きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2007.4.8 神奈川県真鶴岬




2007.5.1(火)


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季刊詩誌『裸人』29号
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2007.5.1 千葉県香取市
五喜田正巳氏方・裸人の会発行 500円

<目次>
■詩
権兵衛と鴉−天彦五男 3          しゃぼん玉−禿 慶子 6
Kさん−長谷川忍 8            このひとは教えてくれた−森 常治 10
■エッセイ
豊かな感覚の王国−村野美優 13       詩・空間に漂う視覚表現−山田ネミ 16
■詩
海ヘ−くろこようこ 18           冬日−くろこようこ 21
旅人−水崎野里子 23            ゲルの朝より・再会−水崎野里子 26
■エッセイ
墨色七彩−大石規子 27           カズヨシ・イケダ氏の英語短詩−水崎野里子 33
■雑記
受贈書、後記 37
■詩
我らツンドラ世代−大石規子 38       名画の前で−五喜田正巳 40
文中カット・山田ネミ 表紙・森五貴雄



 しゃぼん玉/禿 慶子

芽ぶきはじめた垣根のむこうで
父親と子供がしゃぼん玉で遊んでいた
ひと吹きで沢山の球がうまれ
ゆるんだ陽気の風に流されていたが
子供はその行方を追うこともなく
細い管を液に浸して
わけもなく飛び出す球を楽しんでいる

しゃぼん玉がこれほど単純な遊びだったのか
容易にくり返される日常のように
さして確認もなく飛び交う情報のように
わたしのなかでしゃぼん玉は
真剣な遊びだった
注意深く息を吹き込み
たったひとつの球を育てていった
液を薄く引き伸ばした表面が
空色から淡いバラ色になる
微妙な変化に胸をときめかせた
そして球体がゆらりと中空に昇るのを
息を詰めて見上げていた

垣根のむこうで父親は頬杖をつき
何か考えている
一人しかいない子供の育てかたか
わけもなく浪費する日常の行くすえか

 「しゃぼん玉」を「容易にくり返される日常のように/さして確認もなく飛び交う情報のように」と見るところが卓越していると思います。最終連の「わけもなく浪費する日常の行くすえか」へ繋がっています。「ひと吹きで沢山の球がうまれ」るのを楽しむのではなく、「わたしのなかでしゃぼん玉は」「たったひとつの球を育ててい」くという「真剣な遊びだった」のは、この詩人らしい感覚だとも思いました。「液を薄く引き伸ばした表面が/空色から淡いバラ色になる/微妙な変化に胸をときめかせた」のは詩作にも通じているのかもしれません。無駄のない構成、厳選された言葉、いずれも勉強させていただきました。



隔月刊誌『サロン・デ・ポエート』267号
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2007.4.24 名古屋市名東区
中部詩人サロン編集・伊藤康子氏発行 300円

<目次>
作品
花の陰…みくちけんすけ…4         依存…甲斐久子…5
耳…足立すみ子…6             宮訪ね…阿部竪磐…7
雪の駅…野老比左子…7           三月の朝焼け…荒井幸子…9
風の悪戯…小林 聖…10           黒猫のぼやき…横井光枝…11
迷信…伊藤康子…12             介護抄(2)…稲葉忠行…13
世代が奏でる音…及川 純…14
散文
詩集「握る手」を読む…阿部堅磐…15     愛しき短歌−「昭和萬葉集」より…阿部竪磐…16
宮崎亨詩集「空よりも高い空の鳥」を読む…阿部竪磐…18
同人閑話…諸家…19             詩話会レポート…22
受贈誌・詩集、サロン消息、編集後記     表紙・目次カット…甲斐久子



