きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
070820.JPG
2007.8.20 神奈川県真鶴半島・三ッ石




2007.9.4(火)


  その1  
その2へ

 夕方から神楽坂の日本詩人クラブ事務所で「60周年記念事業準備委員会」が開かれました。日本詩人クラブは2010年に創立60年を迎えます。そのイベントを専門に扱う委員会がいずれ設立されることになりますけど、それに先立ち準備委員会を立ち上げたものです。とりあえずの10数名の委員の中から、委員長や事務局長、会計などが決められましたが、ここではまだ公表しません。理事会で承認されたのちに報告します。

 準備委員会に先立って、10月研究会・例会の案内状発送準備をしました。私一人でやるつもりでいたのですが、他の用件で事務所を訪れた人も手伝ってくれて、思いのほか捗りました。封筒に宛名シールを貼っておくだけのつもりだったんですけど、案内状を折るところまで作業は進みました。続きは6日のNTT工事に立会いながらにやろうと思っています。これで6日がずいぶんと楽になりました。お手伝いいただいた皆さん、ありがとうございました。



貞松瑩子氏随筆集『その日日』
sono hibi.JPG
2007.9.5 東京都八王子市 武蔵野書房刊 1000円+税

<目次>
〈未知と無知のあいだ〉より
声・こころ 5               埴谷雄高さんと幽霊 8
思うこと 12                合唱に関わって 13
胡蝶蘭の来た日 15             没後十年 長岡弘芳さんを偲ぶ 16
素顔の大野一雄先生 19           夜叉から癒しへ 20
漱石に重ねて 22              事故の顛末 25
入院事情 28                一寸いい話 30
『歎異鈔』との出逢い 33          夢じらせ 36
塞翁が馬 38                落ちこぼれの記 42
ゴーギャン覚え書き 45           憶うこと 49
終の棲家 53                可笑しなこと 55
生命・その涯ての橋について 59       忘れ水 63
その日日 66                歌曲「愛の思い出」をめぐって 71
その折々に
神津・八丈〈明日葉(あしたば)〉の話 73   雨の旅 77
ある事情 81                歌うことば 84
ひとすじの道――遠野へ 86         「優しい情景」に寄せて 89
作詩者として   92
日日の名残りに(短歌) 94         それでおしまい(詩) 96
題字 貞松瑩子



 それでおしまい

どれだけ詫びれば済むのでしょう
わたしの思いが
人と違っているからと

悲しむ人に
掛ける言葉のひとひらが
胸につかえて発せない

一つの生命が消える時
何はさて置き お葬いには行かねばならない
けれど 病気のわたくしは
人が死んでも お葬いには行かれない

わたしには
死は安らかなあの世への引越し
ただ それだけ

わたくし一人死んだと言って
世の中
何にも変わりはしない

ありがとうよ
眠ったままに冷たくなった
愛犬ミルキー そんなふうに
或る朝 ふっと 死ねたらいいな

子供よ 孫よ よくお聞き
仕事はそのまま続けなさい
勉強も みんな その日 その時に

どこが違っておりましょう
たった一つ リビングに
わたしの椅子が空いただけ
それでおしまい
        長い間本当にありがとうございました

 評論誌『未知と無知のあいだ』に書かれた随筆を中心に、全国の同人誌や新聞に出稿した、一九九四年から二〇〇七年までのエッセイが三十篇ほど収められています。
 表題作の「その日日」は、二〇〇五年三月発行の『未知と無知のあいだ』二十三号に収録されたもので、この頃、日日に対する思いが、少しずつ変わってきたような気がする≠ニ書き出されています。年末年始の思いがけない来客や離れて暮らす家族の来訪に喜び、日頃より元気な自分を発見したのも束の間、反動で寝込んでしまったというもの。その挙句、緊急入院。一ヶ月近くの入院ののち退院したが、著者は元の体力に戻るには、まだ程遠い。生命の容れ物、生命の容れ物、そう思うと、何だか明日が透けてきたような、日日の思いだ≠ニ結びます。緊急入院で加齢による体力の衰えを感じたという趣旨ですが、その言語感覚には驚かされました。自身の身体を「生命の容れ物」と表現した者はかつてあったでしょうか。詩人の文章の冴えを見せられた思いがしました。

 この随筆集の最後には手書きの詩「日日の名残に」と「それでおしまい」が収められています。ここでは「それでおしまい」を紹介してみました。死に対する詩人の覚悟のほどが、ある意味さわやかに伝わってきます。
 なお、この随筆集の書評を武蔵野書房さんより依頼されました。「図書新聞」に載せるそうです。そのうち載ったらご覧になってください。



