きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.9.28(
)

 「ウイルス問題」にようやく決着が着きました。原因はHP「ほら貝」の加藤弘一さんが指摘してくれたように、マシントラブルでした。「マシン」と言えるほどのことでもなく、キーボードの「Delete」キーの引っかかりでした。
 9/15に詳細を書いて
9/2の頁に載せてありますが、その後も何度か現象が起きていました。その度に再セットアップをしたり、最新のワクチンソフトで検出させようとしていましたが、一向に解決しませんでした。最後の手段として感染していないと思われるデータディスクのフォーマットをやろうとしていました。念のためプログラムディスクをフォーマットした時のことです。Windows98のプロダクトキーを入力したら、今まで起きていた現象と同じように、数字が次々と消えていくではありませんか! さすがにおかしいと思いましたね。コンピュータ本体の領域まで侵されているなら、それも理解できますが、そんなウイルスはおそらく無いはずです。
 何度も試しているうちに、ある法則があることに気づきました。カーソルの右側の数字は消えるけど、左側の数字は消えないということです。そんなウイルスはいないはずです。冷静になってキーボードを眺めているとき、ひとつのキーだけが沈んでいることを発見しました。それが「Delete」キーだったわけです。キーを指で引っ張り上げて再挑戦してみると、今度はうまくいきました。原因は「Delete」キーの戻りのスプリングが引っかかっていたということになります。
 これで、マーキーのように入力した文字が次々と消えていくこと、リターンキーを押さないとそうならないこと、常に「〜をゴミ箱に捨てていいか」と聞いてくること、パソコンを終了しようとしても電子音が鳴りっ放しで強制終了しか使えないことの全てが説明できました。
 判ってみれば、なんだそんなことか、というのがトラブルのほとんどです。今回もその例に漏れませんでした。会社でトラブル解決の手法を講義する身としては、なんとも恥ずかしい話です。現地現物で考えろと講義しながら、パソコンのキーボードという現物をきちんと見ていなかったことになります。肝に銘じます。
 それにしてもデータディスクをフォーマットする前で良かった! プログラムディスクはいつでもやり直しが効きますけど、過去15年間の1ギガに及ぶデータはそうはいきませんからね。それを消去してしまったら、もう立ち直れないと思います。バックアップシステムを真剣に考えています。しかし、そのシステムもフロッピーディスクから始まって、ZIP、MO、CD-Rと変遷の激しいこと。デスクトップ型とノート型に互換性の無いことも悩みの種ですね。そんな意味からも文書はテキスト形式で保管する方が良いと思っています。



秦恒平氏著『青春短歌大学
(湖の本 エッセイ23)
umi no hon essey 23
2001.9.20 東京都保谷市 「湖(うみ)の本」版元 発行 1900円

 タイトルの「青春短歌大学」という文字に、実はとまどっていました。秦さんの小説は好きで、こうやって毎回送っていただくのを楽しみにしています。本当はいただいたその日に読みたくってしょうがないのですが、それは止めています。有名・無名に関係なく、いただいた本はいただいた順番に読むことを自分に命じているからです。高価な本を無償で、かつ高額の送料を使って送ってくれる好意の贈呈本の前で、有名・無名を基準に選ぶほど私は優れた作品鑑賞能力を持っているわけではない、という思いがあるからです。そうは言ってもこの本だけは、電車に乗る機会毎に持っていましたが…。
 それほどの思いがあるにも関わらず、今回だけはちょっと憂鬱でした。「青春」という言葉に、二度と繰り返したくない青臭い自分を思い出し、さらに苦手な「短歌」までくっ付いているタイトルなんです。しかし、読んでみて驚きました。短歌は、やはり詩なんです。しかも相当に深い心境まで表現できることを教わりました。
 「青春短歌大学」というタイトルにも理由があることが判りました。東京工業大学で、以前「文学」教授をなさっていたことは存じ上げていましたが、その時の講義をまとめた内容でした。19歳や20歳の学生に一般教養として短歌を取り上げていたわけですから、「青春」であり「短歌」である必要があったことになります。授業内容は、短歌の歴史や歌人の人物像を描くというような、一般的な文学部講義とは違います。そんなことをやっても工学部の学生には通用しません。では、どうやって彼ら彼女らに文学を教えるか。考え出したのが「虫食い短歌」でした。
  生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ  大島 史洋
 この( )に漢字二文字の熟語を入れよ、というものです。学生から多くの熟語の「回答」が寄せられました。歌人の考えた熟語と一致すれば点をあげ、一致しなくても優れていれば点を与えるというものです。「回答」された熟語の意味を、20歳前後の学生という立場を考えて解説し、また歌人の選んだ熟語によって、作品とはどういうものかを教える、解説するというものです。読者にも回答を求めていますから、私も挑戦してみました。これはハマリましたね。
 学生の回答は、理想、希望、真理など100近くもあったようです。中にはなぜその熟語を選んだかという書き込みもあって、現代学生の心理を知る上でも興味深いものがありました。私は「理想」を選んでいます。歌人は「幸福」を置いています。これにはアッと驚きました。幸福を追うことは人生の目的ではないと思っていましたから、まったく考えもしませんでした。しかし、何が幸福かを考えると、そう単純なものでもないことにすぐに気づきました。経済的な幸福だけを歌人はうたっているのではないのです。苦労も幸福と考えると、この作品の深い意味に行き着きます。「理想」では、まったく底が浅く、青臭さが抜けません。そんなことを500名ほどの学生に考えてもらうわけですから、これは教授としても止められないだろうなと思います。
 そんな短歌が80首ほど出てきます。「あなたの詩心に挑戦」なんてことが書かれていますから、私も真剣になりましたね。正解率は50%ほどでした。短歌になじみがないとは言いながら、詩らしきものを書いている身としては不本意な結果でした。まだまだ詩が判っていないのだな、と改めて思います。



