないと感じられないこと、書けないことなのかもしれません。ある種の境地のようなものを感じさせる作品だと思います。



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