きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2001.12.14(
)

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 出張で和歌山市に行ってきました。昨年は初めて訪れたということもあって、一泊二日の日程だったんですが、今回は日帰り。日帰りできない距離じゃないけど、朝は自宅を7時に出て、帰宅は23時半、キツイにはキツイ日程ですね。和歌山には5時間ほど滞在できましたから、仕事は無理なくできましたけどね。まあ、できれば一泊で行きたい所ではあります。



詩誌『青い階段』68号
aoi kaidan 68
2001.11.30 横浜市西区
浅野章子氏発行 500円

 不運な雑草/浅野章子

ホテルへ行こうよ ホテルへ行こうよ
海の見えるあの窓辺の部屋
若いミュージシャンが歌っている

あいつがバンドホテルの海が見えない部屋から
天国へ飛んだのは 今年みたいに暑くじっとりとした夏だった

どうしょうもなく気のいいやくざだった
バラック建ての運河沿いの部屋の
西日に焼けた畳のへリに突きたてたナイフが光ったが
ふしぎと恐くなかった
闇市と言う言葉も死語になったが
つまらない商いにも闇と言う言葉がついてきた
赤じょうちんの屋台のがたついた腰掛けで
聞きかじった噂話をねたにすごんでいる
せきこむ青白い恐喝者は胸を病んでいた

あいつのことを思い出すと なぜかモルナールの戯曲
「リリオム」を重ねてしまうのだ
一日だけ地上に帰ることを許された星の番人のビリーを
しかし あいつはビリーじゃない 雑草だったんだ
時代はいやおうなく運河を埋め
広い道路を創りはじめた
あいつは 残土運びのトラックから役げ出された
土塊につかまっていた 不運な雑草だった

この夏アスファルトの道 光り 車ながれ
若者の歌ながれ 時ながれ
消えてしまった わたしのなかの運河の底に
名もない青い草がそよいでいる時がある

 「バンドホテル」はもう無くなっていると思います。山下公園のそばで、何度か泊った記憶があります。もちろん「どうしょうもなく気のいいやくざ」なんていませんでしたけど。この作品の時代は敗戦直後でしょうか、私の知らない世界ですが雰囲気は理解できますね。「あいつ」の人間像が具体的で、よく描かれていると思います。
 「あいつは 残土運びのトラックから役げ出された/土塊につかまっていた 不運な雑草だった」という比喩がよく効いていると思います。中流意識の強まった最近では、なかなかお目にかかれない人間です。みんな横並びになって、ある意味では懐かしい人間と言えるでしょう。横浜らしい作品と思いました。



下村和子氏詩集『隠国青風』
komoriku seifuu
2001.12.10 東京都千代田区
砂子屋書房刊 3000円+税

 詩集を拝見していて、記憶にある作品に出会いました。「赤い贈りもの」という、特攻隊の青年を題材にした詩です。調べてみたら今年の8月8日のコーナーで紹介していました。詩誌『叢生』115号にお載せになった作品でした。うれしかったですね。私がちゃんと記憶していたということ、再び優れた作品に出会えたということが。しかしここで再度紹介するのも芸がないので、今回は次の作品を紹介します。

 

繰り返すものが
だんだん好きになってきた
二万回は見た筈なのに
それでも 倦きない

幼い頃
振り返って 母さんの笑顔を確かめては
ちょこちょこ走り廻った記憶がある
大切なものは平凡なもの
当り前だ、と思っているもの
やっとそれだけ分ったのだ
じっと赤を視詰める

先刻まで
どうしてあんなに忙しく
右往左住していたのか 慌てていたのか
独りで くすっと、笑っている

 「大切なものは平凡なもの」というフレーズに惹かれました。この発見が大事なんでしょうね。ここから初めてオトナになるような気がします。最終連も見事だと思います。人生の極意を見せられたように感じました。詩集全体にそれは言えることです。勉強させられました。