由利浩遺作選集V『幻視の中の街』
2001.10.1 神奈川県横須賀市 山脈文庫刊 2500円

 元『山脈』同人で、亡くなった由利浩さんの遺作選集の第3弾です。同人誌「文学・現代」5号、6号に発表した、表題作の「幻視の中の街」「幻視の中の街(承前)」を始め、未発表の「青春の光芒」、雑誌「パイプ手帖」に寄せた随筆などが収められています。1962年から1993年までの作品ですが、まったく古さを感じさせません。人間の本質は何も変わりはしないということを改めて知らされる作品だと言えましょう。
 大きなウエイトを占めている「幻視の中の街」は、不思議な作品です。親から間接的に受け継いだ貿易会社で重役を務める若い主人公が、ある夜、紛れ込んだ街を執拗に追いかけるというもの。しかし、幻視であったのか、見つけることができないままに、自殺事件の殺人容疑者に仕立て上げられていくというものです。「幻視の中の街」を見つけられないことには自分の生きている実感が無い、という設定は、まさに現代の感覚と言っていいでしょう。
1962年発表という時期を考えると、40年も前に現在の日本の姿を見据えていたのかと思うと、恐ろしいほどです。作家の先見性に改めて敬意を表したいと思います。



月刊詩誌『柵』178号
saku 178
2001.9.20 大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀秀夫氏発行 600円

  ほか岩本 健

(l)蛇
洗濯機に 肉親たちの 下着類を投げ込む。洗濯機内の水が 激しく渦
を巻くと 僧しみ合い 俳除し合う 肉親たちの下着は 陰惨な蛇のよ
うに 相互に絡みつき 巻きつきあい 一つの奇怪な塊となる。解こう
にも解けない。ときほぐすことなどは ほとんど 絶望的だ。

 独身の頃は自分で洗濯機を回していましたから「陰惨な蛇のよ/うに 相互に絡みつき 巻きつきあい 一つの奇怪な塊となる」ことは知っていましたが、結婚してからはやったこともなく覗いたこともないので、「僧しみ合い 俳除し合う 肉親たちの下着」が「解こう/にも解けない」状態になっているなんても思いもしませんでした。おもしろいところに眼をつけているなと感心しています。
 作品を鑑賞する上で、描かれたことが事実がどうかは関係ありませんけど、それでもやはり「ときほぐすことなどは ほとんど 絶望的だ」という言葉にはドキッとさせられます。家族という比喩、蛇という比喩で大きなものを暗示していると考えています。日常茶飯事を書いて、社会への警句ととるべき作品の見本と言えるでしょう。



詩誌『鳥』37号
tori 37
2001.9.15 京都市右京区
洛西書院・土田英雄氏発行 300円

 笙子 ---- 十ヶ月半土田英雄

つい先日まで
眠くなると
膝に這い上がり
襟元握ってうとうとしたり
机につかまりやっと立てるようになると
右足を軸に
器用に左足を曲げて
小さな足裏を返し
テレビのハワイアンにあわせて
おどってみせてくれていたが

