きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「唐辛子」 | ||||
2004.11.13 | ||||
自宅裏畑にて | ||||
2005.1.24(月)
昨日は埼玉の「浦和ロイヤルパインズホテル」で「ささきひろしさんの第35回埼玉文学賞受賞&出版祝賀会」が開かれました。出版とは、第2詩集の『カムイエト岬』のことです。私も一応、発起人として名を連ねさせていただきましたので出席させてもらいました。参加110名、すごい人数でしたね。詩人は7割ほど、あとは職場の人やご家族という構成を見ても、誰からも好かれるささきさんらしい会でした。
挨拶は、詩人よりも会社の人や友人の方がおもしろい話をしていました。実業の世界の人の方がささきさんの人となりを良くみているんだなと思いましたね。 写真はそんな彼の交際の広さを物語る人物で、小山義和さんとおっしゃるアルプホルン・ミュージックソー・ギターの奏者です。床に置かれた長いホルンがお分かりいただけると思いますが、良い音をしていました。テーブルに立て掛けてあるミュージックソーもお分かりいただけますか? 本当に鋸のようでした。これは、1950年代だったと思いますが、世界初の電子楽器「テルミー」のような音をしていました。 彼の生地の北海道・増毛の地酒「國稀(くにまれ)」の鏡開きがあったりして、ちょっと変った祝賀会で、楽しませてもらいました。 |
こちらは、会が終って、二次会も終って、三次会の大宮のカラオケで唄うささきさん。私は以前からささきさんの新築のお宅に泊めてもらうことになっていましたので、思う存分つき合いました。ここは4人で行ったのですが、この後は東部野田線の七里駅そばの会津料理店「赤べこ」で二人で呑んで、やっとささき家に到着した次第です。12時頃だったのかな? それから午前2時頃まで呑んで話して、埼玉の夜を満喫させてもらいました。いい夜だったなあ。 そんなわけで今日は休暇です。午後2時過ぎに帰宅しました。途中、私の休暇を知らない人から仕事の電話もあったりしましたけど、無事にやり過ごし(^^; のんびりしているところです。本当に今日の休暇は有意義だったと思います。ささきさん、ありがとう! |
○機関誌『未知と無知のあいだ』22号 | ||||
2005.2.10 | ||||
東京都調布市 | ||||
遠丸 立氏編集・方向感覚出版 発行 | ||||
250円 | ||||
関節症のため、手脚に装具を付けた要介護一のわたしが久々の遠
出をした。それを決意させたのは、思いがけない、神奈川県南足柄市
郷土資料館からの特別企画展への誘いであった。神奈川県立小田原
高等女学校。わたしの母校である。在学中に城内高等学校と改名、そ
れが今年男子校の県立小田原高等学校に統合され、合併後の新校名
は県立小田原高等学校、つまりわたしの母校の名は消滅したのであ
る。それを惜しまれたのが、両校にゆかりの深い杉山幾一館長であ
った。氏は三十数年に亙り、両校で教鞭をとられた方。長年私的に
蒐集された両校出身の文人たちの著書・書簡・原稿の類を元に、秋
期特別展「小田中と高女の文士たち」が企画された。その中の一人
としてわたしを取り上げて下さったのだ。
晴れ女だった母の加護だろうか。予定した十一月二十三日は小春日
和の快晴。新松田駅まで車で出迎えて下さったのは、旧知の詩人の
村山精二氏。久し振りに会う彼は、物静かな長身に白髪が混じり、幾
分浅黒く達しくなったようだ。助手席に座って昔話など交しながら、
美しく舗装された南足柄の道を走る。大雄山に向かって走る。その
時、正面にくっきり雪に覆われた富士山が見えた。道の行く手には、
いにしえから続く杉並木。
途中、山小屋風の茶店に立ち寄って、とろろ蕎麦など賞味し、資
料館へ向かう。車が着くや、玄関に、館長、学芸員の飯岡葉子さん
の出迎えを受けた。その中に、懐かしい小学校時代の級友、宇佐美
ミサ子さんの笑顔が、こちらに向かって手を振っている。文学博士
でもある彼女は、女性史の研究に取り組んでいる。伺うところによ
れば、飯岡さんは、宇佐美さんの研究の助手のようなこともなされ
たとか。
特別展パンフレットの「ごあいさつ」に、「今秋の特別展では新校
の発足を祝いながら、文学の世界で記憶に残る、旧制中学と高等女
学校に焦点を置いた。(中略)小田原における文芸の伝統を理解して
頂ければと思う。」と記してある。小田中からは、牧野信一、尾崎一
雄、川崎長太郎、北原武夫、薮田義雄、と錚錚たる凍ぶれが並んで
いるのに反して、良妻賢母の教育を旨とした高女の出身者は、わず
かに明治期、詩人の壷田花子、大正期、随筆家の大垣千枝子、昭和
期、貞松瑩子の三人である。
貞松瑩子さんのエッセイ「忘れ水」の一部を抜粋しました。2004.11.23の部屋でも紹介しましたが、南足柄市郷土資料館を訪れたときのことが書かれていました。肝心の「忘れ水」の部分は割愛してしまって、すみません。しかし、あの時の様子がよく纏められているなと思います。詩人としての貞松瑩子という人の評価は、この企画展でも証明されていますけど、エッセイも一流だと思いますね。さり気なく「杉山幾一館長」のこと、「村山精二」のこと、「小学校時代の級友、宇佐美ミサ子さん」のことが書かれていますが、人物を的確に、簡単明瞭に表現していると思います。もっとも村山精二の「物静かな」というのは、私が猫を被っていたせいで当っていませんけど(^^; ご亭主の著名な遠丸立氏と親しくお話しさせていただいたのは、その日が初めてでしたので緊張があったのかもしれません。
それにしても「良妻賢母の教育」はどこに行ったのかなと思います。貞松瑩子さんの年代の女性とお話ししていて、いいなと思うのは、その「良妻賢母」から来ているのではないかと、このエッセイを読んで感じました。封建的な良妻賢母を否定された中で戦後の私たちは育ちましたけど、良妻賢母とは他人のことを思いやる思想ではなかったのかと今にして思います。物質的に得たものは大きく、それで豊かになったつもりでいますが、失ったものの方が大きかったのだなと感じた作品です。
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