きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2006.10.22 山梨県立美術館 |
2006.11.17(金)
久しぶりに渋谷で映画を観てきました。いま話題のクリント・イーストウッド監督「父親たちの星条旗」。非常に良かったです。物語は太平洋戦争末期の硫黄島を舞台に、よく知られたこの絵がキーワードです。
米軍側の視点に立って、この絵に写っている生き残りの3人の兵士のその後を通して、クリント・イーストウッド監督は強烈なメッセージを与えてくれました。機会があったらぜひご覧ください。2部作の日本軍側からの「硫黄島からの手紙」は12月9日から。もちろん、こちらも観るつもりです。
最近、BSの深夜放送で「ローハイド」を観る機会が多いのですが、若き日のクリント・イーストウッドに監督になった現在を重ねることができます。それもまた楽しみ。映画って、やっぱり面白いですね。
○二人誌『すぴんくす』2号 |
2006.11.25 東京都板橋区 海埜今日子氏発行 250円 |
<目次>
寄稿 苔桃より 支倉隆子…2
睡眠の軌跡 佐伯多美子…6
砂街/門街 海埜今日子…11
Bastet's Room
砂街/海埜今日子
旅がすけるまで歩きたかった。唐突なまでに砂。写真たちのめくれ、
すどおりが加速され、すれちがったどんなものもかきあつめ、とい
う動作の際で、ささやく時間をながめている。あせた道しるべ、風
をあえぐくるしい街。気流をまとうようにして、想いたちがよぎっ
ていたから、うつむくそぶりであたためていたんです。草の香りが
待たれるわきで、むかしの規律がさわいでいる。砂の底がかつての
ながれだ。いないひとをささえたくなる、そんなこともありました、
ね。堀のよすががこぼれるので、出立のてまえでつかえるのだと、
風聞だったか、願いのかたむく気候がある。砂にうもれて波打つ記
述、あるいはつぶやきをぬうように芽吹く草。交わしていたのはた
いてい道端だったから。たまった歩行がざりざりと音をたてるので、
つかれた口。ゆきかう盲点のたぶんそばで、会話をしまう、あれは
旅行者たちなのだ。中州のような街、いない橋。よく似たながれを
みかけました、思い出はそれほどではありませんでした。こびりつ
いたためらいは、いつでも郊外になびいていた。草の垂直がしずか
にやわらぎ、起きるためのように息吹をつたえる。そんなにガラス
をあつめてどうするんです? 日々のあいさつをたばね、こごえる
写真をさすろうと。眠りにおりる砂、やさしいかけらがめりこむ跡
地。案外低い土地だった、伝聞のありかをたばねては、剥離がめだ
つ文字だった。ほこりにむせた影がのび、郷愁付近で砂の目ざめる。
では、かけがえのなさは黄ばむことがないのですね。なつかしさが
あらげた破片が、ひとづての関係をこすりとり、日々のかたちを空
にえがく。帰ったことをいつでもわすれ、待っているので、視線の
さびしい窓だった。堀をつたう行き先、しずくにもたつく歩行。砂
をとどける新芽のたよりに、ふるいガラスがひびくだろう。あなた
の旅がきびすにつげる、風をそそぐ。背後でおぼえるそれでも街が。
安部公房の名作に「砂の女」という短編がありますが、それと近いものを感じた作品です。ただし「砂の女」は砂の谷底にある家という面では垂直的であるのに対し、「砂街」は水平な印象を受けます。「あせた道しるべ」「草の垂直」はあるが、水平からちょっと垂直に出た程度。「砂の底」や「案外低い土地だった」がありますけど、これも谷底とは違う。どちらが良いとか悪いとかの話ではなく、この作品は意図していないと思いますが結果的にそうなっているのではないかと思うのです。
それよりも「会話をしまう」、「こびりついたためらい」、「日々のあいさつをたば」る、「剥離がめだつ文字」、「かけがえのなさは黄ばむことがない」、「視線のさびしい窓」などの詩語に注目しています。これらは、当り前ですけど散文の言葉ではありません。詩でしか表現できない言葉で、作者は常にそれを実践しており、この作品も期待を裏切りませんでした。意味ではなく、現代の「砂街」を感じるか、それが読者に問われていると思います。
○詩誌『カラ』2号 |
2006.11.1 東京都国立市 松原牧子氏発行 400円 |
<目次>
追廻町/松原牧子 1 しっぽ/moca 3
