きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.12.21(金)
その2 その1へ
○詩と批評誌『POETICA』31号 |
2001.11.20 東京都豊島区 中島登氏発行 500円 |
無花果/三浦真理子
どうして捌けよう
浅瀬をはさんで向こう岸とこっちと
どれほどの違いがあるのか
ひろびろと風はわたる
日は白砂に鯊の影を映し
水面の波が影をゆっくり揺らす
砂と戯れる鯊は砂を吹く
この岸に立つというだけで
どうして捌けるのか
賢しらに捌くものの罪を問う
草むらに脚をのべ
無花果の木陰に憩う女の
やわらかな巻毛が
空がにわかの暗雲に覆われ
突風にさらされ乱舞する
髪は逆巻き
たけり狂う蛇をうむ
みな人は罪の傍らにすむ
向こう岸の痩せた無花果の木の下に
体を震わせている女の
後ろには鞭の市場が建つというのか
灯りはじめたこの岸辺の窓の明かりを
涙をこぼして見つめる人もいる
あたりはあまりに何気なく
今日は夕暮れる
(2001.9.30)
詩の読み方にはいろいろあって当然で、この作品の場合、表面をなぞるだけでも鑑賞に耐える作品だと思います。彼岸と此岸、「やわらかな巻毛が」急に「たけり狂う蛇」となるおもしろさ。「みな人は罪の傍らにすむ」という指摘。それらをとらえるだけでも佳作だと思いました。
しかし私は日付に注目しました。9月30日と書かれていると、どうしても9月11日のテロを想起しないわけにはいきません。そういう眼で鑑賞すると、たびたび出てくる「捌く」という言葉、なぜ「やわらかな巻毛が」急に「たけり狂う蛇」となるのかという意味、「みな人は罪の傍らにすむ」という本質的な表現の意味が判ってくるように思います。最終連の「あたりはあまりに何気なく」というフレーズも、それまでの激しい表現との落差として、読者に強く印象づけるのではないでしょうか。
私の読み方が正しいかどうかは、まったく判りません。もし正しいとすれば、すごい詩だなと思います。テロに関する言葉を一切使わずに表現していることになりますから。あるいはタイトルの「無花果」に注目すると、もっと違う、前出の意味に近いのかもしれません。どちらにしてもなかなか書けない佳作と言えましょう。
○月刊詩誌『柵』181号 |
2001.12.20
大阪府豊能郡能勢町 詩画工房・志賀英夫氏発行 600円 |
島へ/今泉協子
昭和三十年九月
新任教師の私は三宅島に渡る
茄子畑から入道雲に通じる一本道
ひとり立ちの出発だ
かなかな蝉が道の凸凹を尖らせる
道すがら土地の老母にであう
お前は誰かというように
かっと険しい目を開く
耳をひらき肩を開き
彼女は私を寄せつけない
すれ違うと同じ顔で見送っている
振り向くと
小さくなって
芥子粒ほどの姿になるまで
執拗な視線が私を貫いた
島の風は強い
帽子を吹きとばし
他所者(よそもの)を巻きあげようとする
コートのボタンをとめる
かばんをひしと抱え学佼へ向かう
少女の笑い声が流れてくる
右手の高等学校の窓が
いくつもの太陽に照り映えている
笑い声の少女に無性に会いたくて
螺旋階段をのぼっていった
うまい表現が多いなと思いました。「茄子畑から入道雲に通じる一本道」というフレーズでは、島の道の様子が手にとるように判ります。「耳をひらき肩を開き」という人間観察。風と「土地の老母」をうまくからませた「他所者を巻きあげようとする」というフレーズにも驚きます。
今から20年ほど前に三宅島に2〜3日滞在したことがあります。観光客で行ったせいか、島の人が親切だったことが印象に残っていました。「昭和三十年」というと今から50年近く前になりますね。事実関係は判りませんが、そのころは「かっと険しい目を開」いた人がいたのかもしれません。戦後6年のことですから、三宅島に限らず日本中がそうだったようにも思います。でも、そんな中で作者は「笑い声の少女に無性に会いたく」なっています。いい先生だったろうなと想像した作品です。
○個人詩誌『色相環』12号 |
2002.1.1 神奈川県小田原市 斎藤央氏発行 非売品 |
萌葱
深閑とした山あいに
その寺はあった
木々が
萌葱色の若葉を芽吹かせて
境内を鮮やかに彩っていた
山門までの長い石段を
娘らしい人に手を引かれて
眼病の老婆が登ってくる
いつの日か
名もない星のように
消滅するだろう 私たち
数十年の生は
変転する時間のなかの
記録にさえ残らない些事であろう
無心に祈り続ける
老婆の願いは
本尊の薬師如来に
届いたであろうか
本堂の裏庭では
つつじの花が真っ盛り
懸命にいのちの灯りをともしているように
そこだけがひときわ明るい
人生の無常を描きながら、「つつじの花が真っ盛り」で「そこだけがひときわ明るい」ことに希望を見出している作品だと思います。「娘らしい人」と「眼病の老婆」に人間の移り変わりを感じ、それらを包むように「本尊の薬師如来」という永遠のものを感じさせる作品であるとも言えるでしょう。もうひとつ、「萌葱」というタイトルにも注目しなければなりません。「若葉を芽吹かせて」いる樹木もまた、永遠のシンボルであると思います。幾重にも織り成した佳作です。
○鬼の会会報『鬼』355号 |
2002.1.1 奈良県奈良市 鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費8000円 |
連載の「鬼のしきたり(44)」に、今回は次の文章がありました。
犬のこじつけ
上東門院彰子の御帳のうちらに、犬の子供が生まれ、そのとき吉凶を問われた大江匡衡は、こう即座に応えました。「よくご覧ください。犬の文字とは、大の文字の上に点を付けたものです。さらに、その上に点を付けますと天になり、下に付ければ太になります。いずれも、下に子の文字をつづけると太子となり、天子ともなり目出度いことであります」と、言上するが当時の学者は大変だった。
なるほど、うまいこじつけだなと思いました。犬のつく字や犬偏の字にはロクなものがありませんが、これはうまい言い方ですね。これならばわが愛犬も喜び、納得することでしょう。昔の人はいろいろと考えるものだと感心しました。いずれどこかで使ってみたいものです。
その2 その1へ
(12月の部屋へ戻る)