きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.12.22(土)
その1 その2へ
会員ではありませんが、誘われて日本現代詩人会の「現代詩ゼミナール(東日本)と忘年会」に行ってきました。講演は安藤元雄さんの「詩を読むとき、詩を書くとき」。印象的な言葉は詩人はもっと他人の詩を読め≠ニいうことでした。で、我田引水になっちゃいますけど、その通りだと思います。このHPを開設する以前から、いただいた詩誌・詩集はほとんど読んできました。それがHP開設と同時に急に多くなって、昨年は800冊近くになりました。1冊に20編の詩があると仮定すると16000編の詩を読んだことになります。読みの深さは別として、この3年でおそらく5万編の詩を読んでいると思います。過去に遡ると10万編ぐらいになるでしょうか。
確かに実感としては、それだけ読むと何やら判りかけたような気がします。私はそれほど頭がいい方とは思っていませんが、場数で天才に追いつけるだろうと考えています。天才が100編の詩で判るところを、私は10万編でもまだ追いついていないかもしれませんが…。
そして印象的だったのは会員による朗読でした。自作詩朗読というのはあまり好きではありませんが、今回は良かったですよ。ちゃんと練習をしてきた様子も見てとれましたし、何より自作のどこが強調すべきか客観的にとらえられている人が多いと思いました。運営する側も朗読者を厳選したんでしょうが、主催者側に立つ場面もある私には考えさせられました。やっぱり観客をちゃんと意識した朗読をやってもらいたいものです。
写真は忘年会が始まる前に司会のお二人を撮ったものです。よそ様の会ですから、写真を撮りまくるということはしませんでした。遠慮したんです。でも呑むほうは遠慮しませんでしたよ^_^; どんな会でも気持よく呑めるということはいいもんです。
○詩誌『Avril』9輯 |
2002.1.1 東京都八王子市 詩と健康の会・三好阿佐子氏発行 300円 |
夏の兎/原田道子
ぽっかりとあいた眼だ
あつく)
影のない
うっかり迷いこんだ
こ。わ。れ。そうな
ガラスの容器のなか
おれんじ色の部屋は
こんなにこんなにもあつく
胎児の眼球だけを啄むという
不安の塊が喉元にせりあがる
「たましい」の景色がくずれるまえに
おいで
ありったけの重い花が
ぎゅっと詰まっている
「ひまわり」を抱えながら
いや。千年まえの
あなたのそのままでいい動かなくていい
声をださなくてもいいから。と兎がいうのだ
平和をいいつたえる
「はな」の「こ」の装置に指をかけながら
ぽっかりとあいた眼が哭いている(ような
ながい耳を折る
可聴音域にないことづて
原田さんの作品は正直なところ難しくて、このHPでもなかなか紹介しきれません。今回もそうなんですが、最終連に惹かれたので紹介してみます。
私は詩を読むときに、頭の中でなるべく具体化します。「夏の兎」は「ぽっかりとあいた眼」をしていて、その眼は「哭いている(ような」こともあります。「ガラスの容器のなか」にいると考えられます。「平和をいいつたえる/「はな」の「こ」の装置に指をかけ」ることもある、象徴的なモノでしょうから、例えば高田敏子のガラスのうさぎ≠フようなものをイメージしました。
その兎が「ながい耳を折」って「可聴音域にないことづて」を聞かないようにしているのかもしれません。あるいは「ことづて」を閉じ込めているのかもしれません。そこには「千年まえの/あなたのそのままでいい動かなくていい/声をださなくてもいいから。」と言われたことを守れない(あるいは、守れない)ものへの恨み≠フようなものがあると考えられます。
全体としては同じ過ちを何度も繰り返す人間への挽歌ととらえられるでしょう。自信はありません。「可聴音域にないことづて」というフレーズに惹かれた作品です。皆さんはどのようにとらえるでしょうか。
○詩誌『沈黙』23号 |
2001.12.20 東京都国立市 井本木綿子氏発行 700円 |
賽の河原で/天彦五男
佳酒を口に含んでころがしていると
賽の河原で丁と半を小石で確認している様だ
苦と楽 酸と甘などもろもろの味がする
骨になってしまった一人息子のことや
情をかわした女たちのことや
儲けそこなった株式や 損をした会員券やら
齢(よわい)六十五才の年金生活者は無芸小食で
