きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2007.6.11 軽井沢タリアセン・塩沢湖




2007.7.3(火)


  その2  
その1



中原澄子氏著『天草へ帰った被爆者』
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2005.4.10 福岡市東区 創言社刊  2000円+税

<目次>
荒木富士子さん/一所懸命で生きとったっちゃ 原子爆弾のいっちょでですね 5
田中ミサ工さん/廣島から−長崎へ−天草へ 35
佐藤 邦義さん/空白の七十四時間四十七分 −廣島から長崎ヘ− 57
歳田かずえさん/電車の運転手ばしよりました ばって蛍茶屋におって助かって− 67
吉本 繁春さん/十六歳で救援活動……そして被爆 81
◆大東亜戦争末期の戦況と女学生日記=|政府がとった施策は− 中原澄子 99
あとがき 202
装幀 中原澄子



 昭和二十年八月四日 雨後晴
 今日は六枚ぬった。班長は掃除不完全の責をとわれて便所の掃除をさせられた。大変汚れていたが灰をつけてきれいにみがき上げた後の気持は何ともいえなかった。どこの掃除でも誠の心をもってすれば清らかになるものであると思った。

 昭和二十年八月五日 晴天
亀場山の草刈りだったが、一寸
(ちょっと)何の気もなく道端の草を刈った所が沢田伝次とかいう恐しいおじいさんから叱られて命がけでにげた。本当におそろしかった。後に江崎先生から助けていただいたが今日のことは一生忘れきらない。学校にかえって付近の草刈りをした。沢田の伝次。本当にいつまでも忘れないだろう。

 8・6 B29、広島に原子爆弾投下(その後の死者も含め、死者二十数万人)

 昭和二十年八月六日 晴天
亀場の田の草引きだった。上がかたくて引きづらかった。午前中に上の田をやり上げて休憩をした。

 8・7 大本営は調査団を廣島に派遣、八日夕廣島に到着。特殊爆弾が使われたこと、身体を被覆していれば火傷は防ぎうることなどの報告を九日に大本営あて打電。廣島の第二総軍は白色の着物をきていた者は火傷の程度が軽かったこと、防空壕に入っていた者も火傷の程度が軽かったこと、火災の多かったのは朝食準備の最中をねらわれたからである等報告。

 昭和二十年八月七日 晴天
つるどごえの草刈りだった。午前中二回刈ってひるから土手の薮払いをした。一日中快晴で真夏らしいじりじり照りつける日中
(ひより)だった。この晴れた青空にはB29が不似合な図体をしてとんでいた。

 8・8 ソ連、対日宣戦布告。満洲北部・朝鮮・樺太に進攻開始。関東軍、小反撃に出る。
 8・8 八幡大空襲
 8・8 東郷茂徳外相、鈴木首相、天皇ポツダム宣言受諾の外なしとなり最高戦争指導会議の召集をかけたが、八日は構成員中都合のつかぬ者があり、会議は翌九日に持ちこされた。

 昭和二十年八月八日 晴天
大詔奉戴日だったので六時に神社参拝をした。今日から蚕糸製造所に行くことになっている。二日間雌雄鑑別の講習であるが、恐しいと思っていたかいこにもやっとなれて上手に出来るようになった。

 8・9 B29、長崎に原子爆弾投下(その後の死者も含め死者約十四万人)
 8・9 防空総本部、広島・長崎に落とされた爆弾を「原子爆弾」といわず「新型爆弾」と発表。その対策に白衣を着て横穴壕に待避するなど指示。
 8・9 最高戦争指導会議(御前会議)開く。

 昭和二十年八月九日 晴天
今日中鑑別の講習だったが、昨日にくらべて間違いが多かった。敵機来襲があったので冷蔵庫に待避した。大村
におちたという最下傘爆弾の光もわかった。
  
