きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2005.10.9 栃木県
「ツインリンクルもてぎ」にて
HONDA CB250
 

2005.11.5(土)

 午後2時から神楽坂エミールで日本詩人クラブの研究会があったのですが欠席しました。講師・西岡光秋氏「先達詩人に学ぶ」というもので、聴きたかったのですが、体調に不安がありました。無理をすれば出られたのでしょうけど、ここは大事を取って欠席。残念。西岡さん、ごめんなさい!




崔泳美(チェ・ヨンミ)氏詩集三十、宴は終わった
     30 utage wa owatta.JPG    日語訳 韓成禮(ハン・ソンレ)
解 説 佐川亜紀
 
 
 
21世紀海外詩人選書3
2005.9.20
東京都東村山市
書肆青樹社刊
1400円+税
 

  <目次>
   T 三十、宴は終わった
   禅雲寺にて 10           三十、宴は終わった 12
   秋には 14             あの人に 16
   ラスト・セックスの思い出 18    
Personal Computer 20
   束草(ソクチョ)にて 24       愛が、革命が、始まりもしないうちに… 26
   思いが溢れて詩となり… 30     イムハーグム水没地区で 32
   北漢山に初雪の降った日 34     領収書 36
   詩 39   果物屋にて 42

   U 夢のペダルを踏んで
   夢のペダルを踏んで 44       地下鉄で:黄色い10月 45
   土曜日の夜の超ハンディーな神 48  私の詩の運命 50
   カタツムリ 51           愛の時差 52
   Tヘ―黒の上の明るい赤 54     日差しの中の女 56
   貫禄ある靴の夜の散歩 59      一人の男を忘れるということは 64
   愛の庭 66             詩と大便 68
   良心囚 70             アーメン 1 72
   アーメン 2 75          権威とは 77
   二律背反 78            不眠の日記 80
   タンパク質、脂肪、炭水化物の愛 83 分離収去 86
   幸福論 88             親知らずを抜く 90
   そして…… 93           未完の詩 94

     解説 驚異的な才能のベストセラー詩人 佐川亜紀 96
     翻訳者の言葉 ハン・ソンレ(韓成禮) 100
           装幀 丸地守



       うたげ
    三十、宴は終わった

   もちろん、私は知っている
   私が、運動よりも運動家を
   酒よりも酒を飲む雰囲気をもっと好んだのを
   そして寂しいときは、同志よ!で始まる闘争歌ではなく
   低い声で、愛の歌を楽しんだのを
   でもそれが一体、何だっていうの

   
うたげ
   宴は終わった
   酒も無くなり、人々は一人二人財布を忘れず、ついに彼も帰ったけれど
   最後の勘定を終え、めいめい靴を探して履き、帰ったけれど
   うっすらと私は知っている
   ここに、一人誰かが終りまで残り
   主人の代わりにお膳を片付け
   すべてを思い出しながら、熱い涙を流すだろうことを
   あの人が歌いかけた歌を、終りまで正しく歌うだろうことを

   ひょっとしたら、私は知っている
   誰かがその代わりにお膳を整え、夜明け前に
   もう一度人々を呼び集めるだろうことを
   明るく灯を照らし、舞台を再び仕立てるだろうことを

   でもそれが一体、何だっていうの

 
崔泳美氏は韓国の国民的詩人で1961年生まれ。散文集や翻訳を多く出していますが、しかし詩集はこの本に収められた2冊だけのようです。『三十、宴は終わった』は1994年刊で、これは100万部近いベストセラー。『夢のペダルを踏んで』は1998年刊。
 ここでは第一詩集からタイトルポエムを紹介してみました。30にして「宴は終わった」と悟る詩人が見ている「熱い涙」「歌いかけた歌」に注目しています。二度遣われる「でもそれが一体、何だっていうの」というフレーズにこの詩人の真髄があるのかもしれませんね。
 この第一詩集の中から
Personal Computer「果物屋にて」はすでに拙HPで紹介していました。ハイパーリンクを張っておきましたので合わせてご覧いただければと思います。




詩誌『1/2』20号
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2005.11.10
東京都中央区
詩誌『1/2』発行所・近野十志夫氏 発行
400円
 

