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「モンガラ
カワハギ」 |
新井克彦画 |
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2004.12.26(日)
職場の先輩の母上が亡くなって、告別式に出席してきました。98歳だったそうですから、大往生というこころでしょうね。そのせいか、若い人が亡くなったときのような雰囲気ではなく、落ち着いた雰囲気の告別式でした。人が亡くなったのですから哀しくないはずはないんですけど、でも、違う。私の祖父が94歳で、義母の母親は98歳でしたから、それと同じような感じを受けました。
いずれ人は死ぬもの。でも、同じ死ぬのなら天寿を全うした方が回りのためにもいいんですね。さて、私はどうなるだろう(^^;
○長岡昭四郎氏著『詩』 |
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2004.10.25(再版) |
東京都板橋区 |
ブラザー商会刊 |
1000円 |
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うらはら 長岡昭四郎
サムライをしているとき
四郎おもてをあげいといわれた
腹をわって話し合おうともいわれた
敵にうらをみせるとは何ごとだと叱られたこともある
(背中を見せて逃げたがけしからんというのだ)
サムライはサムライでも足軽に毛の生えたようなもの
こんなものやってられるかいとそこを飛び出した
出てはみたが行くあてがなく彷徨(さまよ)っているうちに
悪い水に中(あた)って下痢が止まらない
とうとう行きだおれて意識を失った
これでおわりになるはずが
通りがかりの医師に手当を受けた
おんがえしに住み込みの下男をやっていると
インヨウキョジツだとかヒョウリカンネツ
などという言葉が耳に念仏
薬箱をかついでついていくと人のいい医師は
裏長屋なんかの金になりそうもないところまではいっていく
おかげで病人のそばで見てることが出来たが
背中が表(ひょう)で陽(よう)
腹が裏(り)で陰(いん)
このてでいくとあのサムライのいった
おもてをあげいというのは背中を見せることで
うらを見せたというのは敵に腹を出したことになる
(四郎は勇敢ではないか)
はて おれはなにか間違えたのではないか
あべこべで裏と表の合わないことを不一致
これを称してうらはらという
そこで四郎は膝をたたいた
四郎が一人悦にいった顔を見て
医師は目を白黒させた
そう言えばサムライはメシを食うために人を殺し
医師はメシを食うために人を助けている
世の中自体がまるでうらはらではないか
そこで今度は四郎が目を白黒させた
(注)陰陽虚実・表裏寒熱――漢方の用語
読み始めて、過去に読んだことがあると気付きました。調べてみたら 2001.9.22 に初版をいただいていたんですね。でも面白くて今回も最後まで読んでしまいました。前回も書いたのですが、読みにくくて堅苦しい詩論ではなく、普段の言葉で書かれた詩論です。ちなみに副題は「面白く読んで楽しく書く」となっています。しかし内容はかなり高度なことが書かれていますから、初心者だけでなくベテランも復習のつもりで読めると思います。
前回は詩をまったく紹介していませんでしたから、今回は著者の作品を紹介してみます。「(十三)矛盾について」という章に収められています。詩を成立させる重要な要素のひとつに矛盾≠ェある、という論点で書かれた章です。著者は現在、漢方医療をやっていますが、それ以前は大衆娯楽小説に時代物を書いていたそうです。それを底流に置いて読むと理解が早いかもしれませんけど、それを抜きにしても「うらはら」の意図は伝わると思います。この作品の後に書かれている著者の言葉が佳いのですが、止めましょう。買って読んで見てください。
「面白く読んで楽しく書ける」本です。私も少し自信を持ちました。再版されるほどの本ですから、それだけ読者の支持を得ているのでしょう。ご一度をお薦めします。
○隔月刊詩誌『鰐組』207号 |
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2004.12.5 |
東京都台東区 |
ワニ・プロダクショク
発行 |
400円 |
