きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.9.9 東京・浅草 |
2007.10.2(火)
先日購入した、日本詩人クラブ事務所用のシューズラック他を神楽坂の事務所に置いてきました。荷物を置くだけにして、そのあとは招待券があるので池袋小劇場に向かおうとしたのですが、ちょっと魔が差しました。少しだけあった時間を利用して、多少の組立てをしておこうと思ったのが間違いのもとでした。組立て始めたら止められないのです。ここまで、ここまでと思いながら作業し続けましたら、いつの間にか開演には間に合わない時間になってしまいました。諦めてじっくりと組み立てた次第です。せっかく招待券を送ってくださったAさん、申し訳ありませんでした。
でも、Aさんには言い難いことですが気分はすっきりしています。念願のシューズラックが設置できたのです。事務所には今のところ最大で15人ほど集まっていますけど、狭い玄関は靴が重なって置かれるような状態でした。早く何とかしないと皆さんから文句がでるなとヒヤヒヤものだったのです。今月中旬には事務所で「詩の学校」が予定されています。そのときは30人ほどが集まるでしょう。それまでに解決しておかなければなりませんでした。それに決着が着いたのですから気分爽快なわけです。事務所においでになる方は、一瞥してくれると嬉しいですね。コンパクトながら20足収納できます。で、あとの10足は? うーん、ゴメンね、重ねて!(^^;
○高啓氏詩集 『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』 |
2007.9.30 東京都豊島区 書肆山田刊 2500円+税 |
<目次>
対痔核 8 似非メニル氏病者のグルントリッセ 16
ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった? 24 インチキゲンチュア・デクラレチオン 30
贈る言葉 58 ザンゲ坂をのぼる 54
静かな生活 62 窓の下ではサイレンが 68
カタキを討たれる 74 耳下腺炎の夜 80
エーテル論 86 水の女 92
骨髄ドナーは呻き呟く 96 新しい人よ目覚めよ 100
ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?
気づくと夏が来ていて足払いをかけられる
初めて眼鏡をかけたときのようにすべては光をたたえ
ぼくの視角のなかで世界はつめたい輪郭をむすぶ
さわさわときてなにもかもが視え透いていく昼下がり
近しげなイントレランスや
単純すぎるひとびとにむけて
あらかじめ失われていたものを呼ぶぼくの声
待つことは徒労におわるだろう
(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)
ちいさく身震いして古びたビルの路地を曲がる
生活費がピンチ すこし仕送りを前借りできませんか
今日は立ち食いの焼き鳥屋でサークルの先輩に奢ってもらいました
でも相変わらず酒は弱くてあまり飲めません
金がないのでフジ・ロックは諦めました
こんな時だけ花の都で学生生活を送るモンから携帯メールが届く
さてはバンドのスタジオ代に注ぎ込んだな
刹那甘やかすなと怒るきみの母親の顔を思い浮かべて
でも愛人にでも貢ぐかのような捻れたときめきに急かされて
ああやはりあいつの将来はフリーターかなどと落ち込んで
(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)
ぼくはいそいそATMに駈け込む
冠りものをよく考えるなと感心はしたけど
唐十郎は台詞が下手
それにあの音効は必要かな?
なんだかぼくのめざす芝居とは違う
初めてひとり仙台の夜に出かけた高校生のタイがナマをいう
そうかもなあの紅いテントも矢の喝采も
古色蒼然としているんだろうなきみの限には
でも遠い都のフローズン・ビーチでエロスの果てになにが待つ?
いまから覚悟しておくきみもやがては流離うプロレタリア
好きで芝居をやられちゃたまんねぇ
それは追い詰められてしょうがなく発つもの
(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)
それでも凹んだ車で我慢してせっせと学資をためてはいる
母さん、もうこれ以上あなたに心配はかけられません
学者になりたいわけでもないし
あなたの町に帰って職を探そうと思います
胃袋につきささったエイリアンの卵のようだった
あああれはおれだあの新生物はおれなんだと声が響いた
血を分けたたった一人の子に仕送りするためだけに堪えていた母
すこしは安心させたくて堅気の職に就いて身を固めて孫を抱かせて
それでもそれからばさりと捨てた
(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)
だってそうだろう昔から親は捨てられるものなんだ
行くべき道はまだみつかりません
でも支えてくれるひとがいるのでなんとか生きています
夏休みの帰省予定はまだたちません
あ、余談ですが、水虫になりました
所詮そんなものさの玉突き人事で
難破しかけたべつのプロジェクトに流されてアパシー中のぼくだぜ
おかけでメニエル氏病の揺れは消えたが
いまはきみ(とそれからやがてはきみの弟に)仕送りするためにだけ存在する?