羽生槙子氏詩集
『いっしょに暮らしている人』
isshoni kurashiteiru hito.JPG
2007.3.3 東京都国分寺市 武蔵野書房刊 1600円+税

<目次>
パンとチーズとぶどう酒と 4        旅芸人のはなし 6
柿の木から 9    平野 13       木 17
雪の朝 20      新ごぼう 22     カモミール 26
ミニトマト 28    ピーマン 31     朝ごはん 33
お茶の時間 36    歌 38        春の手紙 40
通信教育 42
あとがき 47     装丁 大橋久美



 平野

庭では すすきの垂れた穂に
のらねこの子ねこがあきずにとびついて
あの人が娘家族のところに行くので
わたしは
ゆで栗とゆでぎんなんと梅干しと
ぶどうを持っていってもらいます
栗は人からいただいたもの
ぎんなんはあの人が
勤め先のいちょう並木から拾ってきたもの
梅干しはわたしが漬けて干したもの
ぶどうも人からいただいたもの
木の実ばっかり
秋ですから
あの人はりすのおみやげみたいのを
持っていってくれるでしょう
大きい川が流れる土地を
銀色の帯のような川を
あの人は四つもわたっていくでしょう
関東平野を横切るのでしょう
あの人はあした
孫娘の保育園の運動会を見に行くでしょう
関東平野の秋の日ざしを見に行くのです
子どもをそりにのせて走る
競技にまじって走ったりもするのかもしれません
あの人は
秋の木蔭のチラチラする光を
頭からかぶりに行くのです
遠い山々からの
木枯らしの前ぶれみたいな
風の中に立ちにも行くのでしょう
あの人は 木の実のおみやげをいっぱい持って
銀色の川を四つもわたり
平野を横切り
空の青に顔をひたしに
秋の運動会に行くのでしょう

 詩集タイトルの「
いっしょに暮らしている人」、紹介した作品中の「あの人」はともにご主人のことですが、主人≠ニいう言葉を嫌ってそのように言っているようです。確かに夫婦間の呼び名って難しいですね。亭主も夫人も考えてみれば封建的な言葉です。
 作品は「平野」というタイトルにも象徴されるように「銀色の川を四つもわた」る壮大さを背景に、「孫娘の保育園の運動会を見に行く」「あの人」への思いがよく伝わってきます。「りすのおみやげみたい」というのが良いですね。日ごろの菜食中心の生活まで見えるようです。
 本詩集中の
「お茶の時間」はすでに拙HPで紹介していました。ハイパーリンクを張っておきましたので、こちらもお楽しみください。




