きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.2.9(土)
その1 その2へ
日本詩人クラブの2月例会が神楽坂エミールでありました。今年度から始まった日本詩人クラブ新人賞受賞者による「私の詩の現在」は、第8回を詩集『水俣』で受賞した橋浦洋志さんでした。非常に考えさせられる発言をしていました。橋浦さんは水俣とまったく関係がないけれど、胎児性水俣病の子供にショックを受けて水俣に通い始め、その結果として『水俣』を刊行したそうです。しかし、会う人毎に「なぜ水俣なんですか?」と問われて答に窮したと言っていました。私も実はそのひとりでして、何度かその問を発したことがあります。その度に答はなく、長い間疑問でしたが、今回初めて胎児性水俣病の話が出てきて、ようやく納得した次第です。
それに続く発言は印象的でした。水俣を書くと誰もが「どうして?」と聞くけど、アフガンを書いても誰も不思議に思わない、この差は何だろう、というものでした。それは、日本という安全な圏内にいて、マスコミの報道したフィルターを通して発言することで、身の安全が保たれているからアフガンを書くのであって、水俣はそうはいかないから避けているのではないか、という趣旨でした。これは耳が痛いけど、ちょっと違うなという気がします。
まず、今回のアフガン問題は歴史上の大きな転換点になると思うし、自衛隊の海外派兵が戦地で行われるという画期的な転換であったのにショックを受けて、私は詩も散文も書きました。モノ書きの端くれとして見過ごすことのできない事件なのです。自分の身や家族、親類に影響のある事件なのです。高校生になる甥は徴兵される事態になるかもしれない。会社の若い連中も兵役の義務を負うようになるかもしれない。そういう危険性を感じるから書かざるを得ない。
では、水俣はどうかと言うと、常に注目はしてきましたけど、これはやはり書けない。水俣には身内もいないし行ったこともない。そんな者が書いたら、変に同情的になるかシュプレヒコールになってしまう。自分の血肉ではないものは見つめていることしかできないのではないか。視線をそらすつもりはないけど、作品には出来るわけがない、というのが私の考えです。自分が安全圏にいるから、などと言われてみるとそうなのかなと思いますけど、そんな風に考えたことも感じたことも無かったですね。
続けてシンポジウム「21世紀に現代詩の未来はあるか」が開かれました。パネラーは一色真理さんと中村不二夫さん、司会は石原武さんでした。「詩と文明の危機をめぐって」という副題が付いていましたけど、正直なところかなり難しかったですね。視点がどうしてもバラけてしまう。もう少し狭い範囲を対象にした方が良かったのではないか、などと思ってしまいました。次回も同じメンバーで、インターネット上での詩についての討論になるようですから、ポイントは絞れると思います。
写真は出演のお三人。討論の内容はいずれ機関誌「詩界通信」で公表されますから、その時に私ももう一度考えてみようと思います。どうせ、原稿・校正と何度も目を通すのだから^_^;
今回は思いがけない出会いがありました。このHPの掲示板にも何度か書き込んでくれている瀬川紀雄さんが青森から、文字通り飛んできてくれたのです。メールのやりとりも頻繁にやっていた方でしたから、うれしかったですね。実直そうな方で、歳は私よりちょっと若いかな。二次会にももちろん誘いました。あまり呑めないというのに最後までつき合ってくれて、ありがとうございました。遅くなったら泊っていけば?なんて無責任なことを言ってしまいましたけど、その日のうちに帰れたのかな? 珍しく三次会はなかったので、私もその日のうちに帰れました^_^;
○詩誌『花』23号 |
2002.1.25 埼玉県八潮市 花社・呉美代氏発行 700円 |
枯れる/山田隆昭
文字が欠けてゆく
おおまかな形が目の裏に浮かぶ
正確に書こうとして
途中でペンが止まる
指が 腕が 記憶がさ迷っている
久しぶりに手書きした文章だった
いつもキーを叩いているためなのか
求められるのは文字を正しく選択すること
--- 空欄に当てはまる漢字を選びなさい
ぼくを悩ませた国語の問題
あれはなにの練習だったか
書く ということは流れだ
形から形へ変化した文字も
流れに乗って成長したはずだ
これから先 もう変わることはないのだろうか
文字に生えている枝が抜ける
偏が消えかかり
支えを失った旁が倒れる
これ以上失うものがない
清書をしようと万年筆を構える
書き始めの手に力が入る
そこから すっと
線が走るはずだった
紙にしるされた白いままの へこみ
インクが切れているのだった
新しく差し替えても線は現われない
呼び水 ---
たらしたインクに先端を浸す
再び生き返らせようとする
だが文字は戻ってこない
空白が言葉を食べている
この感覚は判りますね。本当に字を忘れてきています。キーボードを叩くようになる前より、辞書を引く回数が多くなったのではないかと思います。
表現はさすがに山田さんですね。「文字が欠けてゆく」「文字に生えている枝が抜ける/偏が消えかかり/支えを失った旁が倒れる」「空白が言葉を食べている」などのフレーズはうまいなと思いました。「枯れる」というタイトルも作品全体をうまく表現していると言えますね。私にとっては学ぶことの多い作品です。
○隔月刊詩誌『叢生』118号 |
2002.2.1 大阪府豊中市 島田陽子氏発行 400円 |
ぬけてる/姨嶋とし子
どこまでも
真っ青な空を
どうしてぬけるようなと言うんだろ
空は元々ぬけてるんだ
晴れてても曇ってても
嘘だと思ったら突進してごらん
ほうらね ぬけてるだろ
行っても行っても何にもない
がらん洞だ
宇宙の果てまで行ったって
同んなじことだ
ん?