天草島西岸から大村・長埼はほほ同じ方角に見える。
  
正式名称不明のまま口づてにこう呼んだ。

 8・10 政府、中立国スイス・スウェーデンを通じて米・英・中・ソヘ「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を申し入れ12日に回答。

 昭和二十年八月十日 晴天
今日から志柿に行くことになったが山ごえをして行ったので大変きつかった。一番遠い峠の家に行ったが、敵機の爆音が大変大きく聞こえて凄い気がした。家が暗くて仕事がやりにくかった。

 昭和二十年八月十一日 晴天
昨日遠い所に行ったので今日は一番近い家だった。一生懸命に頑張ったので午前中にすんだ。敵機来襲の時本渡・亀川の方向に、ビラ
が落ちて行くのも見えた。変なグライダーのようなのも飛んだ。  
  
降伏を促す米軍の伝単

 8・12 降伏条件に関する連合国の公電が到着するが天皇について言及なし。

 昭和二十年八月十二日 晴天
今日は島児の手前のまぶしという所だった。園子さんという人と一しょだったが、人数がすくなかったので頑張ったけれども三時過ぎまでかかった。そこの娘さんは父さんとたった二人暮らしだったが、娘一人で農事から家事まで一人できりまわしていられた。十七だそうな。本当に感心な人だと思った。

 8・13 御前会議および閣議が連合国の回答をめぐり紛糾。

 昭和二十年八月十三日 晴天
下浦の方句の中の村という所に行った。今日は三十九枚もあったが、一生懸命に頑張って、午前中にやり上げた。

 8・14 天皇の裁決でポツダム宣言無条件受諾を決定。
 8・14 広島の被害調査にあたった仁科芳雄ら、爆弾は原子爆弾と発表。

 昭和二十年八月十四日 晴天
今日から四日間体みである。朝早く洗濯をした。日が照りつけるにつれてからだがだらしなくなり、何もやりたくなかった。それよりも学校の規律ある生活の方がよいような気がした。今日も錦島を空襲した。高射砲でおときれた戦闘機ノースアメリカンP51の残がいを見た。

 8・15 天皇の「終戦の詔書」録音放送。第二次世界大戦終結。この戦争での日本人軍民戦没者は(厚生省算定)一九三七年(昭12年)七月七日、日中全面戦争勃発以後、310万人。中国側見解による中国人死者は、2168万余人。
 8・15 鈴木貫太郎内閣総辞職。

 昭和二十年八月十五日 晴天
正午のラジオ放送で休戦の詔書をお下しになった。その時はただ何の気もなくきいていたが、後にその事を聞いて気がとおくなる位おどろいた。今まで多くの犠牲を出して戦って来たのに、又、その後の国民のむごい苦しみもあるのに、どうしてこうなったのか。何の生きがいもない。又、死んでも何のために死ぬのか。土地も家も人も一文の価値も生命もないもののようにみえた。夜は下弦の淡い月が、ただ家を木を、ぼんやり陰をのこしていた。ああ国家亡びて何の民族があろう。何もかもない。

 昭和二十年八月十六日 晴天
昨日から母が病気で今日は一日中淋しかった。朝会に列してすぐかえった。心配に心配をかさねて先生の話をきいた。私は昨日と打ってかわって生気をおぼえた。――我々は詔
(みことのり)により戦いを始め、詔により休戦す――教頭先生の言葉をかみしめこれこそ国民としての本分であると思った。民族の滅亡・国土の消滅を考えると何ともやむを得ない。下々の我々が、お上の御考えをどうこう考えてもわからない。ただひたすらに自分のすべき道をすすむべきである。

 8・17 陸海全軍に即時戦闘行為停止のための降伏の勅語。
 8・17 東久邇宮稔彦内閣成立。

 昭和二十年八月十七日 晴天
今日はいろいろのことをきいた。再び戦いが勃発したという者もあった。又戦うという気がむらむらとわき出で路を通る人々には悦びの情や怒りが見え活気にみちていた。

