きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.9.9(日)

 前日から泊り込みで宇都宮に行ってきました。和氣康之さんという方の第一詩集『夢夢BouBou』の出版記念会に呼ばれました。箱根の山裾から宇都宮はちょっと遠いので躊躇しましたが、とてもいい詩集だったのと、呑み友達・大谷武さんが司会をやるというので腰を上げました。行って良かったと思いましたね。
 出版記念会は午後3時から、ホテルの出たのは午前11時。だいぶ時間がありましたけど、行きたい所があったので時間が足りないくらいでした。ホテルでもらった市内観光地図に「戊辰の役戦士墓」というのを発見したのです。私の先祖は戊辰戦争で破れた会津の支藩・平藩の下級武士でした。馬廻役という役職でしたから、今のおかかえ運転手のようなものだったんだろうと想像しています。その会津の殿様がいわれのない戦争をふっかけられて始まった戦争の、当初の重要な拠点が宇都宮城でした。近くで「六道の戦い」という有名な戦闘がありました。そこに会津方の墓があるというのです。

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 写真がその墓です。明治政府は西軍の戦死者は手厚く弔いましたが、会津方の戦死者を弔うことは許さず、各地で野に放置させたそうです。清水の次郎長がその禁を犯して弔ったことは有名な話ですが、ここ宇都宮でも同様の篤志がいたことを碑文で知りました。末裔として宇都宮の方々に感謝する次第です。
 この墓に至るまでにはちょっとしたエピソードがありました。墓を確認するため、栃木県総合文化センターの案内所を訪れたのですが、そこの女性が実に親切でした。「あっ! そこ、私の家のそばです」と言いながら、持参した観光案内地図に丁寧に道順を書きこんでくれました。歩くと20分はかかること、雨が降っているからバスの方がいい、でもバスは道順が複雑、と本当に親身になって教えてくれました。昨夜のスナックの女性たちといい、宇都宮の女性の細やかさには敬服しましたね。私は国内をかなり旅行する方だと思うのですが、場所によっては今回のような公共の施設の案内所というのはツッケンドウで、嫌な思いをすることがありまして、今回のような親切な対応というのは意外と少ないんです。いっぺんに宇都宮が好きになりましたね(^^;
 本命の出版記念会も素晴らしいものでした。詩人だけでなく和氣さんのご友人も出席していて、それがいい雰囲気でしたね。和氣さんの人柄が好きでたまらないという気持ちが伝わってきて、それだけでも来て良かったなと思いました。詩人は気難しいのが多いんですが、気難しいのは机の前だけにしてほしいと思っています。世間との関係は大人らしく、というのが私の主義ですけど、それに通じているように感じました。

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 電池の容量不足でストロボが使えず、色がオカシクテすみません。写真の方が和氣さんです。私より7つほど先輩になります。遠くから来たからという理由で挨拶の時間を与えられました。その中で述べましたけど、ぜひ日本詩人クラブに迎えたい方です。作品もお人柄も申し分ありません。おそらく新人賞にもノミネートされると思います。新人賞を取ればノーチェックで入会できますけど、こればっかりは保証の限りではありません。詩集『夢夢BouBou』は6/15の頁で紹介しています。よろしかったらご覧になってください。
 二次会も楽しみました。地酒の「惣誉」という酒も呑みましたけど、これはちょっと雑味が多かったですね。同じ地酒なら昨夜呑んだ「東力士」の方が好きです。あまり出しゃばってもいけないので、隅の方で呑んでいましたけど、大谷武さんや金子以左生さんとかなりお話ができました。充実した時間を持てたと思っています。この出版記念会を機に、何度も宇都宮を訪ねそうです。



詩誌『展』55号
ten 55
2001.8 東京都杉並区
菊池敏子氏発行 非売品

 夕陽への招待/五十嵐順子

そこは夕陽の名所らしかった
他にも車が二、三台止まっていた
近々と波が寄せている日本海
浅い春の灰色の草が風によじれ
輪郭のぼやけた佐渡の左上の
雲の裏側でにじむ太陽
 とても外にはいられませんね、
 私たちは車の中で
 海や雲や魚の話をした
 とっておきの日没を待って四十分
 私は夕陽に招待された客だった
 いつも何かに追われている町の暮らし
 慌ただしく何かを追いかけている私の日常が
 潮騒の中で遠くなる
太陽は雲の椴帳の陰でわずかに赤色を曳いて沈んだ
海の色が濃くなりそれと知れた
それが自分の手落ちのように
私を招いた二人が嘆いた

 運動会の徒競走で子どもが四等になった日
 みんな黙って帰った
 へんに慰めたり
 ほめたたえたりもしないが
 家族ひとつでほんのりとあったかだった
 そんな夕暮れに似ている
そう、私は取り戻した
急ぎすぎて失ったりすり減らしてしまった多くの時間を
夕陽だけを待っていた四十分のゆたかな流れの中で

 「それが自分の手落ちのように/私を招いた二人が嘆いた」ことへのフォローが素晴らしいですね。「へんに慰めたり/ほめたたえたりもしないが/家族ひとつでほんのりとあったかだった」という心境は、おそらく「私を招いた二人」には言っていないでしょうが、伝わっているなと想像してしまいます。そして「四十分のゆたかな流れ」と気づいた「私」の気持ちも読者に伝わってきて、「ほんのりとあったか」な気分にさせてくれます。
 私事で恐縮ですが、昔、ハンググライダーやパラグライダーで遊んでいたころ、「四十分」どころか一日中風待ちをしていました。そして結局飛べなかった日が何日もありました。その時はのんびりと「ゆたかな流れの中」にいるんだと思ったものです。そんなことまで思い出してしまいました。



詩誌『燦α』11号
san alpha 11
2001.10.16 埼玉県さいたま市
燦詩文会・二瓶徹氏発行 非売品

 龍と観音/ささき ひろし

それはサンパウロの東洋人街
ゾナ オリエンタルの骨董屋で
偶然の出合いであった

雲海の龍に座る自愛あふれる観音像
高さ三十センチの透かしの一木彫り
宗教心はないが強烈な印象をうけた

中国人の移民が 持ち込んだという
異国の生活に困窮し
手放したのだろうか
高価で手が出なかった

数週間後 その観音像が夢の中に現れ
微笑んだ
遠い記憶のように
異国の地で出会ったのは
観音様の引き合わせ
清水の舞台から飛び降りるつもりで
買い日本に持ち帰る

あれから二十七年の歳月が流れ
母の仏壇の横で家族を見守る観音像
変らないそのお姿
私は年を重ねた

観音様をのせて
龍よ
私も お供をしよう
いつか そのときは

 不思議な出会いだったんでしょうね。「宗教心はない」けど、「その観音像が夢の中に現れ」るというのですから、その精神作用が宗教と呼ぶべきものなのかなと思います。百済観音などを見ると、宗教心のない私でも、何か心が洗われるような気持ちになりますからね。作者の感動は判るような気がします。まして南米「サンパウロ」での出会いですから、その気持ちは相当強かったのだろうなと想像します。
 私も閻魔様の前に行くのか、観音様の前に行かれるのか判りませんが「いつか そのときは」必ず来るわけで、そんな時に作者のように「私も お供をしよう」と言えるかどうか…。そう言える対象と巡り合ったということは幸せなことだと思います。いつまでも大事にしてあげてください。



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