  <目次>
   干された梅は            芝 憲子 2
   花へ                枕木一平 4
   蚊                 館林明子 6
   岬の灯台/悪しき現象        黒 鉄太郎 8
   伝言                あらきひかる 12
   なんとなく こだわって       宮川 守 13
   ネギ                辛 鍾生 20
   知覧のあなたへ           薄葉久子 22
   欅の樹               宮本勝夫 24
   ああ、パラグライダー        呉屋比呂志 26
   独立きねんび/お葬式に行こう    都月次郎 28
   スギモトさん            西條スミエ 32
   ごみと亡骸/道を変える/アリの生涯 近野十志夫 33
   H
2O                佐伯けんいち 36
   墓と墓の間に            藻利佳彦 40

   合宿報告16/こころの温泉ルポ 44



    花へ    枕木一平

   今まで ながいこと知らなかった
   気にも止めなかった
   農家生まれで 農家育ちで
   一部始終そばで見てきたはずなのに

   友人からもらった苗を鉢で育てた
   七月末 分けつした株に穂が現われて
   八月に入ったある日
   まだ青く平たいモミの先端に
   白い小さな三日月のような花ビラを見つけた

   それが稲の花だった
   ただ細長い点のようにしか見えない
   小さな 小さな 花だった

   脱サラ後 花屋になって
   きれいな花 かわいい花 売れる花
   そればかり追い求めてきたわたしに
   こんな花もあったのかと
   しばらくしゃがんで見つめていた

   こんな小さな花があって
   わたしたちは生きてこれて
   社会を築き 歴史をつづってきたのか
   大切なものは こんなに小さく
   人の目に止まることもなく
   さりげなく咲くものなのか

   エライひとが声高に
   封建時代の「米百俵」の美談をもちだし
   わたしたちに諭
(さと)
   わたしたちに押し付け 強要する

   現実よ止まれ
   ありのままをさらけ出せ
   一年に四千をこえる
   かけがえのない生命を自らの手で
   断ち切らなければならなかった人たちのいることを

   エライひとが言ったように
   耐えて 苦しんで
   歯をくいしばってがんばって
   それでもすべて悪くなるばかり
   ちから尽きて
   この小さな花に
   サヨナラしてゆく人たちがいることを

 私は「農家生まれで」も「農家育ちで」もありませんが、家の近くに田圃がありますから「まだ青く平たいモミの先端に/白い小さな三日月のような花ビラを見つけ」ることは出来るはずなんですが、残念ながらまだ見たことはありません。作品には作者による写真も添えられていて、それを見ると本当に「白い小さな三日月のような花ビラ」なんですね。今度は気をつけて見てみようと思います。
 なぜ気付かないのか? 「大切なものは こんなに小さく/人の目に止まることもなく/さりげなく咲くもの」だという大事なことが判っていないからなんでしょう。「『米百俵』の美談をもちだ」す「エライひと」には腹が立ちますけど、私個人に立ち返ると、そこを反省させられた作品です。




詩誌『展』65号
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2005.11
東京都杉並区
菊池敏子氏 発行
非売品
 

  <目次>
   ●山田隆昭:土/おばあちゃん
   ●名木田恵子:メイク・アップ
   ●五十嵐順子:平安
   ●佐野千穂子:秋の毛氈/お殺せになれない
   ●河野明子:携帯電話
   ●菊池敏子:今日でなくても
   ●土井のりか:落ち葉の道



    平安    五十嵐順子

   友だちが死んだ
   夏の夜の沼に
   誰にも分けることのできなかった悩みを自分で運んで

   死のむこうがわから 甘い
   誘惑があったのか あるいは
   この世の絶望が思い切らせたのか わからない

   こんにちは コンニチハ
   応える友だちのかぼそい声がまとっているバリアを
   私は越えることができなかったが
   友だちにももどれない 橋があったのだろう

   或る日私は友だちの夫と 彼女によく似た娘さんが
   語らいながら散歩しているのを見た
   二人の後ろ姿はなにがなし楽しげで

   友だちが病んでいた長い歳月は
   家族にも耐え忍んだ月日だったのだろう
   だから悲しみのすき間から
   ふと安心の思いがわいたのかもしれない

   友だちが望んだものはおそらく自分の心の平安
   そして 自分をなくすことでしか返すことのできなかった
   家族の平安

 辛い作品です。「私」の思いは見当違いだと突き放すことも出来るのでしょうが、おそらく、その通りなんでしょう。「友だちが望んだものはおそらく自分の心の平安/そして 自分をなくすことでしか返すことのできなかった/家族の平安」とまで見通すことが出来るのは、それだけ友の内部に食い込んだ「私」だからと言えるかもしれません。あるいは「二人の後ろ姿はなにがなし楽しげ」と感じ取れる詩人の感覚の故とも思います。「家族の平安」は何だろうと考えさせられた作品です。




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