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 副題に「聞き書き」とある通り、被爆者からの聞き書き集と女学生日記≠ゥら成るノンフィクションです。聞き書きは天草弁をそのまま再現して、臨場感あふれるものになっていました。
 ここでは廣島原爆投下から敗戦前後の女学生日記≠フ一部を紹介してみました。特に断りはありませんが、当時、天草で16歳の女学生だった著者自身の日記と思われます。勤労奉仕に狩り出された女学生の日々と、当時の日本の現状が見事に綾になって表現されています。特に「昭和二十年八月十六日」の心境、「昭和二十年八月十七日」の世情は歴史的にも価値のある部分と云えましょう。いつか来た道≠歩み始めた今、多くの人に読んでもらいたい1冊です。
 なお、原文では43字改行となっていますが、htmlの特性を考えベタとしてあります。また画面での見やすさも考慮して、ゴチック体を明朝体に変更した部分もあること、ルビは( )に入れてあることをお断りしておきます。



中原澄子氏著続・天草へ帰った被爆者』
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2005.11.1 福岡市東区 創言社刊  2000円+税

<目次>
市山 繁 さん/遺体片付けば一週間−浦上ん方で 7
浦田 松夫さん/ようやく牛深に帰り、また長崎ヘ-子を案ずる親御さんと共に 17
川原征一郎さん/まっ黒な鉄の箱に閉じ込められとった−三歳の記憶 33
窪田喜代喜さん/農繁期に帰っとって−十一日長崎へ 49
倉田ヒサヨさん/夢持って行った長崎で被爆−早く母を亡くし、妹たちの親代わり 59
小高 盛穂さん/三菱長崎製鋼所に学徒動員−被爆教師の会に入り語り部として生きる 73
島崎 国雄さん/「おかあさん、早く来てよ」−断末魔の声、今でん覚えとっとです 83
白石日出夫さん/「水ば飲ましてください」−その姿の目に焼きついて離れんとです 97
中村 鶴子さん/「あんた、生きってな思わんだった」て−両親・姉・医者の看護のおかげ 111
野中 人美さん/伯父の消息ば尋ねて長崎ヘ−スコップで死体ば投げ落としよった 127
馬場 貞子さん/大阪から長崎へ、天草本渡へ−因縁か何か不思議かねえ 135
松尾 俊彦さん/電車から逃げ出したそのかっこうで黒焦げ−二、三メートル歩いて立ち往生 157
三宅多鶴子さん/先生の奥さんば担架で担うて行ったと−乳ば赤ちゃんのさがすようにしてなあ 173
森下 宝 さん/鉄筋の建物の上から人間の落ちてくっと−柿の実の落ちるみたいに 185
 <掲載は五十音順とした>
おわりに 199
装幀 中原澄子



 私や、もうほんと、ひどかつば見たっですばい。橋ん上でああた、こがんこまか子供が死んでですね。まあだ、二、三歳の子供の、男ん子の。城山小学校から松山ん方に行く、こん浦上川にかかっとる橋、梁橋
(はりばし)。これが一番私はびっくりしたですよ。二、三歳ぐらいん息子ん子の橋の上で死んどつたた(のは)、私は、ギョッとしたです。ゾクッとしたですよ。私は。もう、ちょうど豚んごとふくれて。遊びに行きよったか、どがんしよったかわからんとばって、こまんか子のひとりでなあ。

 そして私んまいっちょ、一番びっくりしたとはですね。こん度
(たび)は、こっちん方ん、浜口町ちゅうところ、ここで電車のですね、やられて焼けとっとですよ。残ったた(のは)台だけですもん。車体は焼けっしもうて、木造じゃったち(と)思うとです。ここんところは、家のなかったですもん。あんころは、鉄道ん線路と電車ん軌道との間(あいだ)の狭うしてですな。