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挨拶 福原恒雄
見る目が止まる
よこぎったのは
目ん玉くらいのハエである
切って捨てた茄子の蔕(へた)に降りた
脚ふんばって前のめり
唸ってしまうほどの体毛はきらいで
こえ掛けられない
山のクヌギの汁でも吸っているのが
栄養だろうに
ものみなほどなく無味乾燥にくるまれる
こんなえいせいばやりに飛んでくるなんて
どんな祖国に挨拶したいのか
赤茶けた山腹に妄想描いてことほぐ時代だから
残滓に産卵する気になってももともと常道よ
ましてここでは珍客の到来
羽の光沢は
祖国を担ぐ
そう唱和してほしいのなら
ふんばらないでもっと踊ればいいのに
もう捨てるよ
ここでは残ったものも残らなくても
みんな生ごみ
埋めて壊してまた活用のきまり
闇いろの地などもうどこにもないさ
睨むなよ
飛んだところがわが祖国
止まったところがわが暮らし
ほっ 胸を張ったか お尻が鳴ったか
窓から出ていくのは見たが
あとは音沙汰なし
翌々日かな
花瓶の首垂れた椿の葉にこぼれた花粉がひかって
その真ん中のしみは
黴に覆われて
羽を立てたまま動かないハエ一つ
祖国からの挨拶はおれの視力にとどかない
「目ん玉くらいのハエ」が「切って捨てた茄子の蔕に降りた」。ハエは「残滓に産卵する気になって」、「おれ」を「睨」み、結局は「黴に覆われて/羽を立てたまま動かない」。そのハエが活動している場所は「えいせいばやり」の「赤茶けた山腹に妄想描いてことほ」ぎ、「残ったものも残らなくても/みんな生ごみ」にして「埋めて壊してまた活用」する「わが祖国」。二重にも三重にもなっている構造ですが、この二つだけはとりあえず読み取れたように思います。
問題は「挨拶」でしょうね。タイトルでもあるし「祖国」と「挨拶」が2回も対になって出てきます。第1連の「どんな祖国に挨拶したいのか」というフレーズの主語は「ハエ」ですが、最終連の「祖国からの挨拶はおれの視力にとどかない」の主語は「祖国」ですから、その変化に気をつける必要があるのですが、どうもそこから先に進めません。もうひとつキーワードが欲しいのですけど、それはやっぱり「ハエ」だろうと思います。「ハエ」は何の喩なのかを掴む必要があります。最初は米軍機などを考えましたけど、ちょっと無理があります。甘い汁を吸う輩≠フ方が近いかもしれません。
「ハエ」は「どんな祖国に挨拶したい」と思ったのだろう。そのハエは死んでしまったのに、ハエから挨拶を受けた「祖国からの挨拶はおれの視力にとどかない」。そう読んだ方が素直かもしれません。汚いハエが挨拶をしようと思った祖国は、きっと汚いのだから「おれの視力にとど」くはずがない、とも読めます。そんなに「わが祖国」は腐っているのか、とまで読むことが出来るか。悩みますね。皆さんはどんな読みをするでしょうか。
○詩誌『インディゴ』31号 |
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2004.12.24 |
高知県高知市 |
文月奈津氏方・インディゴ発行所 |
500円 |
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秋雲 文月奈津
よっていったら
と
かぜがいう
もともときらいじゃないから
ことわる理由もない
予定にはなかったけれど
みちじゅんを変えて
書店による
直感で一冊
呼ばれて
二冊
ついでにこれも
と
四、五冊買って
おかしくなる
そう
読みもしないのだ
自分でわかっている
でも
買ってしまう
そんな私のくせ
知ってか
知らずか
気にする風もなく
そ知らぬかおして
秋のくも
ながれる
秋雲の積ん読本を買い足せり 奈津
「読みもしないのだ/自分でわかっている」のに買ってしまうことって、確かにありますね。でも「四、五冊買」うというのはすごい。私だったらせいぜい2冊だな。途中でマズイって気がつきますから(^^;
「秋のくも」の遣い方が上手いと思います。それが巧く最後の句に繋がっていますね。他人の句ではなくご自分の句を遣えるというのは羨ましい限りです。他人の句だとどうしても負ける場合が多いのですが、ご自分の句ならバランスがとれるように思います。安心して鑑賞できる作品だと思いました。
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