日木酒で頭を霞にして久米の仙人もどき
口中に光が射して清冽な流れが脳に伝わり
ゆったりとした波がねむりを誘ってくれれば
月や星やみどりや桃の花が浮んでくる
そんな日は 年に二度か三度で
胃酸が逆流してきたり蕁麻疹がでて
ねむれない夜が多い
薬を飲んでもすぐ治まる訳ではない
仕方なし深夜テレビを付けると
怪奇映画などねむりを妨げる画面が現われる
巨大な墓石に飛行機が衝突した日
神風特攻隊とイスラム原理主義が交差し
B29が怪鳥になって襲ってくる
宗教 人種 思想 男 戦争と平和
またねむれぬ夜が続きそうだ
睡眠薬のかわりの酒も効き目がなく
十三夜と秋星をあおぐために庭に下り立つ
心の中に月食が生じて祈りと重なってくる
ともあれ雲が霞かたなびくものを去勢して
にがい酒を良薬として執着を捨てよう
憂き世の小舟の漕ぎ手は妻と二人
労わりの嘘や冗談を弄する不機嫌な夫と
笑ってみせる妻との潤滑油
ぎしぎしと軋まないよう酒も冗談も油の役目
お互いに方位を心得ているのかも知れない
相手を思いやる心は弱者でないと解らない
貧しい国や国土が広く人口の多い国では
掟を厳しくしなければ盗みや殺しや
淫することは動物の常だ
人間などと偉そうな顔をしているが獣だ
獣には棲み分けがあるが人は冒し過ぎる
今夜は妻を犯したいと思ったが
いつの間にか棲み分けができてしまった
面白くもないのに笑うふりをする仮面の夫婦は
階を分けて暮すようになった
六趣 六界 六道 碌でもない
子に先立たれた親は改めて盃をなす
酔うために 酔わぬために
生きるためにお互いをせめない暗黙の了解
砂漠で生きている民には法が必要なのかも知れない
月がサイコロの形をしているように見える
運命の別れ目はいずれ近い内だ
今ある所が「賽の河原」だという作者の視線に、人間の根源的な哀しみを感じます。「子に先立たれた親」であることも根源でしょうが、もっと深いところを「淫することは動物の常だ」というフレーズなどに読み取ることができます。「いつの間にか棲み分けができてしまった」「仮面の夫婦」が「生きるためにお互いをせめない暗黙の了解」を持っているというのも、ひとつの智恵なのでしょう。
作品として見事なのは最終連の「月がサイコロの形をしているように見える」というフレーズで第一連に戻っていることだと思います。「運命の別れ目はいずれ近い内」に来るけど、それまで「賽の河原」をグルグル回って、という風にとらえられて、人間の業の深さを感じてしまいます。最近の同人誌にはテロと報復戦争を扱った作品が多くなり、はなはだしい場合は何度も報道された場面を追記するのみの作品が横行するなかで、たった1行「巨大な墓石に飛行機が衝突した日」とするだけの潔さを全編に感じます。世界と己とを見事に調和させた作品だと思います。
○詩誌『象』104号 |
2001.12.25 横浜市港南区 「象」詩人クラブ・篠原あや氏発行 500円 |
還る/篠原あや
発端は十九歳にあったという
故郷 伊那をあとに
少しの不安と希望を胸いっぱいに抱いた上京だったが
都会は魔の住処であることを知るのに
そう 時間はかからなかった
それでも
若さは常に新しい
病も癒え
再び 心に点った灯を大切に
彼は 生きた
子供はいなかっだが
二人は充分幸せだったに違いない
バードウオッチングに互いの楽しみを重ね合わせ
舟に揺られ
三宅島までも 鳥の姿を追った 日々も
自然の営みが二人に命を与え
毎年
鳥の生態を
年賀状に写し 翔ばした
そんな日日の中で
十九歳に病んだ時の輸血が
いつか自らを犯していたことは知る由もなかった
納得しない自らを納得させながら
病と共存し 必死に生きた 歳月
しかし
死は
突然 訪れた
芳行よ
伊那の土に還るには早過ぎる
少し休んだら
また
ヨコハマに戻っておいで
二人は
いつまでも
席を開けて 待っているよ
二○○一・九・九 娘婿死去
享年 六十一
さぞ残念だったろうな、という思いが伝わってくる作品です。具体的なそれぞれが「芳行」さんの人間性を浮き彫りにしています。なにより「娘婿」という立場ですから、義母としては本来はここまで書かないでしょうに、それを書いている篠原さんに敬服します。投影した篠原さんのお人柄まで伝わってきます。詩人の仕事としても立派なものだと思います。ご冥福をお祈りいたします。
その1 その2へ
(12月の部屋へ戻る)