宇宙の果てまで行く気なら
何にもないことはない
星に出会えるって?(まぜっかえしちやいけないよ)
星には出会うなんて言わないよ
引力に引き寄せられて衝突
一巻の終りさ
ところで宇宙の果てって何処?
そんなことは知らないよ
知ってたら今ごろは
他人(ひと)よりぬけた人になってるよ
最後のオチがおもしろいですね。それにしても「宇宙の果てって何処」にあるんでしょうか。人間の知恵の及ばない世界があまりにも多いことに愕然とします。人間の知恵ですべてが判る、なんて思う方がどうかしているんですが、でもやっぱり知りたい。いずれ解明されるのでしょうけれど…。そんなことを考えさせられました。
○詩誌『ひょうたん』16号 |
2001.11.10 東京都板橋区 ひょうたん倶楽部・相沢育男氏発行 400円 |
ワイシャツ/阿蘇 豊
この夏
ワイシャツを一枚も買わなかった
去年のヒフをまたつけていた
白地に茶の大きな格子もよう
今までで一番好きなシャツだった
着たかったのはそれ一枚きり
そのシャツを着ると
おれの気分でいられた
長く着てえりがすりきれてしまった
人一人に似合うシャツなんて何枚もない
えりにたまった季節を
すぎていった人
あたらしい
ヒフがほしいのだが
見せる人がいない
秋になったら
口実をつくろう
古い手だが
おれに映えるシャツを見てくれないか
見せるヒフが見つかるか
見せる人ができるか
「そのシャツを着ると/おれの気分でいられた」というのはよく判りますね。そして「人一人に似合うシャツなんて何枚もない」ものなんです。私は服に興味が無い方なんですが、それでも少しは考えます。あまりみっともない格好にならないように…。だから、あっ、これ似合ってるかな、と思うとずっとそればっかりなんですね。「着たかったのはそれ一枚きり」という状態になってしまいます。阿蘇さんもそうなんだろうなと思うと、この作品が急に身近に感じられましたね。
○北野丘氏詩編集1 『青ざめるフーコーの振子』 |
2001.9.15 東京都中野区 北野丘商店刊 100円 |
冷たいスリッパ
どこを眠っていたのだろう
きのうの混沌が
透明な袋におさまっている
失礼
小用
赤いビニールのスリッパ
素足の熱
どしても過ごせないと思った夜を
とおりぬけてしまった
(なにしよう)
紐をひっぱるとじぶんが戻ってくる
欠伸をする
目尻がぬれる
しろっぽけた光のなかで
瞳がとまる
胸が鳴る
自律している優等生の生真面目に拍手
よどみない心 用意されて
一日分
きめられた熱量
それも
レバーのような堆積に交替したら
またわたしは発光しだすのだろう
なくなりかける不安に
せめて実のあるかたちにしてしまいたいと
夜を光りだす
できれば もうすこし
うつくしい排泄をしてみたいものです
最終連の「できれば もうすこし/うつくしい排泄をしてみたいものです」で思わず笑ってしまいましたけど、自分の排泄ブツを美しいと思ったことは何度か、あります^_^;
まあ、この作品はそんな意味だけではなくて、第5連目が重要なんですけど、「排泄」もそれに掛かってくるわけなんですけど、なかなか鋭い視点だなと思います。うっかりすると表面にとらわれてしまいそうですが、注意して見ると奥深いですね。
ちなみにタイトルの「フーコーの振子」は地球の自転を証明するために、1851年にフーコーが長さ67mの振子を使って実験したものです。この視点もおもしろい。
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