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「唐辛子」
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2004.11.13 |
自宅裏畑にて |
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2005.1.17(月)
今日は阪神・淡路大震災から10年目。犠牲になった方々のご冥福を改めてお祈りいたします。
もうひとつの記念日は拙HPの開局日です。満6年が過ぎました。例年通り、ここで紹介させていただいた本の総数を公表します。総計で3000冊を越えていますから、年平均500冊というところですね。全国の皆様からこんなに沢山の本を、しかも無料でご提供いただき感謝しています。本当によく勉強させていただきました。ここで紹介を始めてから、私の詩に対する見方も、大袈裟かもしれませんが人生観も変った気がしています。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
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詩集等 |
詩誌等 |
合計 |
1999年 |
122 |
205 |
327 |
2000年 |
152 |
271 |
423 |
2001年 |
179 |
313 |
492 |
2002年 |
196 |
378 |
574 |
2003年 |
168 |
438 |
606 |
2004年 |
155 |
462 |
617 |
2005年 |
2 |
20 |
22 |
合計 |
974 |
2091 |
3061 |
○詩誌『孔雀船』65号 |
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2005.1.10 |
東京都国分寺市 |
孔雀船詩社・望月苑巳氏
発行 |
700円 |
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苦しい年波 文屋 順
向こう側に着くまでに
すっかり消失してしまう脆い精神
眼を閉じると
厭な思い出だけが甦って来る
毎年決まった月日に
必ず押し寄せる年波
小さい頃はちっとも怖くなかった
少しずつ年を重ねることが
楽しみのような気がしていた
弱々しく生育した稲のように
私の季節がどんどん壊れていく
観念の世界で
堅実な思惟が薄れると
魂の指針が乱れてしまう
果てしない宇宙の拡がりの
光と闇の中
今年も終わりの日が確実にやって来る
どんな星にも名前があるが
生まれて来なかった君には名前が無い
高い空間に
ザラザラした不純物が漂い
見る見るうちに
大気が汚染されて
いよいよ地球も危なくなってきた
寄る辺ないこの街の片隅で
形の無い時間をやり過ごし
疲れ果てた自覚の未
もう年齢など問題ではなくなる
確かに誕生日というのは「小さい頃はちっとも怖くなかった」ですね。それが「年波」を重ねると「厭な思い出だけが甦って来る」し、「私の季節がどんどん壊れていく」。でも、ある一定の時期を過ぎると「もう年齢など問題ではなくなる」。それは「疲れ果てた自覚の未」のことであって、これはよく判ります。「向こう側に着くまでに/すっかり消失してしまう脆い精神」なんだけど、「生まれて来なかった君」に比べるとどうなんだろう? どちらが良かったか悪かったかは判らないけど、それが現実なんでしょうね。そう考えると「苦しい年波」というタイトルがじわぁと効いてきます。同世代の哀感を感じた作品です。
○詩誌『すてっぷ』68号 |
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2004.11.20 |
京都市左京区 |
河野仁昭氏方・すてっぷ詩話会
発行 |
800円 |
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秋 司 由衣
すぐさま裸になりたがる
猿みたいな男がいたら
その男と山の奥深く入り
テントの家を張って暮らす
ふたりがかりで薪を拾い集めては燃やし
裸のからだを暖めると
男はすぐさま木に登りたがるので
その間わたしは男の好きな茸の大皿を作り
栗の実を煮たりして
今 世界で何が起ころうと
わたしには
関わりはないし
知りたくもない
非常に印象的な作品ですが、最終連はどうでしょう? 言葉がナマで詩語ではないと言えるかもしれません。しかし、ここにこそ作者の一番言いたかったことが表出していると思います。「猿みたいな男」と「山の奥深く入」って「暮らす」。これは誰もが描く理想です。そして「世界で何が起ころうと」知ったことではない、と誰もが本心では思っていることでしょう。それでは生活できないから妥協して生きているのです。そんなことは作者はとっくにご存知で、その上でその矛盾をストレートに書いた作品だと思います。
あとの課題は最終連をいかに詩にするかでしょうね。おそらく1行のプラスで詩に昇華すると思います。具体的な事柄か、男と女を超越したものを持ってくる…タイトルの「秋」が生きていますから、それと関連づけるのも手かもしれません。ヒントにもなりませんが、そんなことを感じた作品です。
○詩と批評誌『呼吸』18号 |
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2004.11.1 |
京都府八幡市 |
武村雄一氏代表・現代京都詩話会
発行 |
500円 |
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希望 田中茂二郎
光は時間のよろこび
樹木は孤独のたのしみ
炎は物質の怒り
風は不幸な人々のため息
自由は鳥かごのなかの自覚
思想はまっすぐ伸ばした背筋
所有は人生の罠
希望は持続する捨身の技
特集「火と水」の中の1編ですが、あまり拘る必要はないと思います。小品ですが、よく考えている作品だと思います。1行1行が重くて、それぞれが1編の詩になりそうです。「炎は物質の怒り」は化学反応への新しい見方のように感じます。「自由は鳥かごのなかの自覚」も謂い得て妙、現代人への痛烈な一矢ですね。「思想はまっすぐ伸ばした背筋」は思想の何たるかを語り、「所有は人生の罠」はまさにその通り。圧巻は「希望は持続する捨身の技」ですね。そうか、希望とは「捨身」を持続させる技術のことなのかと納得させられます。どこかで遣ってみたい詩句ばかりです。
○個人詩誌『息のダンス』5号 |
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2005.1.21 |
滋賀県大津市 |
山本純子氏 発行 |
非売品 |
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海の日 山本純子
海の家には
なぎさ、とか
はまゆう、とか
そんな名前がついていて
貸しボートや
貸し浮き輪には
屋号と通し番号が
白いペンキで描いてある
沖に出てから眺めると
帰るのはあそこ
ボートを借りた海の家
沖からはひしゃげて見える海の家
日がな一日海に遊んで
足は疲れた
手には貝がら
借りもの全部返してしまい
そうして帰る
帰るのはあそこ
ここでない場所
帰っても
またいずれ帰る日がある
帰るのはあそこ
ここでない場所
そのときに
借りもの全部返せるか
手には貝がらにぎっているか
繰り返されている「帰るのはあそこ/ここでない場所」という連が効果的な作品だと思います。それは彼岸を言っているのだと思いますが、「手には貝がらにぎっているか」は見事なフレーズと云えましょう。「借りもの全部返せるか」というフレーズも素晴らしいけど、これは何人かは言えるフレーズだと思います。しかし「手には貝がらにぎっているか」は言えないでしょう。私はこのフレーズでハッとしました。どんな「貝がらにぎって」「帰る」ことができるのか? この設問は衝撃的です。そう考えると彼岸も身近になりますね。
毎号、詩の朗読のレッスン場面がエッセイとして書かれていますが、今号の「グループでレッスンすることの効用」も良かったです。 2002年9月30日
の部屋でも紹介していますが「旅の途中」でという作品をどう朗読するのか、具体的で参考になります。1行1行での息の遣い方の違いは納得できるものがあります。機会のある人は是非ご一読いただきたいものです。
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