きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
吊橋・長い道程 |
2007.12.7(金)
明日は日本詩人クラブの「国際交流の集いおよび忘年会」です。会場となる東大駒場構内のレストランと電話で最終打ち合わせをしました。むこうの担当者も私も心から喜んだのは、参加人数が確定していることです。いつもの例会は出欠をとりませんけど、今回は往復葉書で人数が確認できます。いつもの例会は見込み人数が狂うことが多くて、そのたびに立食の食べ物が足りなかったり余ったりで、二人でいつも悩んでいるのです。それが今回はちゃんと見込めるので喜んでいるという次第です。毎回出欠を採ってもいいんですけど、金額が馬鹿になりません。900人に100円の往復葉書を出すと9万円ですからね。やむなくヤマカンでということになるわけです。
まあ、裏話ですから読み捨ててください。会の運営にはそんな多少の苦労がありますというだけのことです。ちなみに明日は久しぶりに100名の大台を超えています。おいでになる皆さん、楽しみましょう!
○宮島智子氏詩集『渦』 |
2007.12.25 東京都目黒区 あざみ書房刊 1800円+税 |
<目次>
T
美術史‥8 もうひとつの題名‥10 色‥13
もうひとつの名称‥16 ひとつの言葉‥18 黒‥20
「白」「黒」‥22 気分転換‥25 まなざし‥28
まなざしの行方‥30
U
未完‥36 手‥39 歳月‥42
渦‥44 カリカチェア‥47 習慣‥50
ひとり遊び‥52 自画像‥54 雨‥56
V
木木‥62 道の色‥65 連想‥68
訪問‥71 道‥74 花‥76
海に浮かぶ銀河‥79 冬至‥82 オアシス‥84
海辺‥87 手紙‥90
あとがきにかえて‥95
渦
受話器を耳 右手に鉛筆を
会話の間 メモ用紙に
渦巻を書き続けるひとつの癖
意図して直線にするか
いつの間にか渦巻の連鎖になっている
黒くなる紙を
矯めつ眇めつ
自然は
竜巻につむじ風
無数な渦を巻く鳴門の海峡
ぜんまいにつる草と
造形に取り込まれる
ゴッホは渦巻くうねりが好きだ
文字を持たぬケルト人は
大渦と小さな渦を組み合わせ
華麗な文様に民族の思いを託した
フランク・ロイド・ライトの渦は
白亜の螺旋建築
ひたすら螺旋でめぐる壁面に絵
まだ見ぬ「グッケンハイム美術館」
しきりに渦が呼びかける
12年ぶりの第4詩集のようです。ここではタイトルポエムを紹介してみました。著者は絵描きさんでもあるようで、「渦巻を書き続けるひとつの癖」から「ゴッホ」、「グッケンハイム美術館」への流れにもそれを感じることができます。「フランク・ロイド・ライト」は20世紀のアメリカを代表する建築家で、1867年生、1959年没。日本の帝国ホテル、「白亜の螺旋建築」で「ひたすら螺旋でめぐる壁面に絵」のあるニューヨーク「グッケンハイム美術館」の設計でも知られています。
作品からは改めて「渦」が「自然」なものだと感じさせられます。「しきりに渦が呼びかける」のは、詩人として画家としての著者への働きかけなのでしょう。巻末に添えられた著者自身による「農婦」のデッサンも魅力的な詩集です。
○詩誌『阿由多』9号 |
2007.12.10 東京都世田谷区 阿由多の会・成田佐和子氏発行 500円 |
<目次>
途中 新川和江
秋の午後/高梨早苗 6 あの歌−家田紀子ソプラノコンサートに行って/田中聖子 8
紛れ込んでくるもの/冨成美代子 10 道草/成田佐和子 12
鳩の足(ピカソその二)/野邑栖子 14 社宅の子供/風里谷歌子 16
娘とわたし/前田嘉子 18 雨降る日曜日/宮本智子 20
十薬/大内清子 22 揺れる/小関秀雄 24
笑う/滝 和子 26 父さんの瞳/小川淳子 28
膝小僧/川崎美智子 30 夏が来て/窪田房江 32