(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)
でもいいさきみたちはあの母の生まれ変わり
それに叶わなかったぼくのアルタネイティヴを生く
さてそれはそれとしてこの夏には足払いをかけられる
この世のすべては光をたたえてつめたく輸郭をむすび
あいそうとすればあいせそうにたちのわるい季節が来て
そういえばあのシンセミアの町からも
もうすぐ遠い沙漠にむけて部隊が出陣する
ひとびとはやはり配られた小旗を振って見送るだろうか
あらかじめ失われていたものを呼ぶだれかの声
仕送り人のぼくは背を丸めてただ縮小を生きながら
(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)
きみたちに捨てられる日を俟っている
* Zack
De La Rocha は九〇年代を代表するU.S.A.のロックバンドのひとつ、RAGE
AGAINST THE MACHINE のボーカル。
Zack
は二〇〇〇年十月に突然バンドの解散を宣言して表舞台から姿を消す。
RATMの曲は、マシンすなわちアメリカの体制に対するその激しい批判のメッセージ性により、二〇〇一年九月十一日以後、全米で放送が自粛されたという。
どれを紹介しようかと迷うほどの名詩集です。特に「贈る言葉」は秀逸。初めて社会に出て行く息子への父親からの言葉で、多くの人に読んでもらいたい作品です。
ここではやはりタイトルポエムを紹介してみました。タイトルと、途中に何度も挿入される(ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?)という言葉は、ロック好きには堪らないでしょうね。内容的には古風な父と子の関係ですが、これはどんなに時代が移り変わっても永遠のテーマなのだろうと思います。最後の「きみたちに捨てられる日を俟っている」がよく効いています。
本詩集中の「エーテル論」は、昨年、拙HPで紹介していました。ハイパーリンクを張っておきましたので、合わせて高啓(こうひらく)詩の世界をお楽しみください。
○詩誌『左庭』9号 |
2007.9.25 京都市右京区 山口賀代子氏発行 500円 |
<目次>
詩
静かに、毀れている庭/岬 多可子…2
LIFELINE/堀江沙オリ…10
地球/山口賀代子・・・14
俳句
丸山眞男「忠誠と反逆」を読む/江里昭彦…18
【さていのうと】
・孟夏に萩を枯らす/山口賀代子…20
・死体が水面に浮かぶまで/江里昭彦…21
・虫に偏る/岬 多可子…22
・「私が誇れるのは、弱さです」/堀江沙オリ…23
つれづれ…24
表紙画…森田道子「花束」
LIFELINE/堀江沙オリ
中指で何度か強く掻くと
左腕に一本 線が浮く
(こんなにやわなんだ 皮膚って)
何度か強くなぞるとやっと 痛みが走る
(意外と強いんだ 神経って)
痛みの上を掘り進めると
溝に血の色が浮いて来る
なのに出るのは粘る黄色の液だけ
(血管って深いんだ うまく出来てるね)
沁みる痛みが 傷ついて生きていることを伝えてくれる
自分の怠惰と愚かさを刻みつけ認証するために
爪を立てた
掻けば掻くほど
底無しの穴に自分を突き落とせる気がした
脳から走り出した理由ある衝動を
身体の地殻が なだめていく
(それ以上やったら駄目)
柔らかく重なる制御する身体の声は
思いの他 速く届く
(やっぱりやわなんだ 自分)
地割れした皮膚の数センチ上のまっさらな皮膚を
力を込めて掻いて掘ると
赤い一筋から出るのは やはり汁だけ
やがて起きる強い熱感が
自分の根拠を主張する
それでも七日も経てば
盛り上がりは平らになり 汁も乾いて傷は塞がる
リスカはしない
死にたい訳じゃない
カッターの刃がうっかり的を射抜いたらすごく怖い
そんな勇気も覚悟も無い
でも心はまた爆発して
数センチ上の皮膚に
自分を描こうと試みる
パソコンのブログを更新するみたいに
カンバスに絵具をわしゃわしゃ広げるように
親も教師もマスコミも友達も
頭のことしか語らなかった
体育の時間にも「頑張れ」っていう頭の言葉しか習わなかった
自分の爪が 皮膚が 初めて伝えた身体の言葉
定規の目盛りよろしく等間隔に引かれた赤い線を見て
どうしたの?と問う声はとっくに
ネコが とか 転んで とか 答えるだろうと予測を立てて
案の定 返って来た嘘に話題を変え
一歩ずつ退いて 離れて行く
そして半月後にはケータイのメールが
腕の傷の話題で 同級生の間に飛び交うだろう
自責の印だったきずあとが
戒めのブレーキに変質するのか
快楽の名残りを刻むのか
自嘲の裏のナルシズムのタトゥに過ぎないのか
まだ理解することができない
