きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.5.6 群馬県榛東村にて

 


2006.5.5(金)

 日本詩人クラブの理事会が開催されました。私からの報告は、6月3日〜4日に第3回のオンライン作品研究会を開催すること、HPのアクセスは先月から465件であったこと、7月31日〜8月6日に開催される詩書画展の下見と挨拶に銀座・地球堂ギャラリーに行ってきたことなどです。このうち地球堂ギャラリー訪問は 
4月15日の部屋 に簡単ですが書いてありますので、よろしかったら参照してください。
 あとは主に5月13日の総会に向けた話し合いを行いました。公式な見解は機関誌『詩界通信』に譲りますが、歴史的な総会になることは確実です。最高の意思決定機関・総会で「有限責任中間法人日本詩人クラブ」が発足するかどうかが決まります。是非ご都合つけておいでください。お待ちしています。



詩誌『漱流』28号
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2006.5.1 静岡県焼津市
漱流の会・岩崎豊市氏 発行 400円

<目次>
◆作 品
わが顎よ ……………… 久保 律二 2  故郷の山と川 … 佐野 久夫 4
かたつむり …………… 小川 恵吉 6  彼 我 ………… 中島光太郎 8
書 棚 ………………… 岩崎 豊市 10  春寂夜 ………… 井村たづ子 12
玉 響 ………………… 土屋 智宏 14
◆談話室 諏訪原城址  岩崎 豊市 16  ◆編集室 ……………………… 18
題字/岸本聿鳳



 春寂夜/井村たづ子

川と川の白い掌がひとつになって
漕ぎ手のない船を出すところ
夕映えのまぶしさの中にも
帰らない人の闇は
ひりひり裂けて泡立っている

あちら側とこちら側
微風が重なり
桜を散らせている
薄桃色の傷が
あとからあとから降ってきては
「もう花ではありません」
とささやきかけるしじま

昨夜 恋人の唇をかんだ
彼は痛いという代わりに
「咲いた」とほほえんだけれど
花びらだけでどうして生きられよう

眠っている間に水辺を滑ってきた人が
逝った人なのか恋人なのか
わからない
身体はほてったまま
魂はむき出しの骨を抱えて
深みの果ての河原へと戻される

<かかとだけの人> と
<かかとがない人> が
激しく助走する小暗い光の海
破壊の音が
私を呑み込む勢いで近づいてくる

まぶたの裏には
すいれんの花、花、花が浮き
理不尽にも
桜はまだ空を散り染めている

「殺すほど憎まなくて
どうして愛と言えようか」
昨夜 恋人の唇をかんだ
それは唇だったのか
首だったのか

河原には
臨終のうめきを刻んだ木が
すうっと一本立っている

誰かが私の二の腕をつかむ

砂嵐が舞い
桜が舞い
私の首が吊るされる
木の枝が
あちらからもこちらからも
無数の手のように伸びてくる
春寂夜

 「春寂夜」はおそらく造語だろうと思います。そのまま春の寂しい夜≠ニ採って良いでしょう。春は通常、冬が終った喜びの季節と受け止められていますが、その反面、春の夜には寂しさもあると私も感じています。夜は物理的にまだ冷えているから、という見方もありましょうけど、それだけではないものがありますね。例えば祭のあと、群集の中の孤独、桜の花の満開の下、などに近いかもしれません。それを作者は敏感に感じ取って「漕ぎ手のない船を出すところ」であったり「薄桃色の傷」であったりと表現しているように思います。
 注目すべきはその感覚が決しておとなしいものではないということです。「殺すほど憎まなくて/どうして愛と言えようか」「私の首が吊るされる」などのフレーズは、春の狂気のようなものを謂っているのかもしれません。井村たづ子という詩人の作品をあまり読んだ記憶がなく、拙HPでも初めて紹介すると思います。この感性を今後も注視していきたいと思っています。




個人誌『せおん』2号
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2006.5.1 愛媛県今治市
柳原省三氏 発行 非売品

