きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
吊橋・長い道程 |
2007.12.2(日)
24時間限定の日本詩人クラブ「オンライン現代詩作品研究会」は神戸、岡山、いわき、インドからの参加もあり、無事に終了しました。ちょっと発言数が少なかったかもしれませんが、1行コメントは避けてくださいとお願いしましたので、その分回数が減っただけですから、それはそれで良しとしています。参加の皆さん、ご協力ありがとうございました。
今日は泊り込みで静岡県伊豆の国市に行ってきました。韮山混声合唱団というところが20周年だそうで、その記念コンサートに親戚のようなつきあいをしている詩人の詩が演奏されるというものです。で、私の役割は運転手とカメラマン、気楽なものです。これが、自分の詩が上演、なんてことになったらのんびりしていられないでしょうけどね。ま、その心配はありません。曲になるような詩は書いていませんから。
写真はその華麗な舞台の一場面です。指揮の女性は20年間、練習のたびに東京から韮山まで通ったそうで、驚いたことに団員の何人かは東京・横浜からの通いなんだそうです。それだけ魅力のある合唱団だということでしょう。
コーラスも良かったですよ。件の詩人の作品も10曲が披露され、そのうちの7曲は初演とのことでした。
会場の「アクシスかつらぎ大ホール」の入場者は800人ほど。2階も含めた定員が1000人のようですから、ほとんど満席の状態でした。やはり音楽関係はすごいもんだなと思います。詩の世界では考えられない人数です。日本詩人クラブのイベントでもせいぜい100人、地方大会で200〜300人というところですからね、見習わなくてはいけませんね。
こちらはグッとくだけて懇親会。ホール近くのホテルの、結婚式場のようなところでの懇親会でしたが、200人ぐらいが出席していて、その規模の大きさには驚きました。で、写真は何をやっているところかと云うと、カニさん何とかというお遊戯(^^; このあと出席者全員が輪になって会場を巡りました。唖然としましたね。なんだ、こりゃ! こんなことは詩人の会では絶対にありません。でも、毎回これをやらないと合唱団のメンバーから怒られるんだそうです。こんなところにも800人も集まる要因があるのかもしれません。
このあと最上階のクラブで二次会があって、そちらにも参加させていただきました。運営関係者だけの30人ほどの会でしたが、クラブは貸切り、カラオケは使い放題。初参加の私にも気を遣ってくれて、大勢の皆さんが話しに来てくださいました。泊まりということもあって、私もしたたかに酔いました。韮山で呑んだのは初めてです。佳い夜でした。お世話くださった韮山混声合唱団の皆さん、ありがとうございました!
○新哲実氏詩作品『海のシャコンヌ』 |
2007.11.30 東京都千代田区 アテネ社刊 1300円+税 |
<目次>
海のシャコンヌ 1
あとがき 72
海はうねり うねり続ける
海が海を始めたその瞬間から
終わりのないつぶやきのように
月の満ち欠けや風の流れ
季節の移りやマグマの調べ
すべてと連動し合いながら
海は重ね 重ね続ける
飽くことなく次から次へと
後なる自分を先なる自分に
自らを築き止まないことと
不動の意味であることとが
常に一つであるために
海は語り 語り続ける
水という大いなる循環の言語で
世界中の大地や空と
いのちあるすべてのものはそれを聞く
最も内陸に住むものも
土中深く生きるものさえも
海は紡ぎ 紡ぎ続ける
海を成す無数の滴(しずく)の その一滴一滴の
果てしなき邂逅と別離から
飽くなき旅立ちと回帰から
瞬時ごとに生まれ出る
唯一無二のエピソードを
本著は70頁に渡る1篇の詩です。「シャコンヌ」は私には馴染みのない言葉でした。あとがきに若干の解説がありましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると、
