きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2001.12.4(
)

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 出張で江戸川区に行ってきました。初めての関連会社で、考えたら江戸川区も初めて訪れたように思います。いわゆる町工場の多い所のようで、庶民的で親しみが持てました。
 昼食は区民会館のような所で採ったのですが、ちょうど幼稚園児の母親の集会があったようで、若いお母さん方、100人ほどの中に入ってしまいました。20代後半から30代前半という年齢の方たちでしょうか、女盛りという感じで、いい雰囲気でしたね。江戸川区の好印象の原因と断言します^_^;



酒井力氏詩集『藻の詩想』
mo no shisou
2001.11.30 東京都千代田区 沖積舎刊 2500円+税

 まどろみ

うっすらと
青みをさして
朝がやってきている

空白の一枚の障子は
やわらかな風景をたたえ
外気を浸透させ
鳥たちの姿を呼び入れる

暗がりを掬いとる光のすじ
部屋という空間さえ
次第に溶かされながら
なにくわぬ顔で
外へ流れ出ていく

ふと気がつくと
ぼくの周りには
高原の空気が冷たくのしかかり
頭上に鳥は鳴き
木々の葉ずれが音を立てる

湧き水のささやきが膝元をしめらせる
そのとき
はや 家という外形はない

 作者は信州にお住いの方です。「高原の空気」が何とも言えない味をもって迫ってくるようです。いや迫る≠ニいう表現は適切ではありませんね、漂ってくる、とでも言ったらいいのでしょうか、たまに体験する高原の朝をうまく書いていると思います。そして、高原の空気の中で、「はや 家という外形」も無くなるというのですから、作者の感受性には驚くしかありません。
 私事で恐縮ですが、信州には及ばないものの拙宅も高台にあります。この時期ですと午前6時
58分頃、東から黄金色の太陽が顔を出します。それまで冷気の中で静まりかえっていた庭の樹木が、一斉に太陽に顔を向けていくようで、清々しさを覚えながら見ています。作品は「まどろみ」ですから、そんな私の意識している時間より、もうちょっと早い時間のようです。私の朝はまどろんでいる余裕がなく、目が醒めたら飛び起きて、という状態です。作者の、朝を楽しむ余裕を、私にも欲しいものだと思いましたね。詩に対する作者の態度も、そんな違いからも感じてしまいました。



ささきひろし氏詩集
『いつかある日』
大宮詩人会叢書第四期14
itsuka aruhi
2001.11.20 埼玉県さいたま市
大宮詩人会叢書刊行会刊 1300円

 吊り革

発車寸前の通勤電車に駆け込む
車内は なぜか
いつもと違う雰囲気が漂い
大勢の人が
大きな吊り革にもたれ
死んだように眠っていた

ある人が
ふいに
吊り革に首をかけてみた
----おお なんと気持ちがいいんだ
別の人が
網棚によじ昇り
ベットがわりに横たわった
----おお なんと快適なんだ

電車が止まる度に
吊り革に首をかける人が増え
網棚に横たわる人が増えた

軌む車輛の音と共に
電車は都心を離れ 郊外へと
暗闇を一直線に 突き進む

あと何年 この電車で
吊り革に首をかけるのだろうか
----キイーッ
急ブレーキと共に 我に返る
熱睡していたようだ
なんだか 首がいたい

 作者は私と同年で、同じ北海道生れ、上京して首都圏暮しですから、近い感性を持っているのは当り前かもしれません。母上を亡くされたことまで同じで、何やら双子のような気になってしまいます。お酒もお好きなようで^_^;
 故郷や母上のこと、仕事のことなどは、まあ、そっくりと言ってしまってもいいかもしれません。もちろん個性の違いがありますから、そっくり同じというわけはありませんけど。その一番の違いを感じたのが、紹介した作品です。詩集の中でもちょっと異質と言ってもいいでしょう。作品の質という面でも、この作品は買っています。ここには、うたた寝の世界があって、作者の論理的な他の作品とは一線を画していると思うのです。論理的な作品は、これからどんどん書いていけば、どんどんうまくなっていくと思います。しかし、この作品のような世界は、書くだけではうまくなりません。これこそ詩人の、まったく個の世界です。ここは大事にしてほしいところなんです。
 他の作品の分野は私も書きました。いわば誰でも書ける部分でしょう。しかし「吊り革」は私は書いていない。おそらく書けないでしょう。詩の構成や選んだ言葉に若干の不満が残るのは正直なところです。構成の面では単純な時間順ではなく、ちょっと配列を変えるだけでもっとおもしろくなるし、電車は決して「一直線に 突き進」まないと思うのです。でも、そんなことは単なる技術的なことで(実は大事で、簡単に否定できないんですけど、それは置くとして)、詩としての「なんだか 首がいたい」というフレーズが生きているんです。そこを是非伸ばしていただきたい。そういう意味でも重要な作品だと思うのです。
 第一詩集ですし、これからもどんどん詩を書いていきたいというご本人の言葉も直接うかがっていますから、ついつい余計なことまで書いちゃいましたけど、誰でも書ける部分も腕を上げて、誰でも書けるわけではないという部分は、より大事にしていただきたいですね。何はともあれ、第一詩集ご出版、おめでとうございます!