まして苦悩の聖痕だなんておこがましいにも程がある
掻いて 握って 汁で痛む皮膚の上の事実で
身体の声も 心の声も聴いたのは確かだ
自分が
自分で
自分を
自分に
理解させたのは確かだ
涙と歯噛みのかわりに
生きる感覚を 自分から学んだ
この先もずっと
長袖の下の薄まりかけの線の数を減らさないように掻くだろう
いつか頭も身体もすっ飛ばして
言葉なしで感じるために
(生命線って 掻いてるうちに長くなるっていうよね)
※リスカ=リストカット
中高生ぐらいの女の子のリストカットをテーマにしていると思いますが、読んでいるうちに背筋がゾクゾクとしてきました。男は概して自傷に弱いようです。それはそれとして第5連の「頭の言葉」「身体の言葉」という対比をおもしろく感じました。こんな対比を今まで考えたこともありませんでした。同じ意味では最後から2連目の「生きる感覚を 自分から学んだ」というフレーズも新鮮です。肉体感覚≠ニ単純に括りたくありませんけど、やはり女性特有の感覚なのかなと思った作品です。
○隔月刊詩誌『石の森』141号 |
2007.10.1 大阪府交野市 非売品 交野が原ポエムKの会・金堀則夫氏発行 |
<目次>
帰り途/佐藤 梓 1 座るアルルカン/美濃千鶴
2
夏のスッカラ/夏山なおみ 3 メモリー/大薮直美 4
例えばこんな昔話/石晴香 5 最期の楽園/石晴香 6
私の居場所/山田春香 7 靄のかかる夜/山田春香 8
氷の硝子/西岡彩乃 9 右手と左手/西岡彩乃 9
畦/金堀則夫 10
中国、白蛇伝に見る愛のかたち/大薮直美
11 かるた制作/金堀則夫 12
《交野が原通信》第256号/金堀記 13 石の声/山田春香・佐藤 梓 14
あとがき
畦/金堀則夫
雑草が生い茂り
刈り取っても 刈り取っても 生えてくる
どこの人か知らないが
なぜ草を根こそぎにしている
生えてくる草を
親たちは鎌で刈り取ってきた
その親の手を 休めてはならない
その手を受け継がねばならない
根を掘り起こせば 畦の土は崩れていく
田の土が流れ 境界が揺らいでいく
草の根が 畦の土を護っている
水を溜める土手を護っている
水田は稲作の土壌
土を知らないで畦を扱ってはならない
触ってはならない
そこの人よ
根は
抜いてはならない 壊してはならない
何百年と生き抜いてきた田のきまり
俺様も
お前様も
畦の草刈りをしながら
親たちの畦作りをする
田の 水と 土の
均衡をつくっていく
耕作者だけが通る
畦の草刈り
田を分け 土を盛って
水の流れゆくこと
水の排してゆくことを
稲とともに憶えていく
そこの人よ どうしても
雑草の根を抜いていくのなら
石組みをするか 石がなければ
セメントで固めてくれ
もう どこもかしこも
稲作を捨てた遊休田
畦が崩れている
私は裏の畑で百姓の真似事をしていますが、田を持っていないので「根を掘り起こせば 畦の土は崩れていく」ということは知りませんでした。確かに畦は「田の 水と 土の/均衡をつくっていく」のでしょうね。最近は「石組みをするか 石がなければ/セメントで固めて」いる田が多いのですが、その理由も判りました。「稲とともに憶えてい」たものが薄れ、「畦が崩れている」現実。日本の農業を考えさせられた作品です。
○『関西詩人協会会報』47号 |
2007.10.1 大阪市北区 左子真由美氏編集・杉山平一氏発行 非売品 |
<主な記事>
(1)面 第14回総会のご案内
(2)面 関西詩人協会賞・第16回詩画展・小熊秀雄賞募集要項
(3)面 ポエム・セミナー「自作を語るY」・運営委員会の模様
(4)面 自選詩集第5集経過報告・新入会員紹介
(5)面 第6回「詩で遊ぼう会」報告・現代京都詩話会報告
(6)面 会員活動・イベント
滝
水音しんじつおちつきました
(山頭火)
わたしは
空から 大地へと
白い泡をたてながら 流れ落ちる
岩に 苔の 生えるまもなく
身の丈を計ることもできず
ただ ただ 落下する
天が道をつけたとしか思えない
その道を
冬が来れば 槍のように凍てつき
乾期が来れば 簾のように細る
わたしは 歌わない
わたしは ひたすら聞いている
空と樹木の 音を
詩集「目的地」より
紹介した作品は「ポエム・セミナー『自作を語るY』」に載っていた、名古きよえさんの「詩に魅せられて」というエッセイに書かれていたものです。詩集『目的地』に収録されている詩のようですが、「岩に 苔の 生えるまもなく/身の丈を計ることもできず/ただ ただ 落下する」という滝の本質が端的に表現されているように思います。まるで落下し続ける人間のように…。その落下の中で「ひたすら聞いている/空と樹木の 音」が詩≠ネのかもしれません。冒頭の山頭火の句も奏功している作品だと思いました。
(10月の部屋へ戻る)