あったらもん/関 和代 34 やさしい時間/前田一恵 36
奥多摩湖にて/近藤明理 38 シャドウ/さとうますみ 40
夕日のポプラ並木/柴田節子 42 春の雪/早川通子 44
あとがき
同人住所録
表紙篆刻文字 成田佐和子
あの歌――家内紀子ソプラノコンサートに行って
田中聖子
オペラアリアのあとに
竹久夢二の絵のような着物姿で
日本の叙情歌が歌われた
いのち短し 恋せよ少女(をとめ)――*
どうしたことだろう
ふいに涙がこぼれそうで
俯くことしかできなかった
遠い日 ピアノの上手な人が
私の横で小さく口ずさんだとき
はずかしいような気持で聴いた あの歌
まちがいのない生き方を
しなければいけないと思うことが
まちがいではと かなしく思うこともあった
マチネ帰りの土曜日の夕間暮れ
通りを往く人々が霞む
みんな何処かへ消えていってしまう
ひとり駅に向かいながら思うのだった
生きるって――
会いたい人に会うこと
したいと思うことを
することであったかもしれない と
ふたたび来ない今日を
どう生きる
*「ゴンドラの唄」吉井勇作詞中山普平作曲
「まちがいのない生き方を/しなければいけないと思うことが/まちがいでは」というフレーズに考えさせられます。この作品の場合は、「ピアノの上手な人」とそれ以上の発展がなかった悔いを描いているわけですけれど、恋愛に限らずいろいろな場面で手枷足枷になっていた思考だと思います。儒教的な考えはもちろん良い面がたくさんありますが、その反面、個人が個人の責任で納得して「生きる」ことを抑圧したことを見逃すわけにはいかないでしょう。そんなことを思いながら拝読した作品です。
○詩誌『布』24号 |
2007.11.30 山口県宇部市 先田督裕氏ほか発行 100円 |
<目次>
太原千佳子/羽虫の言い分 1 橋口 久/宙の蛇 2
橋口 久/INDIRECT 3 寺田美由記/なりたい自分 4
先田督裕/しごと 5 先田督裕/小国寡民 6
先田督裕/雪になれなかった雪の結晶 7 先田督裕/娘が育つとは 8
小網恵子/砂場の子 9 阿蘇 豊/ミックススープ 10
阿蘇 豊/運命 11 杜みち子/島 12
杜みち子/夏休み 14
ヘルマン・ド・コーニングの詩/太原千佳子訳 15
ひとこと 16
「布」連詩 「自由になったあなたは」の巻 20
ヘルマン・ド・コーニンクの詩 太原千佳子訳
復讐
ぼくは登録されている
生年月日 生まれた場所と時刻
出生証明書 兵役証明書 あちこちへの引越し記録
政治的信条書類 労働組合所属証明書
ぼくの存在はほぼ一キログラムの紙である
だから三つの国の国境が接する土地を訪ねて行こう
そこで 「では」とぼくは死ぬ
なぜってぼくの死亡で
約二十ぐらいの行政機関の楽しみを
台無しにしてやれるから
なんと古い時代の詩などと言わないでください。
このごろの日本や世界情勢を見ていると自爆とまでは言わないがこの詩のように何かに思い切り復讐したくなる。ベルギーのフランドル地方のブログにも出ていて、反応は活発だ。アンチ官僚主義を越えて受け取られている。「ハハハ もっとたくさん国境が接するところってないかね」とか「現実からそう遠くない」などと書き込みがある。たしかにベルギーはオランダ語圏フランス語圏ドイツ語圏があって、いま分裂の危機にある。この痛快な復讐詩が現実味をかもすためには分裂しないでほしいものだ。ヘルマン・ド・コーニンク第四詩集『オーボエの音とともに』に収録されている。
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太原千佳子さんの訳詩と解説を紹介してみました。コーニンク(あるいはコーニング?)という詩人を初めて知りましたが、ベルギーの人のようで、詩の内容から、書いた当時はまだ若い人のように思われます。兵役の義務や「労働組合所属証明書」などが無い日本とは感覚が異なりますけど、「ぼくの存在はほぼ一キログラムの紙である」という面では同じなのかもしれません。痛烈なアイロニーはヨーロッパの複雑な地形と歴史の上に成り立っていて、日本ではなかなか書けないものでしょう。しかし、その精神は同じ人間として引き継ぎたいものです。楽しませてもらって、そして考えさせられた作品です。
