きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.8.1 東京日仏学院 |
2007.8.9(木)
昨日の朝、日本詩人クラブ9月研究会と例会の案内状、封筒の印刷を頼んだのですが、もう出来たという連絡が入ってあわててしまいました。約束は16日の朝までということにしましたので、早い分には何の問題もありません。お盆に入るので早めに終わらせてくれたのかもしれません。
16日の午後から神楽坂の事務所で発送作業を行います。私は前日に会費納入状況の最新版を入手して、宛名シールの作成に掛かります。5人が集まってくれることになっていますから、作業も捗るでしょう。今後は毎月、集まって発送作業をすることになりそうです。関係者の皆さん、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
○個人誌『犯』31号 |
2007.8.1 さいたま市浦和区 山岡遊氏発行 非売品 |
<目次>
のんきな毛虱の妖怪が地球を廻す 1 絵金 6
病忙しき者の記 11 哲学の道を横切る 19
あとがき 24
哲学の道を横切る
夕暮れの御堂筋で
思いっ切り
両肘を振るフェア・プレイ像よ
きみの走りはまるで
射程距離の長い言語フォーム
夏の笑劇たちを
蹴転がして行く
もう今はない
道頓堀の飲み屋《たこでん》
女一人が切り盛りする店の天井からは
無名のコメディアンたちの
挫折と飢えが
もうすぐ夜を迎える蝙蝠たちのようにぶら下がっていた
けれんミューズ
アジアの乳房を信じよう
南下すればするほど
魂が翳るのは
きっと生まれた土地が呼ぶからだ
ぼくには一流の大胆さは備わってはいない
あるのは二流の大胆さ
だから時々
神経をやられる
墓場に向う
耳なし芳一のように
からだ中にルビがふられる
―― 獰猛な家具 愛の干物
馬の骨所 ばくち豚 ――
ルビをふられた者は
つい
見てはならないものを眼にしてしまう
たとえば
『前科者たちのユートピア』
35度の葉桜のした
銀閣寺から
哲学者・西田幾多郎が
思索にふけりながら歩いたという細道を下る
知っているか
ほらこうして
潔く
花を腐らせたアジサイの枝を折って
地表に差せば
やがて新しい一本のアジサイが育つ
喪に服したようにおとなしい街の
水路の底でも
時の影が泳いでは消えまた現れる
きっと夜が来れば
この水路では
明日のために
夥しい目玉や耳や口が
互いを罵り合いながら
流れてゆくことだろう
失礼だが
狂いきっている暇は無い
狂いきるとは
自然以外の巨大なものに庇護されること
たとえば神のロード
たとえば国家病院
たとえば血の河の魚群
だから
言葉から栄養を貰い
吸い尽くし
吸い尽くし
エネルギーに変えなきゃならんのです
微笑みながら
語らいながら
ノートルダム女学院の女学生たちが
坂道を下りてくる
哲学の道を横切る
その若さや
可憐さには
必ず
矢が刺さっています
ついて行く
アジサイのように
実も花もないけれど
哲学の道を横切ったものたちを追って
耳を削ぎ
魅を焦がし
夏の
端(はな)を渡る
ごらん
太陽の精子も
ついてくる
第2連の「―― 獰猛な家具 愛の干物/馬の骨所 ばくち豚 ――」は、原本では斜体になっていますが、表現できませんので近い書体にしてあります。そのためお使いのブラウザによっては書体が正確に表現されない可能性があります。予めお断りしておきます。
作品は相変わらずの山岡調でおもしろく、特に「ぼくには一流の大胆さは備わってはいない/あるのは二流の大胆さ」、「狂いきるとは/自然以外の巨大なものに庇護されること」、「その若さや/可憐さには/必ず/矢が刺さっています」などのフレーズに魅了されます。正直なところ、それらのフレーズを核としてそれぞれ詩が出来そうで、もったいないと思いますけど、その豪放さが山岡詩の魅力なのでしょう。最終連の「太陽の精子も/ついてくる」には笑ってしまいましたが、タイトルとも相俟って佳い締めだと思いました。
○詩・仲間『ZERO』17号 |
2007.8.10 北海道千歳市 綾部清隆氏方・「ZERO」の会発行 非売品 |
<目次>
森 れい/源流
斉藤征義/カッケンの崖
綾部清隆/北の浜辺にて
源流/森 れい
無明の底をくぐりぬけて
再び蘇ろうとする いのちと
闇夜に行きあう
目を伏せて
会釈の風をたてはするが
定められた行方にむかったまま
ひっそり歩む馬のように
影すらおとさない
滅びさっていくもの達の臭いの中を擦れ違う
生まれた川のしずくを滴らせて
違うことのないように
己の源流をさかのぼっていく
月を欺かなければならない
未練を脱ぎつづけなければ ならない
闇夜の川にもんどり打つ
携えてきたものは
すべてこぼれ落ち 毟られ
身一つの潔よい道行き
きょう一日の顛末も
ここでの「源流」は川であると同時に、作者の「己の源流」も見据えているように思います。「きょう一日の顛末も」「身一つの潔よい道行き」になるためには「月を欺かなければならない/未練を脱ぎつづけなければ ならない」のだと読みました。短い作品で、無駄な行はありません。凝縮された言葉に作者の高い思想性を感じた作品です。
○個人詩誌『点景』32号 |
2007.8 川崎市川崎区 卜部昭二氏発行 非売品 |
<目次>
生滅/卜部昭二 ブランコ/卜部昭二 春の鬱者(うつしゃ)/卜部昭二
画廊にて/卜部昭二 熟桃/卜部昭二
画廊にて/卜部昭二
画廊で独り当番をしている
事情で替りの者は誰もいないので
今日で四日目になるが
鑑賞者はたまにじか現れない
お勤めのギャラリー夫妻は
毎日退屈でしょうからと
音楽の音を適度に調整して出て行く
森閑の場内にしばし音楽は響き
しばし気は紛れているがやがて飽(あ)き
曲を替えようとするが全く操作を知らない
では出展物の吟味をと思うが
絵画もオブジェも今は食傷気味
開放されている入口から
いつ忍び込んだものか
ブヨや蚊が匂いを慕い肌を襲う
舗道の花梨(かりん)並木の叢が根城らしいが
画廊で出会うのも珍しい
ぼくもちょっぴり手持無沙汰で人恋しい
彼奴らの気持わからぬでもないが
甘く応じればますます頭に乗り執擁
清血を吸わしてなるかと懸命に防戦
寄るなよく見ろ/あそこにU画伯の
ばら色豊満な肢体が微笑をうかべ
熱い血をもて余している、ぞ
「ブヨや蚊」に「画廊で出会うのも珍しい」のですが、「画廊で独り当番をしている」ことを作品化したのも珍しいのではないかと思います。私も何度か当番をやったことがありますけど、作品化までには至りませんでした。何でも詩になるんだというお手本のような作品です。
最終連が良く効いています。「ばら色豊満な肢体」にブヨや蚊が本当に針を立てたら、それは素晴らしい絵ということになりましょうが、それはないですね。楽しませていただきました。
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