きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.12.17(月)
その1 その2へ
半蔵門までシンクタンクの日本支社長を偲ぶ会に出かけてきました。社員教育を担当してくれている会社で、アメリカに本社があります。その支社長と私とのつき合いは10年を超えていて、私が社内教育をやるときの、まさに先生でありました。一ヶ月余前にも会って、当社社員の定年退職祝賀会をやろうと言っていたばかりでした。
偲ぶ会に集まった人たちは日本を代表するような企業のトップクラスばかり。私のようなヒラ社員にはちょっと居心地が悪いところもありましたけど、なに、教育の実践ならこっちが上だと変な開き直りをして、故人を偲びました。支社長は当社にとっても重要な人物でしたから、今後の当社との関係に多少の不安がありますが、まあがんばってやるしかないでしょう。それが故人への恩返しだと思っています。ご冥福をお祈りいたします。
○詩誌『黒豹』98号 |
2001.12.10 千葉県館山市 黒豹社・諫川正臣氏発行 非売品 |
薔薇の家/諌川正臣
−薔薇の木に薔薇の花咲く
何ごとの不思議なけれど− 白秋
その家の庭にはいつも薔薇が咲いている
散歩のときの楽しみのひとつ
低い垣根ごしにいつ見ても薔薇の花
主の好みは薔薇ひとすじと言わんばかり
秋の盛りを過ぎても一輪や二輪
暮になっても年を越しても咲いている
返り咲きとでもいうのだろうか
いや育てるうえでの工夫の成果とも
それにしても霜や氷の連日の寒さ
枯木のような枝に花を咲かすのだろうか
なんだかあやしい
もしかしたらあの花は
いまは造花も材質がよくなって
ちよっと目には本物そっくり
輸入の花には造花を思わせる花もいろいろ
触ってみても見分けがつかないほど
さては主のいたずら趣味か
それとも道行く人へのサービスか
騙されてもいい 美しいものは美しいと
今日も立ち止まって見とれている
第3連で、アッと思いました。確かに最近の造花は「触ってみても見分けがつかないほど」です。私も喫茶店などではついつい触って確認してしまう方です。造花と判るとその店の品性を疑ってしまうほど…。そんな私と作者とでは決定的な違いがあるのも発見しました。「騙されてもいい 美しいものは美しいと」作者が見ていることに、私との大きな差異を感じてしまいました。
考えてみれば他人様の庭の薔薇ですから、行きずりの者が憤る必要はありませんね。喫茶店の花が造花であろうが本物であろうが、私がとやかく言う筋合いではないのかもしれません。怒る相手を間違えてはいけない。そんな生き方の本質的なところを教わったように思います。
○新延拳氏詩集『わが祝日に』 |
2001.12.15 東京都豊島区 書肆山田刊 2500円+税 |
おそらくこの詩集の中で最も優れている作品は「聖ミハエルの祝日に」だろうと思います。詩集のタイトルもそこから採っているようです。口絵にはオランダの博物館から許可を得て載せた、ヘンドリックという画家の1640年作の家族の肖像画があり、それをモチーフとした作品です。しかし、これについては跋で高橋睦郎氏が丁寧に解説されていて、それ以上述べることがありません。ならば次に紹介したい作品はこれです。
画布の彼方ヘ
高原の町を起点に
曇天がかぶさっている裏妙義山麓の峡の町まで
碓氷峠の廃線敷を歩く
記憶を呼びさますような沢の音が聞こえたり
崩れかけた変電所の跡や
間伐の木が転がっていたりする中を
ひたすら歩いていく
途中から線路脇の小道も途絶え
枕木を伝っていく
突然後ろから警笛
振り返ると
特急あさま号を連結して
急勾配を下りてくる機関車EF63
眼鏡橋という明治時代につくられた
高い陸橋の上を歩いているので
避難しようにも避難しようがない
制動をかけるブレーキと車輪と線路の軋む音
両手を大きく広げて叫ぶ
止まれ
止まってくれ
気がつくと
一枚の絵の前
画中の碓氷峠は一面の緑の中
誇り高い峠のシェルパEF63は
その画布の彼方ヘ
いままさに消えていこうとしている
こちらも絵が題材となっており、過去と現在との境目が無い点が魅力の作品です。詩でしか描けない現象と言ってもいいでしょう。作品とは関係ないのかもしれませんが、著者は鉄道の関係者で、そのためか「廃線敷」「特急あさま号」「機関車EF63」「眼鏡橋という明治時代につくられた/高い陸橋」など、素材が具体的です。その具体性ゆえに白昼夢が奏効していると思います。
詩集全体に、この現実と夢とのあわい、現世と死が同居していて、独特な世界を見せてくれています。最近亡くなった母上の影響かもしれません。肉親の死というものがひとりの詩人にいかに影響を与えるか、というものまで読み取るのは読みすぎの謗りを受けるかもしれませんが、そういう面でも印象に残る詩集だと思います。
○詩誌『交野が原』51号 |
2001.10.1 大阪府交野市 交野が原発行所・金掘則夫氏発行 非売品 |
山頂で/中原道夫
たとえば
歩くことより
自転車に乗ることが
たとえば
自転卓に乗ることより
自動車に乗ることが
たとえば
自動車に乗ることより
空を飛ぶことが
たとえば
読み書き算盤よりも
パソコンで処理することが
幸せになるためなのだと
だれが言えよう
拾ったものと
落としたものと
失ったものと
手にしたものと
それらはみんな
行き先のない文明の手品ではないか
ミクロへの魔性と
科学という名の暴走族にも似て
手足を動かし自分で歩けば
そのことがよく分かる
霧に包まれ風に吹かれて
山の清水を飲めばよく分かる
だいいち文明に
こんなに澄んだ空がつくれるか
私の生業は化学工場の技術屋ですので、こういう作品には弱いですね。「行き先のない文明の手品ではないか」と言われてしまうと確かにその通りで、作っても作らなくてもいい物を社運をかけて作っているような気になってきます。人類の幸福が目的でモノを作っているわけではなく、儲けを得るためというのが実際なのはご存知の通りです。「拾ったものと/落としたものと」を比較したとき、利益という観点を抜きにするとはたしてどちらが良かったか…。
しかしそれでも売れるものを作るしかしょうがないのです。その過程で環境破壊を起すことのないように十分注意して、そのための多額の設備投資をしてやっていますが、「失ったものと/手にしたものと」どちらが大きいか迷うのは事実です。しかし、開き直った言い方になってしまいますが、はっきりしているのは「幸せになるためなのだと」思っていないということです。食うためにモノを作って売っています。それが幸せと言えば幸せになってしまうのでしょうが、生存するためのギリギリだろうと思うのです。悩んでしまう作品です。
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