きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.2.12()

 帰宅したら新聞が5部ほど入った郵便が届いていました。地元のローカル紙で、書評を書いたものです。2月8日付の新聞ですから、筆者より早く地元の人は見ていたんだろうなと思いました。私は取っていない新聞ですから、まあ、贈呈してもらえただけで良しとしましょう。原稿料もない仕事でしたが、これもつき合いですからね。地元は大事にしなければいけません。

 内容は1月10日の日記に書かれていますから、興味のある方は
こちら をご覧になってください。金子秀夫さんの『人間の塔』への書評です。



  研究書『白鳥省吾物語(上巻)
  shiratori syogo monogatari    
 
 
 
 
2002.11.26
宮城県栗原郡栗駒町
「白鳥省吾を研究する会」事務局 佐藤吉一氏 発行
原価3900円
 

宮城県の生んだ国民的詩人・白鳥省吾の人と作品についての研究書です。事務局の佐藤吉一氏は宮城県在住の高校教師で、卒論に「白鳥省吾研究−省吾詩の原点−」を書いたほどの方で、それ以後も研究を続けてきたようです。これは上巻となっており、近々下巻も出るようですから、それと合わせると白鳥省吾研究の一大集大成ということになると思います。

 また、この本の出版はオンデマンド方式で、5年ほど前に日本ペンクラブ電子メディア委員会(当時は電子メディア対応研究会)で研究対象となったものです。インターネット利用の少量出版に向いている方式であり、すでに実用の段階に入ったのは知っていましたが、実物を手に取るのは初めてです。多少、文字の汚さなどの難点、ルビの制約などがありますが、出版物として問題ないレベルだと思いました。

 本の内容は、白鳥省吾の生誕から1926年(大正15年)頃までのことが書かれていますが、参考文献が非常に多いのに驚かされます。きちんと数えてはいませんけど100を越えているのではないかと思います。それだけ、可能な限りの文献にあたって論考しているわけで、著者の真摯な態度がそこからも窺うことができます。特に北原白秋との詩とは何か≠フ1年半に渡る論争は圧巻で、現在でも考えなければならない原点であると思います。

 非常に厚い本で、490頁あります。下巻と合わせると1000頁に及ぶ大著になるはずで、白鳥省吾研究のみならず、日本の近代詩を考える上で貴重な研究書と云えましょう。近代詩に限らず、戦後詩の原点とも言うべきものです。詩人と呼ばれる人達、詩が好きな人達には、詩の原理を考える上でも参考にしてほしい一冊です。インターネット上では50部しか販売しないそうですから、早めに
 
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~y-sato/ へ申し込んでください。



  個人詩誌『粋青』32号
  suisei 32    
 
 
 
 
2003.2
大阪府岸和田市
後山光行氏 発行
非売品
 

    ホットオレンジ

   寒い真冬の頃
   自動販売機に新しく入れられた
   ホットオレンジの缶ジュースを見つけた
   闇のなかで
   そのまわりだけがぼんやりと明るく
   平成も十五年が
   すぐそこまでやって来ていた

   まだ酢橘という果物を
   よくしらなかった頃
   冬のフィリピンで
   ホットカラマンシーという飲み物を
   よく飲んだ
   名前も忘れかかっているので
   碓かではないのだが
   酢橘によく似た果吻のジュースがあった
   おおきなホテルでしか無かったような気もするが
   その向こうに何か重苦しいものがあった
   昭和五+午代の頃だったろうか

   私の生家には
   大きな橙の木があった
   寒い季飾にはいっぱいに実って
   凍みる朝などよく洛ちた
   楽しみが少なかったあの時代の夜
   橙をふたつに割って両手でしぼった汁に
   お湯と砂糖を混ぜて飲んだものだった
   時には橙の種なども入っていて
   今思えばなつかしい味だ

   言葉数は少なくても
   炭をいれた掘りごたつのあたりに
   ぼんやりと
   家族のあたたかいだんらんがあった
   昭和二十年代から三十年代の頃

   自動販売機のあかりの
   ぼんやりとしたあたたかさのようなものの
   向こうから
   
----橙でもしぼって飲むかね
   
----みんな飲みんさるかな
   と母親がそっとこたつから抜け出すのを
   想い浮べる
   すっぱい味がひろがっている

 最終連とその前の第4連が良いですね。作者は私と同年代ですから、この雰囲気は良く判ります。ただし私の家は自営の床屋でしたから、両親とも夜遅くまで働いていて「ぼんやりと/家族のあたたかいだんらん」というのは存在しなかったのですが、それでもこれは良く理解できます。そういう意味では「母親がそっとこたつから抜け出す」ということも無かったことになりますけど、でも、そういう時代だったことに思いを馳せます。テレビはまだ無く、店の二階の居間でラジオを聞いていて記憶と、この2連はうまく重なるのです。

 「すっぱい味がひろがっている」というフレーズはもちろん橙のすっぱさと感傷がダブルイメージとして使われているいのですが、これも巧い行だと思います。作品の締めとしてきちんと収まっていると云えるのではないでしょうか。懐かしい風景を思い出しながら拝読した作品です。



  詩誌『蠻』132号
  ban_132    
 
 
 
 
2003.1.31
埼玉県所沢市
秦健一郎氏 発行
非売品
 

    立っているもの    穂高夕子

   渚に 何かが立っているような
   人なのか 風なのか
   それとも 少女に連れ戻そうとする波なのか

   近づいては行けない間隔で
   記憶の潮が引いて行く
   あの約束は いつだったか そしてどんな深さだったか
   海は太古から同じようでいて
   そのくせ二度と同じ波は寄せては来ない
   渚に書かれた若いメロディーは
   唄われないまま消されて その後に
   小さな貝殻が置き忘れられる

   立っているものよ
   私の時間は少なくなった
   そろそろ 姿を現しなさい

 「立っているもの」は様々に解釈できると思います。「記憶」でも「波」でも「約束」でも、あるいは時間でも生命でも良いかと思います。作者にはもちろん確たるイメージがあるのでしょうが、そこは読者に任されているとも思えるのです。ポイントは「海は太古から同じようでいて/そのくせ二度と同じ波は寄せては来ない」というフレーズにあるのかもしれません。人生の年輪を重ねないと書けない作品と思いました。




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