 それがですな、これは実際こう話しておこうて思うとですよ、原爆のあれ(情況)ば。電車の入口と出口のあ(ある)っでしょう。あれからですね。二、三メートルぐらい、こう歩いて、人間が、電車ん中でやられて。こうして立っとっとですもん。電車から逃ぐるでしょう。出口から逃げだすた(には)、こうするでしょう。逃げ出したそのかっこうでですよ。まっ黒です。炭になって。走るかっこうで炭になって死んどっとですよ。それがですね、五、六人。いんにゃ(いいや)七、八人ぐらいいたでしょう。

 なんでかて考えればですね。そこは場所がですね。草っ原じゃったっですもん。草っ原んごたっところば電車の線路が通っとっとです。そうすると、ほかに焼くる品物のなかでしょう。草原んごたっところば電車の通ったり、鉄道が通ったりしとっでしょう。家の場合はですね、家の燃ゆるでしょう。そっで燃え落ちてしまうでしょう。そがんもんのなか。そっで、線路から歩いたかっこうで、こうして立ったまま。電車ん出口からうろたえて出て、そんまま。立っとるとが、みんな同じ方向に向かって。それが一人や二人じゃなか、五人も六人も七人もですよ。電車から、出口から出て、外に逃げるかっこうで、こげんしたまあまです。こいが私ゃ、ほんと原爆のあれと思うとです。電車から出て、二、三メートルぐらい歩いて、そこで息絶えたちゅう、あれですたい。

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 聞き書きの続編です。松尾俊彦さんという方の「電車から逃げ出したそのかっこうで黒焦げ−二、三メートル歩いて立ち往生」の部分を紹介してみました。「立っとるとが、みんな同じ方向に向かって。それが一人や二人じゃなか、五人も六人も七人もですよ。電車から、出口から出て、外に逃げるかっこうで、こげんしたまあまです。」という証言に戦慄を覚えます。
 廣島・長崎の原爆被害に語り尽くされた≠ニいうことはないと思っています。特に前防衛省大臣のようなしょうがない#ュ言をする閣僚を抱える今の日本では…。その意味でも現在の証言を集めた本著は貴重ですし、立派なお仕事をなさった著者に敬意を表します。前出の本と合わせてお薦めしたい証言集です。
 なお、ここではベタと同時に段落ごとに空白行を入れて読みやすくしました。ご了承ください。



中原澄子氏著『そぞろおもい』
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2007.5.20 福岡市中央区 石風社刊 1800円+税

<目次>
 T
軍服の詩人「阿
(アーロン)」の詩集に出合って 9
世紀末をステファヌ・マラルメ氏とあるく 33
倒錯するレトリックを読む愉しみ 61
 U
象徴≠ニいう名の擬制
(フィクション) 89
『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワー氏に寄せる想い 141
 V
坂のある路地 165
回り道 166
遠野へ 168
真玉町の童子像 170
あとがき 180
カバー画 著者



 『九州文学』(第二次)への抑圧

 戦時思想統制下の詩人の戦争協力については度々論じられてきた。私は自分の生活の場である九州の詩人の作品から、思想信条・自己の感性を護った詩人の作品を次に掲げようと考えた。
 新聞をはじめ、すべての出版物が当局の検閲によって削除・書き換えを命じられた時代のことである。『九州文学』も、綿密な検閲によって一部発禁処分を受け、たびたび始末書を書かされている。また部分削除という文学者にとっての恥辱的な取扱いを受けてきた。「子供が親父を批判してもいけない。兄弟喧嘩もいけないということになっては手も足も出ない」「あのころの検閲は一ヶ月一ヶ月ひどくなってゐたんで今月通っても来月はもう悪いということがあった。」これは九州の文学を語る=i座談会) 昭和二十三年三月号の引用。
 詩についても昭和一七年「愛国詩特輯」を組まざるをえない時代だったのだ。そのような思想統制に従うことを拒んだ詩を次に挙げる。