 風の悪戯/小林 聖

物干し場で 主人のお召し物と
小僧さんのふんどしの紐が
触れたり 離れたり

奥様が女中を呼び
「フジや だめじゃないか」
「何がだめなのですか」
聞き返したとたん 蹴飛ばされ
階段をまさかさま

右手の人差し指と中指の間
九十二才の今そこだけが白い

八十を越え母が間質性肺炎
在宅酸素療法に入った 医師が
「子供の頃を炭鉱町で
 過ごしませんでしたか」

死化粧されたあどけない少女は
炭塵舞う町で私を生む準備をしていた
焼き上がるのを待ちながら私は
地球から冥王星まで
六百億kmを十往復した

「お前は何者だ」と風に問うと
必ずはぐらかされる

「この春もスタート位置につかねば
ならぬのか身を粉にして」
木の芽どきの風に聞いた

「削り粉くらい俺が吹き飛ばしてやる」
と茶化された

 *ヒトの一細胞中に三十億塩基対のDNA
  が一セット。その長さが二メートルとす
  ると六十兆の細胞全部で千二百億km。
  地球三百万周分。

 唐突に「地球から冥王星まで/六百億kmを十往復した」というフレーズが出てきましたので驚きましたが「DNA」のことだったんですね。「死化粧されたあどけない少女」が「九十二才の今」、「焼き上がる」状態になって、ここでDNAと結びつきました。一見、即物的に読めますけど、「炭塵舞う町で私を生む準備をしていた」というフレーズに母上を亡くした哀しみが込められているように思います。「風」を媒体とした時間の処理の巧さも奏功している作品と云えましょう。



詩誌『墓地』59号
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2007.5.1 茨城県古河市
山本十四尾氏発行 500円

<目次>
それでも茶茶よ/岩崎和子          釘/石下
(いしおろし)典子
花鬼(はなおに)U/大掛史子         撫だす/山本十四尾



 それでも茶茶よ/岩崎和子

背をまるめ正座した茶茶が
夕映えをじっと見つめている
庭にはすでに薄闇がひろがり
あやめの花が紫色にとける
このなだれる日暮れのように
人は老の坂を下ることがあるらしい

ときに人は寂しさのあまり
貴金属店で衝動買いをしたり
家中の物を食べつくし無理に吐き出す
財布に紙幣を持ちながら
八百円の食品をバッグに掠め
懲戒免職となった女教師もいる

ほんとの寂しさって なんだろう茶茶
ことばの刃に切り裂かれたときか
織り上げた布地の彩りも
築き上げたなだらかな山も
襤褸のように風に吹かれ
枯れ色をなして飛散する……

それでも茶茶よ
感謝しなければね
一日をつつがなく過ごした今日を
闇の中にしずんだ美しい佇まい
藤や都忘れの花を見てごらん
明日をひっそりと待っているよ
 *茶茶 猫の名前

 第1連が美しく迫ってきます。「あやめの花が紫色にとける」という色彩感覚、「このなだれる日暮れのように/人は老の坂を下ることがあるらしい」という言語感覚に魅了されます。人間の「寂しさ」について書かれているわけですが、「それでも茶茶よ」という呼びかけが奏功していると思います。「ほんとの寂しさ」は「ことばの刃に切り裂かれたとき」なのかもしれません。「寂しさ」について真正面から取り組んだ作品だと思いました。



隔月刊会誌Scramble87号
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2007.4.28 群馬県高崎市
高崎現代詩の会・平方秀夫氏発行 非売品

<おもな記事>
○真の鬼を目指して…新井真紀子 1
○私の好きな詩 一冊の文庫本から…石井一比庫 2
○会員の詩…3
 横山慎一/福田 誠/遠藤草人/芝 基紘/堤 淑恵/吉田幸恵/渡辺慧介/金井裕美子
○会計案内/原稿締切り…7
○清水茂詩集『新しい朝の潮騒』紹介…8
○編集後記…8



 水辺慕情/遠藤草人

一本松 長野堰
分水の堰
ここでよく染物屋さんが
色の着いた反物を濯いでいた

いつの間にか松は枯れたのか
今は二代目になったのか
行人
(ぎょうにん)の碑が立ち
風のなかに
薬師様のお堂が立っている
松の生命を受け継いだように
桜の大木が満開の花をつけ
花びらを降らせた
堰の上は深くて
水の流れが緩やかで
子供たちの水遊びの場所だった

私達は生まれたままのフリチンで
丸太を乗り越え
下流へ泳ぎ下った
田んぼから流れ出した
浮草を追いかけるように
真夏の太陽が頭を焦がし
小遣いも 親の小言も無かった

今 水辺には子供の影はなく
水だけが
何も言わずに濁って流れている

 そういえば私の子どもの頃も「生まれたままのフリチンで」泳いでいました。そして「小遣いも」なかった代わりに「親の小言も無かった」のです。親は稼いで家族を養うのに一所懸命で、子どものことなど構っていられなかったのでしょう。今なら分かります。そういう時代を思い出させてくれた作品です。それにしても本当に「今 水辺には子供の影はな」いなと思います。もちろん「何も言わずに濁って流れている」川などで遊ばせるわけにはいかないんでしょうが、その分プールなどの管理された場所がはばを利かせてきたということでしょうか。時代の変遷をも感じさせる作品でした。



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