きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科




2001.11.2(
)

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 日本詩人クラブの理事会がありました。今回の速報は3賞選考委員が決まったことですね。敬称略でお知らせします。
第35回日本詩人クラブ賞選考委員
 鈴木敏幸(委員長)、筧槇二、笠原三津子、金子秀夫(書記)、鈴木満、なんばみちこ、溝口章
第12回日本詩人クラブ新人賞選考委員
 川島完(委員長)、大瀬孝和、北岡淳子(書記長)、白井知子(書記)、前原正治、丸山勝久、森田進
第2回日本詩人クラブ詩界賞選考委員
 廣島一雄(委員長)、秋吉久紀夫、石原武、川中子義勝(書記)、山田直
 以上の皆様です。この3賞は公募制をとっていません。会員800名余、会員外220名余による推薦を参考にします。推薦権のある皆様、熟慮の上のご推薦をお願いいたします。


 余談:今日から頁の顔を変えてみました。「雲隠れ」という名に惹かれました。なにやら普段の私のようで^_^; 自暴自棄な性格への戒めでもあります。



会報『沼声』257号
syosei 257
2001.11.1 静岡県沼津市 沼津の文化を語る会
望月良夫氏発行 年間購読料5000円

 連載「日本の教育」の中で宮内邦雄さんという方が「教育委員会と民主教育」という文を寄せています。そこに日本の民主主義についてのお考えが述べられていました。共感するところが多いので、抜粋して紹介します。

<完全無欠の思想岩どあるわけがない。民主主義の弱点として、衆愚政治になり易いと言うのも歴史的事実であるが、民主主義と衆愚政治は別のものである。民主主義では、民の意志が実現する。良い民たちによる政治は良い民主政治となり、悪い民たちによれば悪い政治になる。民主社会での理想的形態は、思いやりの社会で、敵対し会う社会ではない。相手を傷付けて平気な社会では、民主主義は存在し得ても、力のぶっかり合い、多数決以外に解決方法はない。民主社会だから、自由に攻撃し合うのではなく、「弱肉強食」になるわけでもない。腐った社会が生まれた原因は、社会を構成する人間、特に指導層が腐っていたからである。>

 明快な見方だと思います。ただ、「特に指導層が腐って/いたからである」というのは、それはその通りなんですが、結局「悪い民たちによれば悪い政治に」なったにすぎないのではないでしょうか。いわゆるこの程度の国民にはこの程度の施政者≠ニいう見方です。ですから、政治家は政治家として責められるべきですが、結局は選挙の結果ですから国民の責任です。選挙制度の問題はちょっと置くとして、国民によって選ばれたことには変わりないのですから。翻って、低投票率は国民の責任です。そこは私たちの問題点として押さえておく必要があると思っています。
 最後に次のようにも述べています。

<理想的教育についての見解を文部省と教育委員会は示すべきである。学級崩壊にお手上げになってから「家庭のしつけ」に責任を転嫁するのは、完全な無貴任である。授業を滅らしたことによる学力不足を補うために、学習塾の役割に期待する文部省、中教審、教育委は存在理由を自ら失っている。これからは国民の総意を集めた、心豊かな民主的教育体制に道を譲って、国民に希望を与えて欲しい。>

 教育委員の任命制がやはり問題なんだろうと思います。昔、中野区でやっていた選挙制の方がよほど民主的だったろうと思います。地域住民・国民に目を向けられず、任命者にしか目が行かない制度が良くない。上にしか目が向いていないので、それをひらめ≠ニ言いますが^_^; そこを変えないと駄目なんでしょうね。いずれにしろ、こんなにスカッと言い切った文章は珍しく、読んでいて何度も何度も頷いてしまいました。



個人誌『むくげ通信』5号
muhuge tsushin 5
2001.11.1 千葉県香取郡
飯嶋武太郎氏発行 非売品

 病んでいる男 9/金 光林(キムクァンリム)