石井春香氏詩集『砂の川』
suna no kawa
2001.12.1 大阪市北区
編集工房ノア刊 2000円+税

 私のギネスブック

何日間眠らずにいられるかと挑戦して
十二日間の記録で
ギネスブックに載った人がいる

私は八日間
すっかり闇と仲良くなった娘に
目が離せなくなっただけの話

一日二日は 毎度のことで平気です
三日眠らないと思考力が低下します
簡単な計算ミスをして軽蔑されます
四日目 記憶装置が壊れます
 何も覚えられません
五日六日は
 まっすぐ歩けなくなります
 あちこちにぶつかります
七日目
 上瞼が嫌というほど
 ニュートンの引力を証明します
 人差指で目を開けねばなりません
そして八日目
 一切の物音が消滅します
 無音の世界です

とうとう その日の深夜二時
私に構ってほしい娘が
家の中に火を点けてまわるのを尻目に
 水を張ったバケツを放って
寝てしまいました

九日目の朝になったら
炭化した私が
焼け跡から出てくるかもと思いながら

 なんとも痛ましい詩集で、胸を打たれました。全編、不安神経症という病気の末に亡くなった娘さんへの鎮魂歌です。紹介した作品は、文字通り不眠不休で娘さんに接した著者の姿です。母娘の愛、と言ってしまえばそこで止まってしまいますが、著者はあとがきの中で次のように述べています。

 「子を失った母の悲哀は、古今東西変わらないもの。例え、どんな形で亡くそうとも。また、こういう形で旅立って行った娘にも、人智では量り知れない深い意味があったのだと思います。」

 作品と、このあとがきを見るとき「人智では量り知れない深い意味」をどうしても考えざるを得ません。精神的なものを含めて病気は、ある確率で出現するものと言われています。しかし、その確率の該当者にとっては
100%です。そのとき「人智では量り知れない」ものを感じてしまうように思います。私自身が神経症と診断された過去を持っています。そのときに、やはり同じ思いをしました。詩を書く者には避けて通れない道と納得していましたが、二度と繰り返したくない体験でした。
 娘さんが亡くなって6年が過ぎたそうです。こうやって詩集にまとめたことによって、おそらく著者にも吹っ切れたものが出てきたのだろうと想像しています。子を亡くした経験もないのに、無責任なことは言えませんが、それでも事件をバネにして書き続けてほしいと願っています。それが一番の供養になる気がしています。娘さんのご冥福をお祈りいたします。



個人誌Moderate16号
moderato 16
2001.11.25 和歌山県和歌山市
出発社・岡崎葉氏発行 年間購読料1000円

 幸せの輸郭/岡崎 葉

夏が来て
レストランのテーブルクロスは
淡いグリーンに変わった
城を囲む木々の印象も
桜から新緑へ やがて深い緑になり
いまは強烈な日差しを浴び佇立している

四季の移りを窓外の景色に感じて
朝のわずかな時間
幸せのかたちを探して働く

早春の陽光が家裁の玄関ロビー一杯に届いて
わたしの顔を一瞬 輝かせた日から
生き延びる方法を考えてきた

詩を書く営みはそのための一つ
いまの時間を 優雅なひとときに変える
空虚な心に 新しい発想を立ち上げる
無益な積み重ねも
大きな自信に繋いでいく

夏が去り
風が涼やかに流れる頃には
テーブルクロスもピンク色に戻るだろう
そして木々は色付き 一年がめぐり
わたしの不安な生活は変わらずに
幸せの輪郭がはっきりと見えるまで
生きることをあきらめないだろう

 詩を書くひとつの理由がここには述べられています。「いまの時間を 優雅なひとときに変える/空虚な心に 新しい発想を立ち上げる」というフレーズには、作者の健全な精神を見ることができます。そして私たちを悩ましている「無益な積み重ね」というジレンマも、作者は「大きな自信に繋いでいく」と断言し、その前向きな姿勢に励まされます。
 私事で恐縮ですが、仕事の出張で年に一度、和歌山市に出かけています。特急「くろしお」に乗って和歌山に近づくと、遠くに「城を囲む木々」を見ることができます。作品中の城と同じなんだろうなと想像して拝見しました。和歌山市には長くて一泊二日、場合によっては日帰りの滞在ですから詳しいわけではありません。しかし短い時間の中で、限られた人たちとお話をしただけでも紀州藩のおおらかな精神に触れた思いをしています。作品の背景にもそれを感じてしまいますが、読みすぎかもしれませんね。



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