<特定の低音および和声進行を繰り返すオスティナート・バスを用いた曲の呼称のひとつ。17世紀までのシャコンヌの多くは快活な3拍子の舞曲である。オスティナート・バスによる類似の音楽としてパッサカリアがあるが、17世紀後半以降、「シャコンヌ」と「パッサカリア」の呼称はしばしば混同して用いられている。>
とありました。本著のあとがきでは、
<シャコンヌとは、スペインに起源を持つ三拍子の緩やかな舞曲で、四小節または八小節から成る主題が変奏曲の形で繰り返されながら進行してゆく荘厳な曲のことをいう。他に有名なものとしては(バッハの『シャコンヌ』<無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番二短調』第五曲>
を受けて:村山註)、やはりヴァイオリンの曲でヴィタリーの『シャコンヌ』等もあるが、シャコンヌといえばたいていの人は反射的にバッハの名を口にするぐらい、それは傑出して素晴らしく、重厚で哲学的で奥深い作品である。>
となっています。そして、あとがきは、
<この曲が心で鳴り響くたび、私は今一つのシャコンヌ、自然が私たちに与えてくれた、海という、未完にして膨大なる芸術作品にも想いを馳せずにはいられない。>
と続きます。ここからタイトルの「海のシャコンヌ」が理解できました。
紹介したのは冒頭部分です。「海はうねり うねり続ける」、「海は重ね 重ね続ける」、「海は語り 語り続ける」、「海は紡ぎ 紡ぎ続ける」というところが、あとがきの「主題が変奏曲の形で繰り返されながら進行してゆく」ところと重なるのだと思います。「次から次へと/後なる自分を先なる自分に」、「水という大いなる循環の言語」などの詩語にも魅了されます。
私の手持ちのCDには残念ながらシャコンヌはないのですが、それを聴きながら朗読してみるとさらに良いかもしれません。
○藤井慶子氏詩集『ロカ岬』 |
2002.2.28 青銅社刊 非売品 |
<目次>
T
命 6 「停電はないのか」 10
折づる 14 流離 18
祈り(掌) 22 さくら 26
哲学の道(京都にて) 30 とうろう流し(宍道湖にて) 34
最後の涙 38 エッセイ 終焉(その長い一日) 42
U(在りし日、共に旅した日々)
こぶし 48 紅梅 50
能舞台 52 能登の夏 54
水平線(ホテルシェラトンミラージュの窓より) 58
五色沼 62 一期一会 66
尾瀬のとんぼ 70 海女のショー(鳥羽・真珠島にて) 74
怠慢鍋 78
V
ロカ岬(リスボンにて) 84 風の曳航(エーゲ海にて) 88
湯気のある食卓 92 春陽 961
再生 98
あとがき 102
ロカ岬(リスボンにて)
あなたは
二十四時間の
自由を私に与えて
韋駄天の如く
走り去った
海のむこうの浄土へ
いま 私はユーラシア大陸の突端
ロカ岬に立つ
あたえられた時間(とき)の
ほんの ひとひらのなかで
大西洋の波が白くくだけ散る
灰色の海は暗く
水平線さえさだかでない
風は容赦なく足もとをすくう
風になぎたおされそうになりながら
海は私をひきつけて止まない
風の音にまじって
あなたの声を聞いた
「この風景はターナーの絵そっくりだろう」
「ほんとに難破船をおいたらそっくりね」
二人でターナー展の絵に
ぞっこんほれこんだ日
あなたはまだ かくしゃくとしていた
見えない水平線のかなたで
あなたは眠る
海鳴りをまくらに
過去が少しづつ遠のいていく
もう 現在(いま)がはじまっている
私に与えられた時のなかの
ほんのひとひらのはじまりが
このロカ岬の足もとにも――
一九九七年十月
亡くなった御主人の七回忌に刊行された追悼詩集です。電力関係の会社の相談役までなさった人で、作品「停電はないのか」では、病床にありながらも台風を気遣い、術後まっ先にその言葉を発するという、真摯なお人柄が偲ばれます。
ここではタイトルポエムを紹介してみました。御主人を亡くされてから立った「ユーラシア大陸の突端」で聞いた「あなたの声」に、いつまでも変わらない夫婦の深い絆を感じます。その上で「過去が少しづつ遠のいてい」き、「もう 現在がはじまっている」という「私」の前向きな姿勢にも共感しました。御主人に見守られながら「与えられた時のなか」を歩んでいただきたいと思った作品です。