  一本の樹/俣野 衛

 夕ベ
 幾千の兵隊は
 懸崖を攀ぢ草叢をわけて
 蟻のやうに
 月光にけぶる山嶺を越えて行つた
 夜明け
 チエツコ銃は
 山かげに炎のやうな舌を吐き
 立ちのぼる雲の中から
 死は
 氷花
(ひばな)のやうに咲き匂ふた

 輪轉機は
 シネマより簡単に
 それら戰争を再現するが
 一本の樹が
 拾の不幸の中で護られ
 一本の樹が
 火のやうな
 兵隊の血で購はれるのだと誰が知らう
   昭和十六年五月号(同人名簿に出征)

(中略)

  無題/岡部隆助

   子をとろ子をとろと海が鳴る 童謡

 とある日海邊の小さな本屋の店先で白い假綴の一冊
 の本をパサパサめくつていると ふいに一匹の魔物
 がその扉檜を舞ひ出てきて私の胸のポケットにとび
 こんだ(幼い日私が飲んだ風邪薬
(かぜぐすり)の袋に描かれてゐ
 たあの痩せこけた爪の長い邪鬼の同族にしては美し
 かつたが――あいつ)

 その日から私のシャツの淡の貝釦が荒天の海を呼
 び 泡立ちさわぐ潮流が私をめぐつてながれ ああ
  私のたつたひとつのランプを沈め本を奪ひ机を掠
 め部屋をこはして最後に私の愛する子供と妻を遠く
 へさらつていつてしまつた
   昭和一七年四月号から

 軍団主義一色のこの時期、「特高*」と「憲兵*」が見えない影のように国民ひとりひとりを見張っていた。日常会話の一つにも体制に逆らわぬように心を砕いた。早朝のお宮掃除からラジオ体操・防空演習・物品供出・配給など、すべての互助組織であった「隣組
(となりぐみ)」の一人一人の視線が、先ず恐ろしい存在だった。こうして全国民が戦争協力者になっていったのだった。
 ましてや、詩人・小説家・評論家は、言葉と文章によって己の精神の真髄を開示し、活字に定着しなければならない。当局の検閲の手が最もはいり易い分野である。それだからこそ、時の流れに逆らえない恐ろしさをひしひしと感じたと同時に、活字によって挙国一致・滅私奉公の功績を挙げるという矛盾を抱え込んでしまったのではなかったか。一篇の詩は無論のこと、詩の中の一行の詩句、ただひとつの言葉に到るまで、己を裏切らなかった詩人がいたと言い切れるだろうか。

  無言歌/岡部隆助

 哀しみは嘗て私の杖であった
 そして哀しみはいまも風の街々に私を追ふが
 私ひとりのこの小さな哀しみが祖国のために何になる
 ひとつの明るい知慧のやうに濡れた野の草苺
 太古の暗
(やみ)に燦然ときらめき私を瞶(みまも)る石
 この苺を採らう
 この石を掘らう

 「無題」と同時にこの詩を発表した稀有の詩人は、敗戦まで筆を絶った。

 *「特高」特別高等警察の略で、思想犯罪に対処する警察。内務省直轄で、第二次大戦中、社会運動などの弾圧に当たった。
 *「憲兵」軍事警察をつかさどる軍人。旧陸軍では軍隊に関する行政警察・司法警察をもつかさどった。のち次第に権限を拡大して思想弾圧など国民生活全体をも監視するようになった。一八八一年(明治一四年)設置。

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 こちらは著者の個人誌『地平』に1997年から2001年まで発表した随筆と、その拾遺集です。ここでは「象徴≠ニいう名の擬制」に含まれる「『九州文学』(第二次)への抑圧」から抜粋して紹介してみました。文学者がいかに体制に組み込まれて行ったかが判る随筆です。その中でも「敗戦まで筆を絶った」詩人が何人かはいたことが知られていますが、同じ立場に私たちが立たされたとしたらどうなるか、自分の問題として考えさせられました。自衛隊の国民への思想調査が発覚した現在、こちらもお薦めの1冊です。



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