きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科




2001.11.10(
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 日本詩人クラブの11月例会が神楽坂でありました。今年度から恒例になっている「新会員コーナー」では3人の女性が登場し、各々個性あふれるお話をしてくださいました。日本詩人クラブ新人賞受賞者による「私の詩の現在」は第10回受賞の白井知子さん。対外受精に関連して一度、卵で誕生することになり、それがその後にどう関わってくるか≠ニいう興味ある発言をしていました。彼女らしい視線で、やはり新人賞受賞者の発言というのは新鮮ですね。例会を企画している丸山理事の目論見が見事に的中したな、と思いました。
 講演は第1回日本詩人クラブ詩界賞受賞の秋吉久紀夫さん。現代詩批判と題して「中国現代詩から見た日本現代詩」を話してくださいました。隣の国、しかもわが国の文明・文化の恩人である中国のことを、私たちはいかに知らないかを思い知らされましたね。例えば現代詩≠ニわが国では呼んでいるけど、中国では近代詩≠ニいう意味になること。当代詩≠ェそれに当てはまることなど、まったくの初耳です。論語についても同じようです。日本では論語の解釈はほぼ一定していますが、中国の歴史の中では過去にまったく反対の意味に解釈されていた時期もあったようです。それらを念頭に置かないと中国の話はできない、他国を論ずるときは同じように歴史をかなり知らないうちはやるべきでない、というのが私の結論です。

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 秋吉さんは九州からおいでになったのですが、それにしては参加者がちょっと少なかったかな、と思います。それでも40名ほどでしょうか。最近は超満員が続いているので、ちょっと少なくなると目立つんですね。2〜3年前の40名といったら大盛況の部類なんですけど、それだけ最近の例会は賑っているとご理解ください。

 いつもなら二次会に率先して雪崩れ込むんですけど、今日はサボりました。豊岡史朗さんの「詩の朗読の夕べ」が17時半から青山であったので、そちらに伺いました。最近、土曜美術社出版販売から「現代詩の10人」というものが発売されていて、その一環で『アンソロジー豊岡史朗』が出版されています。その詩集の出版記念会のような形でした。場所は青山、会場は「
Old Fashioned Bar」というバー。甘いマスクの豊岡さんにはぴったりの演出です。

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 美女二人と豊岡史朗、うーん、絵になるなあ。タバコの煙が漂っているのもいい雰囲気だと勝手に思い込んでいます。20名も入ればいっぱいのバーを貸し切っての朗読会で、しこたま呑んじゃいました。酔った勢いで(嫌いな言葉なんですけど)、格好ばかりつけないでもっと自分の恥を出せ、なんて豊岡さんにカラんじゃいました。彼は詩集を繰って「これと、これと、それからこれは恥を書いてます」と具体的に示されて、早々に退散しましたね。どうも自分よりいい男となると、すぐにカラむのは私の悪い癖だ^_^; 豊岡さん、ゴメンナサイ。
 ご本人の朗読も良かったですよ。朗読というものを知っている人だと思いました。朗読や舞台を専門にしているらしい女性も豊岡さんの詩を朗読しましたが、こちらは不満でしたね。朗読はうまいんですが、豊岡詩の朗読になっていない。ご自分の詩を朗読するなら120点あげるけど、豊岡詩の朗読には70点しかあげない、とその女性にもカラんでしまいました。どうも美女にもカラむ癖があるようです^_^;



季刊文芸誌『南方手帖』67号
nampou techo 67
2001.10.30 高知県吾川郡伊野町
南方荘・坂本稔氏発行 800円

 女房どのの名前/清岡俊一

結婚したての頃、
ふとしたひょうしに
  
・ ・
別のひとの名前で呼びはしまいかと
ひどく心配したことがあった。

もしかしてボケになる頃、
ふとしたひょうしに
  
・ ・
別のひとの名前で呼びはしまいかと
ひどく心配しそうになることがあった。

父が病院で、  
・ ・
聞いたことのないひとの名前を
口にした日だ。

 これは怖いことですね。私も同じことを考えていた時期があって、最近は少なくなってきたんですが、やはり「ボケになる頃」を心配するようになりました。同じ思いをしている人がいるのが判って、なにやら同志を得たような思いです。
 やはり最終連が効いていると思います。表面的な父上の様子の裏に、作者の父親を思う気持が読み取れて共感します。さらに「父も男」という同性への眼差しをも読み取ってしまうことは、読み過ぎかもしれませんね。さらに「女房どの」との関係まで勝手に想像して、小品ながらなかなか奥深い作品だと思いました。