田川紀久雄氏詩集
『寂寥はどこから』
sekiryou wa dokokara
2001.12.15 東京都足立区
漉林書房刊 2000円

 言葉を失った時代

心の中でギギギッッギギーン ギギギッッギギーン カラッカラッッカーン
という音が聴こえてくるのです
神経が捩れる音なのかもしれません
冬になろうとしているのに
街の中では路上で寝ている人達が目につきます
私は何一つとてしてやれないのです
ただただ心がギギギッギギーンと鳴るだけなのです
戦後生き抜いてきた世代の人達は
いま絶望の淵に立たされているのです
ただただ豊かさのみを追い求めて生きてきたのです
その挙句の果てが社会の崩壊を招いてしまったのです
立ち上がって生きねばならないのに
何を信じて生きていけばいいのでしょうか
自然に生きる動物たちも
行き場を失い里に降りてくると
銃殺されたり 車に跳ねられて死んでいくだけです
今のひとたちも動物と同じように
ものを言うことを忘れてしまったのです
生きる勇気と気力を失ったとき
この人間仕会は崩壊してしまうのです
けれど小さな愛があれば
まだ未来に託していける生命が新たに生まれてもくるでしょう
国は国民
(たみ)のためにあるのです
それが一部の企業のためにしかなくなってしまっては
だれが国を信じて生きられるのでしょうか
人々は国家の為に生きているわけではないのです
家族のため
友達のため
その程度の中で真剣になって生きてきたのです
家族すら守れない時代になっているのです
心がギギギギッッギギギーンと鳴るのも致し方がないものです
私は今年も秩父に詩語りに行きます
秩父困民党の物語を荒川の河原で語る為にです
明治十七年十一月一日に起った事件なのです
 (一九九九年十一月二十六日)

 田川さんの著作を拝見していると「詩語り」という言葉が多く出てきます。詩の朗読をそんな風に言っているのかな、という程度にしか考えいませんでしたが、この詩集を拝見して、それは間違っていることに気付きました。単なる朗読ではなく、語らなければ駄目なんですね、この作品のように。
 残念ながら田川さんの詩語りを一度も体験していません。ひとつの作品を語るためには何百回も練習をするそうですが、その成果としての語りに興味があります。何百回も練習をして、というのは私も同感です。それでもおぼつかないのが朗読であり語りだろうと思うのです。ですから私は基本的には朗読を断っています。そんな練習をしている閑はない。それだけで何日もとられてしまいますから。おつき合いで何度か朗読らしきことをやってきましたが、いつも赤面でした。
 「ただただ豊かさのみを追い求めて生きてきたのです」というフレーズには辛い思いをします。化学工場の技術屋として、高効率と高純度を求めた
30年余の生活でしたが、何が残ったか。自分の子さえ就職できない設備を作り上げてしまいました。今まで30人必要だったものをたった3人で動かせる設備にしたということが「その挙句の果てが社会の崩壊を招いてしまった」ことにつながってしまったのだろうと思います。「家族のため/友達のため/その程度の中で真剣になって生きて」いくべきなのが本来の人間の姿かもしれません。考えさせられることの多い詩集です。



詩誌『見せもの小屋』37号
misemono goya 37
2002.1.1 東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏発行 500円+税

 海原/磯 安代

大海原へ
波の間をいったりきたり
灰色の雲 激しい雨風
いっそうの小舟
いったりきたり

私が今している表現て何だ
伝えたい言葉
力いっぱい言わないと
伝えたい言葉
表そうとすればするほど
伝わらない
自分てものは表そうとしなければ
表れないと思っていた

 意識の不滅を想い
 精神の不滅を想い
 未来に生きていた
 少女の頃

人によって私は自分を知っていく
無私になりたいと願いつつ
真の自分を知りたいと

 いったりきたり
 過去
 未来

 意識の不滅を想い
 精伸の不滅を想い

 今 じたばたしている

 表現≠フ基本的な問題が述べられていると思います。「力いっぱい言わないと」伝わらないと思っていた時代を過ぎ、「人によって私は自分を知っていく」境地に作者が入っているな、と私自身を棚にあげて思います。それから先の境地もきっとあるのでしょう。私には判りませんが…。
 結局、「今 じたばたしている」ことが大事なんでしょうね。そのじたばた≠サのものが表現≠ナあるように思うのです。じたばたすることで、やっと獲得できるものもあるんでしょう。最終行が印象的な作品でした。



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