きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.12.7(金)
その2 その1へ
○アンソロジー『大宮詩集』24号 |
2001.12.2 埼玉県さいたま市 大宮詩人会・宮澤章二氏発行 1300円 |
大陸の脱穀風景/宮川チエ子
道路の真中に山と積み上げられた 菜種の茎
往来する車が その上を踏みつぶしていく
大きな箕で掬って空に抛り上げ
風に莢とゴミを飛ばさせる
群がっている男と女
菜種の莢が髪にも身体にも振りかかっている
慣れ切っているのか 車は警笛も鳴らさない
脱穀に協力する如く 平然と走っている
畑の中では 昔秩父で使っていた棒の先に
一本の棒をつけ回転させ脱穀する「くるり」で
大地を叩き どしん どしんと菜種を打っている
此方では打つ棒が三本もついていて 面白い
長江のほとり武漢
三国志の赤壁の古戦場あたり
いけどもいけども小麦畑と菜種の畑
三国志の時代からつづく同じ風景に違いない
今頃は麦秋
道路上の脱穀は小麦にかわり
男も女も
大きな箕を風に向って振っているに違いない
わめき合い 笑い合いながら
大陸の気風そのままに
行ったことはありませんが、中国らしい大らかさがうまく表現されている作品だと思います。「往来する車が その上を踏みつぶしていく」という知恵、「脱穀に協力する如く 平然と走っている」クルマの姿に「大陸の気風そのまま」を感じてしまいますね。「風に莢とゴミを飛ばさせる」という工夫にも驚かされました。
何でも機械化を考えたがる私のような技術屋への警告とも受取りました。機械化は高能率で高品質の生産には欠かせません。しかし重大な欠点もあるのです。未来永劫に続く機械は作れないということです。必ず寿命がきます。「風に莢とゴミを飛ばさせる」という機械化≠ノは寿命はありませんね。長い目で見たときにどちらが得か、考える必要があるでしょう。作品を通してそんなことまで考えさせられました。
○季刊詩誌『天山牧歌』53号 |
2001.11.20 福岡県北九州市 天山牧歌社・秋吉久紀夫氏発行 非売品 |
パレスチナの土地/アイム・サロメ 秋吉久紀夫訳
ぼくは身を伏せこの悲しみにくれる土地に接吻する、
この接吻がわたしの心の限り無い悲痛を引き起こす。
ぼくはこの土のかぐわしい香りを一途に喚いでいる。
同志たちはもう地下で先祖と顔を会わせているはずだ。
村人たちの痛手がぼくを苦しめる、
ぼくはあの人たちが好きだ、慰めることがかなわない
から恥ずかしくってたまらない。
狂風のなかで、かれらのテントはもう支えきれなくな
っていて、
泣き声からもかれらの住まいの悲鳴を聴きとれる。
鮮血滴る歳月のなかからはもうかれらの足跡は発見で
きず、
親しい友のべッドにもうかれらの姿形は探し出せない。
破壊された家具は丘に堆く積み重ねられていて、
難民たちは洞窟のなかで身を横たえている。
土地という土地にはどこにでも流浪する難民がおり、
テントというテントにはどこにでも辱めを受けた難民
がたむろしている。
ぼくはかれらの災禍を踏んずけ至るところを放浪(さまよ)う、
祖国は廃墟と変わり、ぼくはまるで復讐の亡霊みたい。
ああ、大災害を受けている祖国のわかものよ、
希望はなおもきみらの褐色の額に閃いているか。
きみらは祖国のこどもたちだ、敵の陰険さにびくとも
してはならぬ、
勇敢なものがどうして悪魔にとって代われないことが
あろう。
きみらは祖国の不朽な栄誉を打ち樹てるのだ、
その栄誉はきっと世々のひとびとが相伝えねばならな
い。
高い峰を貫く道路は確かにいちめんの暗黒だが、
きみらが松明を高くかかげさえすれば、方角が探知で
きないなど憂えることはない。
* * *
風采のあがらないひとよ、きみはなんでこの常に変わ
らぬ大地を洞察できないのか。
きみはもはや行く道を失っている。
死刑執行人の刀に染みた鮮血がなんできみを苦しませ
ることができないのか。
きみはもはやあれらの殺人犯とともに悪事を働く不埒
なやから。
このパレスチナの土地がきっときみを憂えさせている
のでは、
彼女はいま死んだものや異郷を流浪する肉親たちのた
めに嘆き悲しんでいるのだ。