あいだな石関善治郎 4 Re:Circulated
Island//boundary/外山功雄 5
Hurricane/鳴海
宥 6 睡眠の軌跡/佐伯多美子 7
睡眠の軌跡/佐伯多美子
ここ、閉鎖病棟に移されてから、気味が悪い、と思った。ホールには病棟から出て男女があ
ふれているが、民には、その光景が奇異に見えた。何が奇異に見えたのかは分らなかった、が、
強いていってみれば空気だろうか。大きな袋の中に閉じ込められた空気が不協和音を発して鳴
っている。その、袋はまるく膨らんでいるのではなく、一方でむき出しのペニスのような突起
物が突き出しているようであり、一方では、空気の中をぶよぶよした不健康に太った塊が浮遊
してぶつかり合っている。もう一方では、不自然な病的に痩せた角張った目が空気を尖らせて
いる。それらが、それぞれ、蠢いて奇妙な震える嬌声がいびつで、空気そのものが病的なグロ
テスクな異常さでもあった。民は、他人事のように冷ややかにこの空気を、気味が悪いと思っ
た。自分だけは違うと思っていた。食事時もこれらの人たちと、いくらその都度洗われ消毒さ
れているといっても、共同の食器で食べるということはただ気持ちが悪かった。食欲をまた失
くした。
民が洗面所で歯を磨いていると、隣で化粧をしていた女が口紅を塗りながらふと話しかけて
きた。
「民さんはかわいそうねぇ、貧相な顔をしてねぇ、ひんそうねぇ、ひんそうねぇ」
「ひんそうねぇ」のところを歌うように繰り返した。民は他人とできるだけ関わらないように
していたが、向こうから声をかけてきた。「ひんそうねぇ」と言われて少なからず驚いた。民
もまったく同じようにこの女に抱いていた言葉だった。貧相とはこういう顔か、と常々思って
いた。カマキリが貧相かどうか分らないが、この女に鎌を持たせたらカマキリそのものだ。と
思っていた。どこがどうというのではなかった。顔立ちは端整にもみえた。ただ、ほとんど死
んでいるような目には一点だけに弱い光をたくわえて見過ごすことのできない三角の険があっ
た。そして、顎は薄く尖っていた。存在そのものが病的に痩せて薄かった。その女に「ひんそ
うねぇ」と言われて目の前の鏡を覗き込んで自分の顔をみた。突き出た頬骨、歯磨き粉のはみ
出たむき出しの歯、光を失くした何も見ない目、伸びた髪、板のような硬い胸も、尖った肩も、
その女の薄さと変わりはなかった。化粧をしてない分民のほうが艶もなかった。自分だけは違
う、と閉ざしていたものが揺らいできた。民もまた、他人からは気味が悪いと思われていたひ
とりかも知れなかった。
また、洗面所の一番奥では、三十をすこし過ぎたばかりとみえる女が手を洗っている。この
女はいつも手を洗っている。なにかに触れるとそのたびに洗面所に行き手を洗う。まず、水で
洗い、つぎに石鹸をつけて一本一本の指先から指の間までていねいに洗う。それから石鹸の泡
の手で蛇口を洗い、水道の栓を洗う。それを水で流してまた石鹸をつけて手を洗う。それを、
幾度ともなくなんどもなんどもくりかえす。その、行為に執心するすがたも、また、潔癖症と
いうには異常にみえて狂気じみていた。しかし、その狂気じみたすがたも、また民も、自分の
すがたであることに気づいてはいなかった。とにかく、この空気に触れること自体いやだった。
染まってしまいそうで嫌悪感を募っていた。自分だけは潔癖でいたかった。
週二回に決められている入浴も、十数人ずつ交代で入る。グリーンにいるときは黙って座っ
ているだけで看護師さんが全身洗ってくれる。なされるままになつて民はそれがいやだったが、
他の人もみんな洗ってもらっているし、グリーンでは狭い部屋に鍵で拘束され自分でなにかを
するという行為すべての自由を制限されていたので、自分で洗うのも禁じられているのかと思
っていた。しかし、あるとき、思い切って、
「自分で洗います」
と、強い口調でいいきると、看護師さんからタオルをうばって自分で洗いはじめた。全身から
足の指の間まで皮膚が赤くなるまで洗いきると、浴槽に他の人に触れないようそっと手足をの
ばし、ここにきて、はじめて風呂にはいったという気分にひたった。それからは、入浴のたび
にここの空気から身を清めるかのように湯を頭からかぶり禊(みそぎ)をしたつもりでいた。