現代詩の10人アンソロジー小川英晴』
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2001.11.15 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2500円+税

 土曜美術社出版販売のこのシリーズは、私と同世代の詩人を売り出すのが目的のようで、楽しみなシリーズのひとつなんですが、今回も期待は裏切られませんでした。小川英晴さんは日本詩人クラブの理事としてご一緒する前から存じ上げていて、人柄も好きな詩人です。しかし、彼の詩集というのは全く持ち合わせていなくて、最近いただいた『死者の書』しか読んでいません。もうちょっと若いときにどんな詩を書いていて今があるのか、知りたいと思っていたときにこの詩集をいただけて、うれしかったですね。
 
1978年に同時に出した『予感の猟場』『夢の蕾』をはじめとして1994年の『メインディシュ』までが網羅されています。全集と違って各詩集からの抜粋ですから、そういう面での不満は残るものの、小川詩の全体に接するには都合のよい本だと思います。

 

トマトのみだらなないぞうを
うすくきれいにとりだして
しおをかけてたべてしまうなんて
これほどはずかしいことがあるだろうか
ひりひりしたすはだは
またたくまにうつろになって
きもちよさそうに
しっしんしてしまった

トマトほど
みをまかせやすいたべものは
そうほかにはないだろう
くだものやのかたすみにさえならぶことなく
しんせんなやさいたちにまじって
きようもトマトはひとりで
ふっくらぷりんといいゆめをみながら
はずかしいないぞうを
うっすらとすきとおらせているのだ

 私が読みたかった詩集のひとつに
1990年刊行の『トマト感覚』があります。紹介したのはその中の一部で、どうもT〜Xのように数字だけをタイトルにしているようです。年齢を逆算すると30代後半の作品と思われます。私にも記憶がありますが、その年代というのは性的にもアクが無くなってくる頃で、面白い時期でした。そんな齢頃に書かれた作品かと思うと、何やら近しいものを覚えます。
 それにしてもトマトを性的に表現するとは、ちょっと出来ないことだなと思いますね。しかもちゃんと昇華されていて見事な詩と言えましょう。「はずかしいないぞう」とは、言い得て妙です。そんな感覚≠ナ、こんどはトマトを齧ってみましょう
^_^;



文芸誌『らぴす』15号
lapis 15
2001.10.30 岡山県邑楽郡長船町
小野田潮氏発行 700円

 高木寛治という方が「石・自然・社会」という文章を書いています。2001年3月12日に岡山県総社市で起きた採石場土砂崩れ災害への考察です。なにやら、私もたまに目にする災害報告書を読んでいるようで、事実の重さも加わって一気に拝読しました。
 しかし、県の労働衛生局などが発行する災害報告書と決定的に違うのは、筆者が保健所勤務の方だという点です。地域の保健衛生などを預かる身として書かれていますから、視線は自ずと違ってきます。社会が近代化されていく中で、従来の危険は対自然のものであった。しかし、現在は人間が作り出した技術による危険が増大している、と説いています。それらにも保健所は対応しようとしているのか、と驚くとともに、その危険の種類が変ったという指摘には納得できます。
 私は化学工場の一技術屋ですから、指摘されたことには薄々気付いていましたけど、説得力のある文章に出会って、思いを新たにしました。自分の出来る範囲でしか行動しようもないけど、社会に与える危険を少しでも減少させる仕事をしようと…。
 『らぴす』は特に銘打っていませんが、私は文芸誌ととらえています。その中に、このような考察が書かれていることに一種の安堵を覚えています。文芸のみが単独で存在することはあり得ず、このような文章もあってこそ始めてバランスがとれるのだと思います。



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