彼女はいま髪を振り乱して勇敢な戦士のために痛み悲
しんでいて、
かれらは前線へ赴く武装のままでまだ寛(くつろ)いではいない。
彼女はいま純潔な少女のために嘆き悲しんでいて、
勇敢な騎士は彼女たちの衣服を汚してはいない。
彼女はいま卑劣者の言うところの国家のために憂え悲
しんでいて、
権力握る者はどいつもこいつも偶像で、身なりだけが
華やかであるばかり。
かれらには国がないし、国のために戦うこともなく
ただ止むことのない人民ヘの攻撃があるばかり。
統治者は、明日は、われわれがきみらの家庭を防衛す
ると言うが、
かれらのすることなすことまったくなってはいない。
ぼくらはいま自分自身の栄誉のために憂慮し心痛めて
いるが、
最後の悲しみはかならずやかれらに巡って来るはずだ。
かれらは尊厳を説くが、ぼくらは質す、だれが尊敬に
値いするかと。
かれらは人格を説くが、ぼくらは質す、きみらのなか
でだれがいったい人間なのかと。
かれらはパレスチナを売り渡したのに心に恥じるとこ
ろがない、
かれらの良心はもはや米ドルで灰燼に帰してしまった
のだ。
* * *
ひとびとは、このながいながい流浪をしつづけているが、
いまや訪れようする黎明ゆえに、希望に溢れているのだ。
祖国は金銭で買えないもの、
もっとも字宙万物のなかで代え難いものだ。
これこそがぼくらの叫び声なんだ、
時代も耳を傾けて聞いているし、歴史もこだまを響か
せているのだ。
(一九六四年八月 作家出版社刊 アイム・サロメ詩集『祖国頌』二七頁)
おそらくこのHPでパレスチナの詩人の作品を紹介するのは初めてだろうと思います。作家出版社というのは中国の出版社のようで、そこから秋吉さんが翻訳したものと思われます。1964年出版の作品ですが、それから事態がまったく変化していないのに驚かされます。パレスチナ問題は日本人には苦手で、ごだぶんに漏れず私も理解不足です。アメリカの後押しによってイスラエルが建国され、それに追われてパレスチナ難民が出現した、という程度の認識しかありません。
宗教紛争に民族紛争がからんだ難しい問題で、そのことに軽々しく触れることはできませんが、詩作品として見た場合に、追われた民の一員としての詩人の叫びに「耳を傾けて聞いて」いく姿勢は持ちたいと思います。私が同じ立場に置かれたらどう書くのか、非常に考えさせられる詩編です。世界中で書くべき詩人がちゃんと書いているという思いを強くしました。それにしても再びパレスチナとイスラエルの紛争が始まってしまった現在、何も進展のないこの50年余りを、世界の人々はどう扱うべきか考えなければならないでしょう。アメリカの自国の利益のみを考える政策でなく、人間全体の利益、地球全体の利益を考えることが必要だと思っています。
○詩誌『燦α』12号 |
2001.12.16
埼玉県さいたま市 燦詩文会・二瓶徹氏発行 非売品 |
蝿/さたけまさこ
いっそ
ひとおもいに
いきのねを
とめたほうが
やさしいのか・・・?
さっちゅうざいを
かけられて
のたうちまわる
蝿を
みて
おもう
わたしは
せっしょうは
すきではない
が しかし
ころすときは
ひとおもいに
ころしたほうが
やさしいのだろうか
しぬという
いしきさえもないままに
なあ蝿よ
おまえは
どう殺されたいか
怖い詩ですが避けて通れないことだと思います。私たちは毎日、害のある昆虫を殺し、植物を食べ、誰かが殺してくれた動物を食べて生きています。蝿を殺すのは直接の生存には関係ないとは言え、不衛生で、特に幼児が居る場合は神経質になってしまいます。それを咎めることは良寛さんでもできません。しかし、私たちはどうあがいてもそういう存在なのだということは肝に銘じるべきでしょう。それを改めて知らせてくれた作品だと思います。
つくづく、人間に限らず生物というものは罪な存在だと思いますね。動物、昆虫は言うに及ばず植物さえも自分のテリトリーを守るためには同属さえ駆逐します。神はなぜそういう形に生物を作ったのか、いずれ科学の眼で解明できるかもしれません。
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