きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.12.21(金)
その1 その2へ
職場の忘年会で、箱根湯本の温泉旅館に一泊してきました。今年、私は幹事でしたので、食事もお酒もそこそこに皆さんのお世話で追われてしまいました。でも幹事特権でいいこともあったんですよ。第一は持ち込み日本酒を私が決めたこと。「越乃寒梅」と「久保田・千寿」を一升ずつ買い求めました。もちろん真っ先に開けて呑みましたよ。そのあとはお酒の味を知らない人にもうまいと気付かれて、呑まれてしまいましたけどね。まあ、皆さんに楽しんでいただければ、それでヨシとしましょう。
第二の特権行使が上の写真です。毎回60名ほどが集る忘年会ですけど、必ず10名ほどのコンパニオンを呼びます。でも、私はあまり好きではありません。チャラチャラした女の子に、下手をするとこちらが気を使ってサービスしなければなりません。そこで今年は芸者さんに来てもらいました。ハコの師匠と舞妓さん、それに酌婦のやはり10名ほどです。師匠との打ち合せで2曲ということにしてあったんですけど、最初はのっていなかった職場の人たちも段々のってきて、師匠も気をよくして3曲やってくれました。私も気をよくして、どうだ、日本の芸能もいいもんだろ!と職場の人たちに吹聴してしまいましたね。ミニスカートのコンパニオンより、和服のキリリとした芸者さんもいいもんですよ。全国の幹事さん、お験しあれ^_^;
○深津朝雄氏詩集『五十畑の牛』 |
2001.12.10 東京都東村山市 書肆青樹社刊 2500円+税 |
詩集タイトルの「五十畑」とはいかばた≠ニ読み、著者の居住する地域の地名です。そのタイトルからも判るように、農村の生活に密着した散文詩集です。特に著者の投影と思われる「少年」と、飼われている「牛」が多く登場し、ひとつの物語を形作った詩集と思います。
犬
爺が塩であるなら 観音竹の杖のにぎりの部分の黒光り
は 塩吹からしたたり落ちる苦汁であろうが 爺は人だ /にがり
から 女の粘液や盃の糖の汚れが歳月の苦楽に積もった
手脂だ 爺は山の端の落日を手庇で位置を定め 杖を銃 /あぶら
にかまえて ズドーン
「山の神の肝っ玉 撃ちとった」
と得意に紅潮した顔でふり返ったが そこには誰もいな
かった 狼狽した己れの影が股座に潜りこもうとしてい /またぐら
た その時 爺の内面の木が一本どっと倒れた この行
動の一部始終を見ていた光った眼があった 牛である
爺は内なる檻に二匹の犬を飼っていた 欲情の赤犬と酒
乱の白い犬 時どき檻をあける 血気にはやって二匹の
犬は 村を狭しと暴れまわった
貧乏が囲む村の女の家は みな寒かった 赤犬は それ
ら女の家を 逞しい赤銅の柄杓を下げて 女の隠しもつ
水瓶の水を 砥めてまわるのが日課だった 拒む女もい
たが 逃げるでもなく 泣くこともなかった 赤犬の体
躯が荒いけれど暖かかったからか
白い犬が村の酒の席であばれた 爺は床にたたきつけら
れた 酔眼で見上げた股座に 晒の褌からはみ出た褐色 /またぐら
のモノが揺れていた 掴もうとしたが酒のしびれに手は
うごかない 「あの時 野郎のアレを握っていれば 青
く震えあがり 喧嘩に勝っていた」と口借しがった
どれも遠い日となった 爺の腹の底で二匹の犬は 疲れ
た赤い舌をたらし 伏している尻毛を 追風が逆立てる
ばかり
現在の一般的なホームページ作成ソフトはルビをサポートしていません。一行空きや新聞方式の(
)にルビを入れる手もありますが、作品の良さを損なう怖れがあります。昔、パソコン通信で採用していたルビ表示を採ってみました。苦汁/にがり、脂/あぶら、股座/またぐら、というルビになります。
紹介した作品のように、ひとつの詩がひとつの物語となっていて、それが他の作品とどこかで関連しているという仕組になっています。ですからひとつの作品だけを紹介するというのは片手落ちと思いますが、紙面(画面)の制約上ご容赦ください。「欲情の赤犬と酒乱の白い犬」という対比がおもしろく、存在感のある作品だと思います。「爺」という人間も無駄なく描かれていて、深津詩の世界を端的に示した作品と言えましょう。ご一読を薦めたい詩集です。
○詩・創作・評論誌『輪』91号 |
2001.12.20 神戸市兵庫区 輪の会・伊勢田史郎氏発行 1000円 |
物語へ/倉田 茂
萩原朔太郎が行きたかった「ふらんす」は
パリだったろうか 海辺の町だったろうか
たぶんそれは念頭にないことで
「ふらんす」と、象徴的に呟くことが大事だった
かれは詩人だったから
物語をつくるにはホイジンガ*の才が要るだろう
眼前に時代を蘇らせることの何と物語的であることか
『年代記』や『パリ一市民の日記』などを手がかりに
中世末の風景を鮮やかに描き出す人生は素敵だ
絵も一流だったから 腕はたしかだ
腕のよい表装の職人だった僕の父が 修業時代
日本橋にいたと以前母から聞いたが
父はぼくとはあまり打ち解けなかったし
自分を語らない人だったので
町の名は知らない
つなぎようもない記憶の断片をつないで
隅田川界隈を歩くことがある いつしか
古山高麗雄さんの言葉を反芻しながら
「子は親を選べない 子は偶然に親の子である