○隔月刊詩誌『叢生』153号 |
2007.12.1 大阪府豊中市 叢生詩社・島田陽子氏発行 400円 |
<目次>
詩
刻々と/福岡公子 1 ズボンなんで濡れてんねん/麦 朝夫 2
ねばってぬるっと/八ッ口生子 3 単簡はミスかエラーかそれとも/毛利真佐樹 4
いつ誰が/山本 衞 7 いっときの幸福/由良恵介 8
鏡のなかの幻想/吉川朔子 9 医者の忠告/竜崎富次郎 10
影/秋野光子 11 女の子は小学生/マリー・ノエル 江口
節訳 12
人間よ さあどうする/姨嶋とし子 13 グローバリゼーションの向こうに/木下幸三 14
黒マル黒サンカク白シカク黒シカク/佐山啓 15 ひとより長い/島田陽子 16
マリアさまの藍/下村和子 17 船出/曽我部昭美 18
背中合わせ/原 和子 19 杭/藤谷恵一郎 20
本の時間 22 小径 23 編集後記 24 同人住所録・例会案内 25
表紙・題字 前原孝治 絵 森本良成
刻々と/福岡公子
長年借景を楽しませて貰った裏の庭が
更地になって久しいが
井戸があった辺りにも抗が打ち込まれ
塀の際に僅かに残った雑草に
小さな蝶が風に逆らって留まっている
駅の向こう側が騒がしいと思っていたら
大きなマンションが建つという
窓からみえる青空もまた
痛そうに削りとられるのだろう
飼い犬も十四歳
敏感に反応していた家族の口笛も
彼の頭上むなしく風とともに去り
そっと鼻先に座りこんでみても
熟睡の寝息が規則正しく聞こえるばかり
あんなに澄んでいた瞳も
うっすらと灰色の幕に覆われ
目の中を覗き込めば
あちこち病んだ小さな自分が
ぼんやりと屈んでいる
「長年借景を楽しませて貰った裏の庭」も「駅の向こう側」も「刻々と」変わっていく…。そして「飼い犬」の「あんなに澄んでいた瞳も/うっすらと灰色の幕に覆われ」いる。その瞳に映る「自分」も「あちこち病ん」で「小さ」くなって、「ぼんやりと屈んでいる」。散文的に書けばこういうことでしょうが、なぜか悲壮感はありません。おそらく個々の言葉の遣い方に起因しているのではないかと思います。
例えば「長年借景を楽しませて貰った」というフレーズには、他人様のものを受身で楽しんだという余裕があります。それが無くなるだけだという感覚が伝わってきます。これが例えば長年借景を楽しんでいた≠ニなると、自発的に、他人の土地から楽しみを得ていたことになり、それが「更地になって」しまった、断りも無く…、というニュアンスになるのではないかと思います。「大きなマンションが建つという」のいう≠燗ッ様に受身です。そんなところから、もともと自分にものではない物が変化していくことへの関心が、悲壮感とは無縁となったのではないでしょうか。
それならば自分の所有物≠ナある「飼い犬」についてはどうでしょうか。老いてはいても「熟睡の寝息が規則正しく聞こえる」安心感、「あちこち病んだ小さな自分」との共通感があって、まあしょうがないね、お互いにトシだからね、という連帯感が悲壮感を打ち消しているように思います。
それらを考えると、この作品からは非常に達観した、カラリとした視線を感じることができます。拝読してすぐに、なぜ悲壮感がないのだろうと疑問になって、思わず分析≠してみましたが、よい勉強をさせてもらいました。拙い分析≠ヘおそらく間違っているでしょうが、そんなことを考えながら拝読するのも詩を読む楽しみだと思っています。
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