前出の『すぴんくす』2号にも「睡眠の軌跡」という作品があります。実は創刊号にも、紹介した詩誌『カラ』の創刊号にも、他の詩誌にも同じタイトルの作品があります。私が気付いただけでこの1年ほどは同じタイトルの作品を書き続けているようです。主人公も同じ「民」。いずれは1冊の詩集で全貌が明らかにされると思い、今から楽しみにしているのです。
紹介したのは、まさにその一部分に過ぎませんが、「民」の置かれている状況がよく判ります。「閉鎖病棟」での女同士の葛藤は、面白いと言えば面白いのですけど、女性に限らず人間の暗部を見ているようで、複雑な心境になります。しかし、それを暴くのが文学。どこまで暴いてくれるのか、これからも楽しみな連作です。
○詩と散文『多島海』10号 |
2006.11.15 神戸市北区 江口節氏発行 非売品 |
<目次>
Poem
始まりと終わり*彼末れい子…2 生き急ぎ*松本衆司…4
六月*森原直子…8 いちじく*江口 節…12
Prose
うつせみの世の人なれば*松本衆司…16 名残の月*森原直子…24
土粘土で遊ぶ子ども達*彼末れい子…28 内面の手記(抄)*M・ノエル 訳 江口 節…32
同人名簿…15 入り江で…36 カット 彼末れい子
始まりと終わり/彼末れい子
庭の梅の木で
スズメたちが群れ騒いでいて
なぜか ぱたっとさえずりをやめるときがある
そして しばらくすると
また いっせいにさえずりだす
ものごとの始まりはわかりやすい
コンサートホールでは
一曲演奏が終わると
誰かがまっ先に拍手を始める
あぜ道の彼岸花でいえば
朝方の冷え込みが二十度Cになると
開花が始まる
けれど ものごとの終わりはわかりにくい
拍手をやめるタイミングも
夏の季節の終わりも
イラク戦争は終わったといわれても
爆撃が終わらない
庭の群れスズメが
奇跡のようにさえずりやむのは
誰かの合図でもなく
風のせいでもない
わたしの知らない何かのせい
騒がしい時代が終わるときも
終わってから
やっとわかる とでもいうの?
確かに「ものごとの始まりはわかりやすい」「けれど ものごとの終わりはわかりにくい」ものですね。それを「拍手をやめるタイミング」「夏の季節の終わり」と譬えたところにこの作品の良さがあると思います。「イラク戦争」の終わりは、この詩の場合、ちょっと異質でそぐわない気もしますが、この詩全体を反戦詩と考えれば納得がいきます。あるいは、そう考えなくとも、現実に引き戻す作用と採ればよいのかもしれません。最終連の「騒がしい時代が終わるときも」というフレーズとともに、「スズメたち」や「あぜ道の彼岸花」だけに視座があるのではないという証のように思えます。それにしてもおもしろい処に目をつけた佳品と云えましょう。
○瀧葉子氏はがき詩画集『いのち』 |
2006.11.1 栃木県宇都宮市 自然社刊 1050円 |
<目次>
いのち 一
ハナムグリ 10 アカウシアブ 11
テントウムシ 12 越冬 13
雨 14 ベニシジミ 15
蟻 16 シデムシ 17
アシナガバチ 18 キアゲハ 19
アメンボ 20 じいそぶ 21
ユウマダラエダシャク 22
オニヤンマ 23 沼 24
くもり 25 駐車場 26
アブラゼミ
いのち 二
食樹 30 学者 31
アオバセセリ 32 クサギカメムシ 33
アオマツムシ 34 カマキリ 35
イチモンジセセリ 36 ミスジチョウ 37
ひとりぼっち 38 アサギマダラ 39
ヒカゲチョウ 40 きずあと 41
ときの流れ 42 ホタル 43
道 44 報告 45
くらし 46
きずあと
ヒグラシが
鳴いている
メスは食べるところが多い
胸の肉には
少し塩けがある
むかしは
こんな話も
あった
2005年1月1日刊行の前詩画集『山と川と野と』に続く詩画集で、タイトルの通り葉書大の頁に精密な昆虫や植物の絵と自筆の詩が添えられた美しい本です。前詩集にはハイパーリンクを張っておきましたので、合わせてご鑑賞いただければと思います。
紹介した詩は本著の中ではちょっと異質ですが、内容に驚いた作品です。「むかし」とは戦中・戦後のことかもしれません。食料難の時代に、そういえば蝉まで食べたと聞いたことがあったような…。それを「きずあと」と題したところに詩人の感性を感じます。幹にとまった「ヒグラシ」の絵が添えられ、美しいものに対する人間の「きずあと」を思った作品です。
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