きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.8.14(火)
「姑息」を改めて調べてみました。一番詳しく書いてあったのがパソコン付属のMicrosoft/Shogakukan
Booksheif Basic の「しばらくの間、息をつくこと。転じて、一時のまにあわせに物事をすること。一時のがれ。その場のがれ。」でした。広辞苑は同様のことが書いてあって、しかも説明が少なかったです。中学生か高校生のときに使っていた三省堂の明解漢和辞典では「1.目前の安きを求めること。一時のがれ。まにあわせ。2.女子と子ども」とありました。
女子と子どもがなぜ姑息なのか、今の時代では不思議な気がします。1959年版ですから、かれこれ40年前。時代とともに言葉が変わってきた例かもしれません。
要は一時しのぎということで良いのかと思います。一国の、国民的な人気を博している首相が昨日行った行動は、まさに姑息でしかありません。
会社の休み時間に同僚の話を聞いていると、中学生の娘の背が低いので、小学生料金で電車に乗ったと自慢していました。思わず「娘にそうやってズルをして世の中を渡っていけと教えたのか!」と、声を荒げてしまいました。そして、すぐに反省しました。我が国の首相が姑息な手段を取っているんだから、国民がそんなズルをすることも仕方ないんだ、と。
情けない、やり切れない思いの一日です。
○個人詩誌『粋青』26号 |
2001.8
大阪府岸和田市 後山光行氏発行 非売品 |
山法師
近くの市で 郷土が生んだ画人展が開催されているのを
知った休日 買物の途中に家族揃って立ち寄ってみた
建物の前に白い花が咲いていた 白い十字手裏剣のよう
な花弁は 総苞片で花弁ではないという 中央の小さな
ふくらみが花だそうだ 両手両足を大きくひろげて青い
空を受け止めている白い花 爽やかな風が身体を吹きぬ
ける 半世紀以上も生きてきて誕生日を迎えた日のこと
だった 四世代の家族が揃って みんなが座りきれない
小さな部屋でその日の夕食を食べたことを忘れはしない
花の総苞片のように純白で全てを受け入れる姿勢がある
画人 日根対山 「詩絵・花」
私は植物に疎くて「山法師」さえも理解できないでいました。辞書によると「ミズキ科の落葉高木」だそうです。作品には「白い十字手裏剣のような」とありますから、おおよその見当はつきました。それを背景に鑑賞してみました。やはり「半世紀以上も生きてきて誕生日を迎えた日のこと/だった 四世代の家族が揃って みんなが座りきれない/小さな部屋でその日の夕食を食べたことを忘れはしない」という部分が光りますね。後山さんは私より1年先輩で、西と東の違いはあっても同じような時代を生きてきました。「半世紀以上も生きてきて」という部分は、特に私の感情とも重なります。
最後の「花の総苞片のように純白で全てを受け入れる姿勢がある」という自負も判るような気がします。聞いたふうな口をきけば、50になって判ること、とでも言いましょうか、ある年齢になってやっと判ることを言っているのだと思います。50にして初心忘るべからずというのもおかしいのですが、そんなものを感じています。観念的で、すみません。
○個人詩誌『色相環』11号 |
2001.秋
神奈川県小田原市 斎藤央氏発行 非売品 |
サリー
夕日は
あなたの髪を真赤に染め
頬を染め 唇を染めて
マニラ湾に沈んでいった
褐色の肌を
私のからだに押しつけて
思いを伝えようとするかのような
若い異国の女
ほら あの男が笑っている
さっき撮ってもらった
歯の欠けた写真屋さん
愛していたのに
結婚式まで挙げたのに
ジョビリーのガードマンに
ジョークを言って笑いあったあなたは
悪い男に編されて
永遠に私の妻にはならない
覚えているかな
初めて時計を手にしたお父さん
うれしそうにはにかんでいた
罪深い男を
どうか神様許してください
アブラハムの妻 サラにつながる
サリーという愛称を持つ女
サラは 沙羅
清らかな花のように
あなたの笑顔が
今も私に降り注ぐ
マニラの太陽は
もう二度と私の上に昇ることはない
葬り去ることのできない
忌まわしい過去だけは
残照のように
胸の中で燻り続けている
以前の号に、マニラから花嫁を迎えようとして、結局、結婚詐欺に合ったことが書かれていました。その号を思いだしながら鑑賞しました。「永遠に私の妻にはならない」「胸の中で燻り続けている」などのフレーズからは、作者の無念がよく伝わってきます。しかし、その反面、なぜか明るさも感じます。おそらく4連や5連の表現が私にそういう印象を与えているのだと思います。