私は詐欺師でも偽善者でもない
さらに
有名な売文家でもない
ただの
物書き

詩を書いて
いつわり無く正直に
滑稽とユーモアで
大儲けしようと思っていたが
それがどうして
意のままにならない

常に
あっちこっちと追い立てられ
苦しめられていたが
とうとう
山里に引っ込んでしまった

おのずと
減退する性欲のように
欲望も殆ど無くなり
欲しいものも無くなってくる

ワンパターンの
世間を引っ掻き回す
詐欺師や偽善者が
かえって
偉大に見えてくる

 前号も金光林さんの作品を紹介したので、できれば今回は別の方の作品をと思ったのですが、どうしても惹かれてしまいますね。詩人のあり方を教えられて、スーッと通りすぎていくわけにはいかない作品です。書かれていることは当り前のことで、特別すごいことを書いているわけではないと思うのですが、精神の深いところを突かれている気になってきます。例えば「大儲けしようと思っていたが」と書かれると、一瞬でもそう思っていた自分を思い出し、「欲しいものも無くなってくる」というフレーズには妙な共感を覚えてしまいます。
 そして何より最終連が心に残ります。そうだそうだと弾劾するつもりはなく、実は私自身が「
詐欺師や偽善者」ではないのかという怖れです。自分では意識していなくても、知らず知らずのうちに、そういう潜在意識があって、「世間を引っ掻き回す」ことをやっていないか、という怖れです。そこまで考えると、そう簡単には通りすぎることができない作品だと思うのです。これが詩人の力、言葉の力なのかなと思います。



個人詩誌『息のダンス』創刊号
iki no dance 1
2001.12.2 滋賀県大津市 山本純子氏発行 非売品

 こんな私でも日本詩人クラブという親睦団体に長くいると、賞の選考委員をやれという話が回ってくるようで、この4年で2回、新人賞の選考委員を勤めさせていただきました。最初は推したい詩集も無く、様子を見たいという意識もあったので選考委員に与えられている選考委員推薦詩集の権利を行使しませんでした。しかし2回目は良い詩集に出会えて、『豊穣の女神の息子』という詩集を推薦しました。その著者が山本純子さんでした。山本さんとは一面識も無く詩集を拝見しただけですが、その健全な精神に魅了されました。私の力が及ばず残念ながら賞は逸しましたけど、これからの詩壇をリードしていく詩人だという思いは今も変りません。
 その山本さんが個人詩誌を発行したというので、うれしくなりましたね。楽しく、そしてどこかちょっぴり淋しくなる、そんな作品がこれからも読めると思うとワクワクしてきます。長く続けてほしいものだと思っています。

 新学科創設

夏休み間近の職員室では
採点にいそしむかたわら
雑談の種をこぼす人がいる

よその学校では
普通科のほかに自然研究科とか
       人文研究科とか
新しい学科を設置するらしい、
と誰かが言い出すと

それじゃあうちも対抗して
ふんわ科とか
ほんわ科とか
創ったらどうだろうか
と考え出す人がいて

クラス分けはどうするの
と声がかかれば
面接してその子がふんわかしてるか
        ほんわかしてるか
見分ければいいんだよ
とするりとかわし

それじゃやんちゃな子はどうするの
と新しく声が加われば
  にぎや科っていうのを創ればいいのさ
と助っ人が現れて

大いに気を良くした考案者は
この際、遅刻の多い子には
  おおら科っていうのも創ってみるか
と腕組みをして椅子にそりかえり

ついでに
  しとや科っていうのも創って
お茶やお花や礼儀作法の授業なんかも取り入れて
ぼくはそのクラスの担任になりたい
と机の上の書棚の陰から
身を乗り出す青年教師もいて

この部屋の
肝心の採点は
さっぱりはかどらない

 ご覧の通り、難しいところはいっさいありません。本当にこんな先生方がいらっしゃるのかと思ってしまいますが、娘の通う小規模中学校を考えるとあり得る話だと思います。教育の荒廃が言われて、ずいぶん長い時間が経ちましたが、実はこんな学校は少なくはないと思うのです。問題は問題として抽出しなければなりませんけど、こういう「おおら科」な面も前面に出てほしいものですね。「肝心の採点は/さっぱりはかどらな」くても、「この部屋の」雰囲気が大事なんだと思います。
 あるいは、この作品は現実への告発なのかもしれません
(おそらく、それは意図されていないと思いますが)。そういう読み方も可能です。まあ、あまりひねくり回さず素直に読んだ方が、この詩人の良さを理解しやすいと思いますが…。長くお続けになることを陰ながらお祈りしています。



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