<目次>
時差の朝
美しい響き
でこぼこの鯉     あとがき
やりきれない春    表紙写真:シドニー沖の朝日



 やりきれない春

からりと晴れた春の朝は
ぽっかり開いた空洞に
魂を吸われそうになる

山の桜も咲き始め
世間の催し物も賑やかなのに
ぼくの心は満たされないのだ
長い外航船員の生活のせいもあるのか
人ごみも春もやりきれない
桜の木の下には
屍骸が埋まっているといったのは
あれは誰だったかしら

きょうはある市民グループの
しまなみドライブという催しに
参加して大いに楽しんだ
しかし桜の名所をめぐり
その美しさに浸っていたら
やはり屍骸は埋まっていると
急にぼくにも感じられるようになった

人々の笑顔は遠くに見えるし
驚くほど皮膚に触れる温もりが少ない
この感覚をたどってゆけば
ぽっかり開いた空洞に気づいてしまう

虚しい言葉の中から
燃える言葉だけを拾い集め
火焙りになって果てることができたらと
ふとそんなことを考えそうになって
人ごみも春もやりきれないのだ

 偶然ですが前出の井村たづ子さんの感覚と近いものを感じました。「春寂夜」は夜で、こちらには「春の朝」から日中のことで、書き方にも随分と違いはありますが、同質のものがあるように思います。私も含めたこの3人はほぼ同年代ですから、この年代の特質なのかどうかは判りませんけど、妙に一致するところがあると言えるかもしれません。どこかに「ぽっかり開い空洞」を持つ年代、と言ったら恰好良過ぎかな?
 最終連はやはり詩人だなと思います。どうしても「虚しい言葉」が気になってしまうのでしょうね。そこから「燃える言葉だけを拾い集め」のが詩人の仕事でしょうが、現実は「人ごみも春もやりきれないのだ」と言わざるを得ません。詩人の苦悩に季節はありませんけど、やはり春は一番それを感じるのだろうと思った作品です。



詩誌『掌』132号
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2006.5.1 横浜市青葉区
志崎 純氏編集・掌詩人グループ 発行 非売品

<目次>
エッセイ
詩の開眼 ………志崎 純…10  一行詩への疑問 …堀井 勉…11

葡萄の木 ………石川 敦…2  裏切り(他一編) …掘井 勉…4
川 ………………志崎 純…6  落日 ………………中村雅勇…8
時計の舌 ………福原恒雄…12  毎朝目覚めると …国広 剛…14
整形外科雑感 …半澤 昇…17
        編集後記    表紙題字 長谷川幸子



 時計の舌/福原恒雄

緩慢に時を告げる古時計のあまったるい舌に
装飾の疲れが熟しているとしか思わなかった

アカイ アカイ
アサヒ
アサヒ
ヘイタイサン
ススメ ススメ
チテ チテ タ トタ テテ
タテ タ
ケフモ 学校ヘ イケルノハ
兵隊サンノ オカゲデス
漢字があったようななかったような
膳の飯ぢゃわんに付いている絵
国民学校一年生 を偶然のようにこぼすなんて

しんけんにゆびで机の面を叩いた
トツー トツートツー ツートトトも
四百米さきの見えにくい顔に
両の手で音を風にかえた紅白の手旗も

ありがたく思いだせと言いたげな
初等教育の刻にいつ変わったのか
焼けただれ
焼けだされ
火達磨の幼年のゼンマイを引き締めていまも
校章のひかる行方知れずの学帽を探しているのか

緩慢な明かり の向こうで
またもべろべろ踊りだしたちるどれん
しなやかな手つきの先の懲りない爪
あかんべえの舌にも絡みつく復刻の朝もや

 いつか来た道≠ェ具体化している現在、胸がスカッとする詩だなぁと思う反面、この先どうなるのかという不安に苛まれています。私は戦後生まれなので体験は無いのですが、作者は「国民学校」を経験したはずです。その記憶が昨今の「ありがたく思いだせと言いたげな/初等教育の刻」を告発しているのだと云えましょう。しかし、拙HPで何度も書いていることですが「またもべろべろ踊りだしたちるどれん」を選び出したのは他ならぬ私たち。滅びるものは滅びるが良しと思いつつも、この作品のような意地をせめて見せなければならんのだろうなとも思っています。




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