きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.12.11 浜離宮・中島の御茶屋 |
2008.1.28(月)
午後から日本橋兜町の日本ペンクラブ会館で、電子文藝館委員会が開催されました。今回のトピックスは、国立国会図書館のポルタへの対応です。
国立国会図書館は、近々、国内の文学関係諸団体のポータルサイトを開設しようとしています。図書館HPを訪れてくれた人に、国内には他にこんな良いサイトがあるよ、と紹介してくれるものです。電子文藝館もそれに乗ることにしました。しかし、ただリンクを張ってくれるというだけではありません。文藝館の掲載作品の内容にかなり踏み込んだ形になります。具体的には全掲載作品の著者名、作品名にフリガナがあることなどが求められています。
一口にフリガナを振ると言っても並大抵ではありません。現在までに730件ほど集まっていますからね。今日の委員会では、とりあえず著者名フリガナは村山がやり、作品名には各委員の応援を求めることにしました。コントロールも村山が行います。期限は2月末。どんな負担になるか、やってみなければ判りませんけど、まあ、やるしかないでしょうね。さっそく明日から作業に入ります。
○詩誌『歴程』547号 |
2008.1.31 静岡県熱海市 歴程社・新藤涼子氏発行 476円+税 |
<目次>
特集 2007年歴程祭〈未来を祭れ〉2
ミズナラの木の下で/時里二郎 18 柄杓/三井葉子 23
映像/小笠原鳥類 26 ある五月/朝倉 勇 29
版画・絵 岩佐なを
写真 北爪満喜
ひしゃく
柄杓/三井葉子
聞いて下さい もういちど
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに
あ
わたしが翳っている
あ
なんという胴慾
西日
灼けている
いとしまれていとしまれて育ったわたしの
空にむいて彼方にむいて動いたはずのわたしの
いま
子の胎にいると思う回帰の安堵がわたしを充たしています
それなら
なんのために過ぎてきたのか
刻一刻 こくいっこくをなんのためにいとしまれてきたのか
時に
非時に
西の日
灼けている
日にむかい
日から出て
と
そこまできて
あ
たちどまる
くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月*
といううたに
どこにも行かぬ
ただ
吾子(あこ)が吾(あ)を掬ふ柄杓の甘茶(あまちゃ)かな。
*和泉式部――九九六年、十六・七歳当時のうた。『拾選集』(哀傷・一三四二)
古典や俳句・短歌の素養がないので的外れかもしれませんが、最後に置かれた「吾子が吾を掬ふ柄杓の甘茶かな。」が第1連に掛かっている作品だと思います。まさに「回帰の安堵」と謂うべきでしょう。すなわち「なんのために過ぎてきたのか」、なんにために生きてきたのか、その回答でもある作品と読み取りました。「回帰の安堵」があるからこそ生きていられるのかもしれませんね。実際に子があるなしに関わらず、人類としての「回帰の安堵」。おもしろい作品だと思いました。
○詩&エッセイ『む』9号 |
2008.1.20 山形県山形市 芝春也氏方・詩工房S発行 非売品 |
<目次>
●阿部 栄子 P小春日和 2 E嘆息 4
●芝 春也 P小詩集・スナップ(2)
6 E詩の愉しみ 9
E「天問」にあやかる 10
●いであつし P妻の神様 12 E詩人の戦争責任(3) 14
●いとう柚子 Pインソムニアの冬 18 E秋野不矩美術館を訪ねて 20
●安達 敏史 P朝日・秋・冬木立 24 E今、「遺言」を 26
◆あとがき・同人名簿 30
小春日和/阿部栄子
樹は風景を見回し
陽光の指揮棒を振りはじめた
植物や田んぼや川は
思い思いの音符をリズミカルに発生させている
音符はとどまることなく
消えて行く
捕まえようと電柱から電柱へ五線を張り
引っ掛かるのを待っている私
待ちに待ってもう夕方
吐息が全音符二個分の尾をゆらゆらさせ
消えた
樹は台所を覗き込み
淡くなった陽光の指揮棒を
菜箸に取り替えて振ろうとしている
カラスが飛んで来て電柱にとまり
私を見て言った
おまえの出番じゃないのカア
アホー アホー
今号の巻頭作品です。「陽光の指揮棒」という詩語が佳いですね。この言葉によって「小春日和」の陽光が生き生きと眼に浮かびます。続く「植物や田んぼや川は/思い思いの音符をリズミカルに発生させている」というフレーズは、それらが発する気配とでも採ってよいでしょうか、「捕まえようと電柱から電柱へ五線を張り/引っ掛かるのを待っている私」という第3連とともに絵画的です。最終連ものどかな感じが出ていて、さすがは巻頭詩と思いました。
○個人誌『せおん』7号 |
2008.2.1 愛媛県今治市 柳原省三氏発行 非売品 |
<目次>
石鎚の空 死がとても怖い 宗教について
冬の日に
あとがき 表紙写真:瀬戸内海の小島の秋
石鎚の空
ふと見上げた石鎚の空に
もみじが鮮血のように飛び散っている
その向こうは若者の爽やかさである
透明な記憶のかけらが
風に流され通り過ぎてゆく
死んでしまった者が
空に昇ってしまうなんて
一体誰が言い始めたことなのだろう
余りにも寂しい発想だ
死んでしまった者は
残された者の胸のうちに
どっしり居座り続けている
その情愛と同じ重さで
決して飛び去ったりはしないのだ
空に昇ってゆくのは
若い日の軽質な思い出ばかり
美しいセロハンになって
ひらりひらりひらり
時折キラキラ輝きながら
風と共に流れてゆく
「もみじが鮮血のように飛び散っている」というフレーズが強烈な印象を与えますけど、続く「その向こうは若者の爽やかさである」というフレーズが対になっていて、おそらく青空を指すのでしょうが、まさに「爽やか」です。
この「若者」は、若くして亡くなった作者の次男のことだろうと思います。ですから、作者にとっては第2連以降が必要になります。「どっしり居座り続けている」「決して飛び去ったりはしないのだ」というところに作者の気持が込められています。ただ美しいだけの「石鎚の空」ではありません。胸に迫ってくる作品です。
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