浜野春保氏短編集『海の喪章』
umi no mosho.JPG
1991.6.29 東京都国分寺市 武蔵野書房刊 1800円+税

<目次>
海の喪章 5     わが敗戦 39     漂流記 73
捕虜病棟 129
.    一九七九年夏 175
後記 201



 夜が明けると、陸岸がかなり明瞭に見えてきた。
「今日こそ、必ず島に上陸できる」
 篠崎中尉が希望をあたえ、士気を煽った。
 山本兵長は喘ぐように口をひらいて、息をしている。櫂は動かしているが、ほとんど力がこもっていない。
「山本、苦しかったら、休んでいいぞ」
 篠崎中尉が声をかけた。
「漕げます。漕げます」
「山本、分隊士が休めといっているんだ。遠慮なく休め」
 大見兵曹もいったが、山本兵長は、
「漕げます。漕げます」
 と同じ答えを繰り返した。
 陽がのぼると、気温が急速に上昇した。太陽の光線が灼けるように熱い。
 八時ごろ、山本兵長が不意に漕ぐのをやめて、立ちあがった。
「おい、どうした」
 山本兵長のうしろで漕いでいた市根井兵曹が声をかけると、山本兵長はすみませんといって腰をおろしたが、すぐにまた立ちあがって、ぼんやりと島を見ている。
「山本、どうした。しっかりしろ」
 大見兵曹が帽子で海水をすくって、山本兵長の頭にかけた。山本兵長は水をかけられても平気な顔をしていた。
 大見兵曹はどうも様子が変だという顔をして、篠崎中尉を見た。
 篠崎中尉はうなずいて、
「山本、休んでいいぞ。必ず連れて帰るから、なにも考えずに、安心して寝ていろ」
 とやさしくいった。
 山本兵長は素直に「はい」と返事をして、横になった。
 それから二時間あまり、山本兵長はおとなしく寝ていたが、二時ごろ、まるでバネ仕掛のように起きあがって、海に飛び込んだ。大見兵曹と藤原兵曹がすぐ海にはいり、山本兵長をつかまえて、救命筏に連れ戻した。
「亀がいました」
 山本兵長はあらぬことを口走った。
「そうか。亀がいたか。亀がいても、亀には追いつけないぞ」
 大見兵曹は調子を合わせた。
「亀に乗ればよかった」
「こんど亀がきたら乗せてやるから、おとなしく寝ているんだぞ」
 山本兵長は子供のようにうなずいて横になったが、それから一時間もたたないうちにまた起きあがって、こんどは、「分隊士、かんべんしてください。大見兵曹、かんべんしてください」
と繰り返しいいつづけた。
「山本、お前はよくがんばった。見ろ。島はもうすぐだ。島には水も食いものもある。気をしっかりもって、安心して寝ていろ。わかったな」              ・
 篠崎中尉がいい聞かせると、山本兵長は「はい」と返事はするが、すぐにまた「分隊士、かんべんしてください。大見兵曹、かんべんしてください」といいつづける。
「山本、わかった。かんべんしてやるから、黙って寝ていろ」
 大見兵曹がわざと語気をすこし荒くしていうと、山本兵長は安心したような顔をして横になった。
 しばらくして、また起きあがろうとする。
「漕ぐのに邪魔だ」
 中川兵曹が押さえつけた。
「分隊士、あぶないですね」
 大見兵曹がいった。
 篠崎中尉は顔をくもらせてうなずいた。
「山本を連れて帰るぞ。がんばれ」
 しかし、それから一時間あまりたった一四時ごろ、山本兵長の容態が変った。口を小刻みに、かすかに動かしている。
「山本、なにかいいたいことがあるのか。なんでも聞いてやるぞ」
 篠崎中尉がいったが、山本兵長の反応はなかった。
「山本、おれだ。市根井だ。死ぬんじゃないぞ」
 市根井兵曹が耳に口を寄せて叫ぶと、山本兵長の口がわずかにひらいた。
「ビールを飲みたい」
 それが最期であった。
「分隊士、すぐ腐りますよ。水葬にしますか」
 大見兵曹がいった。
 水葬といっても、死体を包む布も網もない。そのまま海に棄てるのである。
 海に葬ればそれだけ救命筏は軽くなるが、
「連れて帰ろう」
 と篠崎中尉はいった。
 篠崎中尉はあらためて陸岸を見た。日が暮れるまでには漕ぎ着くことができそうな距離であった。東の風五メートル、海面はわずかに波立っていた。
 一五時ごろ、市根井兵曹がみぞおちの痛みを訴えて倒れた。もはや漕げる状態ではなかった。中川兵曹も花淵兵曹も力尽きて、倒れた。
 篠崎中尉も、すこし休ませてくれ、と大見兵曹にいって、横になったが、三十分ぐらい休むと起きあがって、漕ぎ手に加わった。
 波がすこしづつ高くなってきた。磯波である。
「もう一息だ」
 大見兵曹も藤原兵曹も篠崎中尉もほとんど体力を使い果たしていた。もう一息がながかった。
 ようやく磯波を乗り切って、一七時ごろ、ついに陸岸に到着した。山本兵長の死体を救命筏からおろし、藤原兵曹が引きずって、砂浜に運んだ。間もなく陽が落ちて、あたりが暗くなってきた。めいめい砂を掘り、窪みにからだを横たえて眠った。

--------------------

 戦争中の体験を描いた短編集ですが、実話と思うと読みながら手に力が入るのが分かりました。紹介したのは「漂流記」の部分です。太平洋に不時着した軍用機から脱出して漂流したときの体験です。10日ほどの漂流ののち、パプアニューギニアのニューブリテン島に漂着した場面ですが、「山本兵長」の死とそれを見守る戦友たちの心境がよく分かります。このあとも苦労を重ねて友軍に救出されていきますけど、戦争の悲惨さを体験者ならでは文体で冷静に描かれています。私は戦後生まれで、もちろん戦争体験はありません。父親の世代がどうやって生命を失い、また拾ってきたのか、歴史に残る好著です。
 なお、本文は42字で改行となっていますが、ブラウザでの読みやすさを考慮してベタとしてあります。ご了承ください。



   その1  
その2へ

   back(9月の部屋へ戻る)

   
home