○詩誌『游』14号 |
2007.11.10 東京都三鷹市 藤井慶子氏発行 非売品 |
<目次>
詩
海鳥(うみどり)他/藤 嶺香 2 反省・他/奥山正江 6
霧の朝・他/佐久間郁子 10 トンネル・他/風ちはこ 14
六本木・他/深山ゆみ 18 花布きん・他/北谷祐子 22
ルピナスの野・他/小川淳子 26 みどり(命その一)・他/藤井慶子 30
エッセイ
北欧三ヶ国とフィヨルドの旅/藤 嶺香 34 黒いかりんとうの味/奥山正江 36
親の運動会/佐久間郁子 38 赤坂今昔/深山ゆみ 40
サトウキビ/北谷祐子 42 落柿舎北嵯峨の風/小川淳子 44
華麗なる先達たち/藤井慶子 46
游子 48
一年のあゆみ・あとがき 50 表紙・カット 藤井慶子
みどり(命その一)/藤井慶子
風が阿修羅のような形相で
室内になだれこんできた
この日 庭には険悪な空気が流れて
うなだれた草花のぬれた瞳の奥から
したたり落ちる涙
木々は沈黙のなか
するどい眼光でせまる
前の日 近くの森で
マンション建設のため
悲鳴をあげながら
伐採されていった樹木があった
そこには昨日まで
あふれることしか知らない
みどりの海があった
あたりいちめん溢れる愛があった
蝉しぐれ降る夏があった
ふみにじられた跡には
住家(すみか)を失った鳥たちが
さえずりを失い
殯(もがり)の時を 切り株で過ごす
蒼ざめた風が
右往左往しながら
辺りに怒りをぶつける
一〇〇年かかって成長した〈命〉
たった三分で断つとは――
註 殯(もがり)…敬う人の死を惜しみしのぶ時間の意味
(命その一)(命その二)の連作になっていて、その二は癌に侵された愛犬の詩です。ここではその一を紹介してみましたが、「辺りに怒りをぶつける」主人公が「風」であることに注目しました。「マンション建設のため/悲鳴をあげながら/伐採されていった樹木があった」ことを書いている詩は少なくありませんが、そのほとんどの視点は人間からのものです。風からの視点を私は初めて見たように思います。「一〇〇年かかって成長した〈命〉/たった三分で断つとは――」という最終連も風の言葉になります。従って、この作品は作者の主観でありながら客観性を持たせることができたと云えましょう。環境問題、宅地開発問題などを書くことはかなり難しいことですが、良い手法を提示してもらったと思いました。
○個人誌『空想カフェ』14号 |
2007.11.20
東京都品川区 堀内みちこ氏発行 非売品 |
<目次>
詩 舞踏曲(洪水のための)/今鹿 仙 2
ジョーバンセン/今鹿 仙 4
ひかりがいっぱい/堀内みちこ 7
エッセイ 子どもが生まれたこと/今鹿 仙 8
紫水晶の世界 木水彌三郎「幻冬抄」「秋恨」/堀内みちこ 10
詩 菜の花畑/堀内みちこ 14
エッセイ スクリーン/堀内みちこ 16
詩 夜中のあわれな忠告/堀内みちこ 24
拝読詩集 堀内みちこ 26
詩 右の耳から/堀内みちこ 29
詩 ポストには友だちがいない/堀内みちこ 30
あとがき M・H 32
表紙絵 漂流しているあきビンの中の手紙 M・H
ひかりがいっぱい/堀内みちこ
浴槽に
あふれるほどに溜められた水が ゆれた
窓から 秋のひかりが入浴したのね
また ゆれた
風も入浴したのだわ
小さな浴室の 笑い声がきこえそうな混浴
写真に撮れば
きっと写るわ
ひかりや風と あなたの笑顔が
「秋のひかり」と「風」の「笑い声がきこえそうな混浴」。この「混浴」が良いですね。「小さな浴室」とありますから、温泉の露天風呂のような処ではなく家庭のお風呂なのでしょう。「写真に撮れば/きっと写る」という視点も新鮮です。秋の日の「ひかりがいっぱい」になっている幸せな浴室の風景が浮かんでくる作品でした。
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