無念は無念として、作者の本心はそこにあるのではなかろうかと想像しています。ちょっと的外れな気もしますが…。いずれにしろ男と女の関係は国籍に関係なく、複雑なものですね。
○個人誌『まりんすのう』創刊号 |
2001.8.1
名古屋市千種区 加藤あい子氏発行 非売品 |
このHPにもリンクしていただいている加藤あい子さんの個人誌です。創刊おめでとうございます。
個人誌『まりんすのう』は、HP「marinesnow marinesnow」の「詩のページ」に書き込んだ文をもとに制作したそうです。日本、世界の有名な詩人や詩を紹介し、エッセイも載せていますので、よろしかったらご訪問なさってください。
さて、紙の本『まりんすのう』ですが、映画・小説・宮澤賢治の詩に対するエッセイ集です。映画は「パッチ・アダムス」について、小説は天童荒太著「あふれた愛」について、いずれも作中の詩に言及しているところが詩人らしいですね。しかし該当の映画も小説も私は見ていないので、ちょっと残念。
宮澤賢治については「宮沢賢治の詩は、分からない=H」と題して、かなり突っ込んだ論を展開しています。宮澤賢治の詩は理解するものではなく、感じて、考える作品という指摘には納得できるものがあります。例えば作品「やまなし」の中の「クラムボン」を「プランクトン」と解説する教師や著作に関して、次のように述べています。
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もちろん、「クラムボン」はその発音から、「プランクトン」より賢治が創造した言葉ではあるでしょう。けれどもここで大切なのは、「クラムボン」が何かと考えている過程であり、そして「クラムボン」が何であるか断定できないという事実を知ることなのです。「クラムボン」が何であるかという「答え」は必要ないのです。
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かなり考えさせられる視点だと思います。科学者でもある賢治の、科学の限界を知った言葉、科学を超越したい言葉として「クラムボン」があると私は思っていますが、それと通じている見方だと受け取りました。
○『大阪消防』8月号 |
2001.8.5
大阪市西区 (財)大阪市消防振興協会発行 年間購読料4380円 |
日本詩人クラブ会員の島田陽子さんからおもしろい本をいただきました。大阪市消防局が発行人になっています。いただいた理由は、この本に「ことばアレコレ」というコーナーを島田さんが連載していて、それを見せてくれるためです。今回は「男と女」というテーマでした。4月に亡くなった河島英五さんと一緒に町歌を作った裏話を始め、「Kの舟唄」(私の十八番!)などに見られる「男と女」について考察しています。このHPでも7月11日に「ぎんなん」37号を紹介していますが、そこに載っていた「ふたり」という作品も転載されていました(この作品は実におもしろいから、上の「7月11日」をクリックして、ぜひ読んでみてください)。
この本の中で男と女について島田さんは次のように述べています。
「男と女は異種の生物と思った方がいい、とまでいった人がいる。それだけわかり合いにくいのに、やっぱり愛さずにはいられず、共生(!)せずにはいられない存在なのだ。」
そうだろうなと納得しています。中3になった娘の成長過程を見ていると、男である私がたどった過程とは明かに違います。生理的なものではなく、精神的にいつまでも幼い。まわりの女性を見ていると結婚までは本当にフワフワしていて頼りなく感じています。ところが、結婚して子ができるとガラリと変わるのです。私は2回結婚していますが、2回とも同じ結果でしたので、断言できます(^^;;
ところが男は、中学生の頃からあまり変化はないように思いますね。ボーッとしている奴は一生ボーッとしているし、セカセカしている奴は一生そうなんだろうと思います。まさに「異種の生物」でしょう。でも「共生(!)せずにはいられない存在」なんですね。まあ、そんなこともありますので7月11日の「ふたり」をぜひご覧ください。
ふうーっ。「情けない、やり切れない思いの一日」が皆さんの作品を通して、少しはやわらいできました。感謝!
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