あの一件以来
ぼくは
笙子にふられたらしい

七月の猛暑の日
母親に頼まれたとはいえ
丸裸の彼女を横抱きにして
無理やり
混浴したのがいけなかった

それ以後
顔をみただけで逃げ出し
安心の
母親のかげから
顔を半分だけこちらに向け
下唇つきだして
ぼくを見据え
忿怒の形相をする

セクハラが社会問題になってから
満員バスが揺れた拍子に
ちょっと肩が触れても
刺すような目をしてにらみかえす
女の目を
誕生前の
笙子はみせて
すでに
ひとりの女性を主張している

 そんなもんですか、と思わず驚いていまいます。しかし判るような気もしますね。
10歳年下の妹が私にはいます。彼女が生れた次の日に母が死にました。商売をしていて父は妹の面倒を見切れず、小3の長男の私が彼女の世話をすることに自然になっていきました。当然おしめの交換も含まれます。そのことを妹に話すと、30になっても40になっても嫌がります。時には顔を赤らめて抗議してきます。女性の心理とはそういうものなんでしょうかね。
 セクハラも我々男性陣にとっては複雑な問題です。私は車通勤ですので、普段は電車に乗らないのですが、都内で会合がある時は電車を利用します。新幹線、東海道線はあまり混まないので問題はないんですけど、問題は小田急です。行きはともかく、帰りはかなりの距離を鮨詰めで帰ります。近くに若い女性がいたら離れますね。変な嫌疑をかけられるのを避けるには、そんな自己防衛をしないと危なくてしょうがないんです。セクハラはもちろん慎まなければならないことです。でも、女性の過剰な反応も考えものです。そんなことまで考えさせられた作品です。



会報『旅行ペンクラブ』78号
2001.9.20 大阪市北区
旅行ペンクラブ出版委員会発行 非売品

 旅に関する著作、観光案内、地図帳の宿泊案内などを執筆するプロの集団の会報です。『山脈』同人の西本梛枝さんよりいただきました。今回はテーマ特集と銘打って「旅先でホロリ」という特集を組んでいます。『山脈』では夏冬に合宿と称する呑み会を開いていますが、夏の合宿はこの5年ほど箱根・仙石原の温泉民宿「松尾山荘」が定番になっています。その民宿について西本さんが書いています。その一節を紹介しましょう。
--------------------
何がいいかと言えば、一番はやはりおばさんとおじさん。食事を運んで来てくださるときに会うぐらいだから本当はおばさんもおじさんも人柄なんてわからないのだが、訥々とした言葉や物腰が、客に無用な気遣いをさせない。ヘつらいもなく、素っ気なくもなく、自然体。だから、ゆっくりした気分になる。旅の宿で、宿の人に気を遣ってしまう宿って、意外にあるのだ。宿側はサービスのつもりなのだろうな、と一応は思うけれど、客の気持ちを考えないサービスは一人よがりでホスピタリティには欠ける、といえよう。代表的な一人よがりが女将さんのご挨拶。ご挨拶に来られて全然苦にならない女将さんもあるが、近年、「部屋に挨拶にくる女将」がマスコミ受けするようになって、形だけ真似る女将さんもある。ぎこちない、というかこちらが妙に気を遣ってしまう。形だけのご挨拶や、挨拶苦手の女将さんはムリして部屋にこなくていい、と思う。玄関で清々しい笑顔で迎えてくださるだけで十分だ。私なんぞはむしろ、笑顔で迎えて下さる方に好感をもつ。
--------------------
 実際にこの宿を利用した人でなければ雰囲気は伝わらないのかもしれず恐縮していますが、一般論としても通用する話だと思います。私も旅行は好きな方で、仕事の出張も含めて全国を旅していますけど、確かに心の底から何度でも行きたいと思う宿は少ないですね。特に観光旅館は駄目です。むしろビジネスホテルや民宿の方が居心地がいい。変な気取りがないからなんでしょうね。
 年に一度しか行かない民宿ですが、リピーターが必ずいます。私たちのみならず、多くの人に愛されている宿だと言えましょう。ちなみに、私が旅行案内書で見つけた宿です
(^^;



   back(9月の部屋へ戻る)

   
home