ただ 偶然のつながりが子の運命を決めるのだ」
血のつながる風景を追うのはもうやめにしよう
父とは幽明相へだて 打ち解ける日は永遠に来ないのだ
一日ごとに老いに向かういま 初めてのように
ぼくは気づくのだ 自分の半生の平凡と
魅力ある風景は他者を通じて表すしかないことに
物語へ傾く日が多くなった
あらためて眺めれば 残されたわずかな歳月の彼方
表したい風景が銀河のごとく散らばっている
朔太郎が『猫町』という魅惑の短編を書いたのを
前から不思議に思っていたが
晩年であれば納得がゆく
*Johan Huizinga(オランダ 1872〜1945)フロニンゲン生まれの歴史家。
親子の確執、それに朔太郎・ホイジンガ・古山高麗雄という文学者をからませたスケールの大きな作品だと思います。「物語へ傾く日が多くなった」とする作者の心境を正確に把握しているわけではありませんが、その思いは多少理解できる気になっています。「魅力ある風景は他者を通じて表すしかないことに」私も少しは気付いてきているからかもしれません。
ポイントは「朔太郎が『猫町』という魅惑の短編を書いた」ことにあると思います。浅学にしてまだ読んでいません。いずれ読まなければならない本のリストに加わりました。これを読まずしてこの作品を読み取ることは難しいのかもしれませんね。紹介のみにとどめようと思います。
○遠藤恒吉氏随筆集 『亀がいる廊下』 |
2001.12.17
東京都千代田区 装画館刊 2000円 |
今年85歳になる著者の軽妙な随筆集です。戦前の子供の頃の世相、応召した第二次世界大戦、戦後の混乱期、最近の老々介護と、日本の歴史そのままの半生が語られていて、食い入るように拝見しました。奥様は年上の三味線のお師匠さん。その掛合いもおもしろく、夫婦のあり様まで教えられた気分です。
嫁さんをもらう初夢を見た
大層世話になっている人がいて、その人の娘である。親ひとり子ひとりで、娘さんは父の面倒をみていたため、まもなく五十になってしまうようだ。
ようだというのは、そのあたりがはっきりしていない。世話になったというその父親も娘さんも、どんな人なのかよく分かっていない。はっきりしているのは、その娘さんをもらうことになってしまったということだ。
私には女房がいる。なんと切り出したらいいのか。娘さんがあまりにも気の毒だからと言っても理由にはならないだろう。女房に「私はどうなるの」と言われても、二人の嫁さんをもつことはいまの法律では許されまいから、一緒にいたいと言うのなら女房を二号さんにするよりない。
「一号さんが二号さんになるなんて、聞いたことないわよ」。そう言われれば私も聞いたことがない。
眼がさめて思ったことだが、適当に生きているからこんな夢を見るのであって、今年からでも物事にはっきりけじめをつけるようにしなければと思った。ところでこの初夢、いい夢なのか、それとも。(平成9年1月)
あまり長いものは紹介しきれませんので短い作品を選んでみましたが、「往々短信」という総題のもと「国鉄文芸人」という雑誌に発表したものです。短い中に著者の感じ方、生き方が表現されている佳作だと思います。奥様の人柄まで彷彿として、ほほえましく感じました。味のある随筆集と言えましょう。
○詩と批評誌『玄』52号 |
2001.12.9 千葉県東金市 玄の会・高安義郎氏発行 1000円 |
応接室/江波戸敏倫
春 工場の守衛室前に 十五坪ほどの応接
室専用の建物が出来た 屋根は青 壁は白
植え込みのサツキツツジがよく映える
東向きの窓には水色の力ーテンがゆれ と
きどきお茶を運ぶおさげ髪がチラとよぎる
南向きの窓にはやはり水色のカーテンがゆれ
大きな机と安楽椅子が見える この椅子に座
るのは高級自動車を玄関に横づけにする身分
の者だけだ
工場の昼休 男は一本の煙草を二つにちぎ
り 煙管に詰めると 油煙ですすけた頬をへ
こまして 鼻から白い煙りを吐いた
(俺も一度 あの建物の中に入ってみたいも
のだ)
だが一時のサイレンが鳴ると 男は再び炉
の前で 真赤に灼けた鉄を相手に 大槌を振
り上げ ハッシハッシと闘わなくてはならな
い 火花が散る 汗がはじける 油が飛ぶ
男の作業ズボンがいまにもずれ落ちそうにみ
えるのは 多分妻や子供達が必死にぶらさが
っているためだ
菊薫り 雲一片とてない絶好の秋日和----
男の願いは叶えられた 男は工場長に呼ばれ
て応接室へ入っていった だが 再び玄関か
ら出てきた時には 首から上は血の気が無か
った
「煙管」にはキセル≠ニルビが振ってありました。ホームページ作成ソフトの機能上、省略してあります。ご了承ください。
時代は戦前でしょうか。「身分」「煙管」などの単語からそのように想像できます。何より、いとも簡単にクビになったような様子に、現代との違いを感じました。いやいや、実は現代なのかもしれませんね。リストラという名のもとのクビ、昔とは違った意味での非情さを表現しているのかもしれません。「男の作業ズボンがいまにもずれ落ちそうに」なっているのは、昔も今も同じこと。昔の話です、と書きながら現状を厳しく指摘している作品だと思いました。
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