きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.2.26 河津町・河津桜




2008.3.13(木)


 午後から日本ペンクラブの電子文藝館委員会が、日本橋兜町の会館で開かれました。いよいよ3月で、委員長より文藝館HPについての重要な報告がありました。
 今まで制作を担当してくれていた業者さんが、予定通り3月末で撤退します。業者さんへの新作入稿は3月19日まで、校正は25日までと決定したそうです。その後は、これも予定通り文藝館委員会と日本ペンクラブ事務局とで分担することが確認されました。文藝館委員の皆さまの校正作業が大きく変わるのは、校正サイトに入ってHTMLやPDFで読んでいただいたものがWordに変わるという程度ですが、当初は戸惑いがあるかもしれませんね。すでにテストは2度やっていますから、大丈夫だとは思いますが…。読者の皆さまには一切変化は見えません。これまで同様、ご訪問くだされば幸いです。

 国立国会図書館との連携の話は、そのまま進んでいます。文藝館から図書館に提出するデータの細かい話も出ましたが、基本的には大きな問題はありません。いずれ図書館のHPに載るでしょうから、そちらもご訪問ください。それよりも日本ペンクラブの会員で、まだ文藝館に作品をお載せになっていない方は、是非ご出稿をお願いします。私宛にメールをいただければ詳細をご説明します。現在730編ほどの作品を公開していまして、2010年の創立75周年には1000作品を達成したいと思っています。会員の皆さま、ご協力のほどよろしくお願いいたします。



下澤勝井氏作品集『天の罠』
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2008.1.15 東京都八王子市 武蔵野書房刊
1500円+税

<目次>
天の罠 5      キュウチョウヨハイ 37
穴 67        ズミホ島の祝祭 85
がまの子蛙 119    緋メダカ 149
炙り絵 179      幽閉 205

作品選評 232
下澤勝井論 勝又 浩 241
あとがき 252



 天の罠

 逸平さんは言う。「おっさん、やっぱ、蜘蛛の糸でひと部屋作ってしまったらしい」
 山荘裏の岩室の奥に、ぬれた真珠のような色で仕切られて見えるのがその部屋だという。山室老人は一日のほとんどをその室の中にいて、大きな座机を前に蜘蛛のような形相で眼を光らせて座っている。その坐りかたが土蜘蛛そっくりなんだという。
 「なんせあの体であの顔だろ。ほんに芝居に出る〈土蜘蛛〉そっくりなんじゃ。いや蜘蛛というより、ありぁ鬼じゃ。なんでも岩室の周りは山蟻のように、あっちにもこっちにも蜘蛛がはい廻っているというこんだ。なにを喰ってそんなぎょうさんな蜘蛛が住みついていんだかわかんねぇども、人が言うにゃ、あの山室老人、鉢の中で納豆かきまわしていると思って見ていんと、おめぇ、それがみな蜘蛛だったんだと。それが証拠にゃ、豆と見ていたのが、ひとつひとつ鉢から這い出した。それもみんな絹の糸を引いて鉢の縁から溢れ出してきた。隣り部落の郵便屋のケンさが言うだからまちげぇねぇ」

 山室老人がこの山村の離れ屋敷にひとりで住むようになってから、とかくの噂が絶えない。あまりにも村の人たちと行き来をしないのが最大の要因だが、あの風貌もやはりそうした噂にひと役かっている。あれはなんといったか、いっとき日本の総理にもなったことがある旧「日本社会党委員長」、あの長い眉毛の奥のひっこんだ眼と大きな口、あの人ほど眉毛は長くはないが、山室老人の風体はどうやらあのご仁に似ている。悪くいえばあの総理はガガンボだが、山室さんはカマキリで、もっと存在感がある。だが村の衆とは付き合いが薄いため、山室老人はすっかり変人にされてしまっている。
 直線にして一〇〇〇メートルとは離れていない、私の家の庭からも見えるその道が、山室老人が住む借り家へと通ずるただひとつの谷越えの道だ。一日に二往復しかないバスの通る県道からも、老人への道は尾根づたいに四〜五百メートルは登る。道は県道から大きく西に湾曲して隠れ、尾根の中ほどの屋敷林がすっぱりと老人の家を包んでいるが、ともかく今では村の唯一の大きなわら屋根の家だ。

 私の子供の頃、その家は〈古屋敷〉と呼ばれていたが、今は村の衆は首をすくめ、〈首吊り屋敷〉と呼んでいる。十年ほど前、その家の老夫婦が、息子の住む街から帰り、軒の梁にふたり並んでぶらさがった。理由はいろいろ取り沙汰されているが真相はわからない。なんでもカミさんの方が不治の病に冒されていたそうだ。すっかり住む人が居なくなったその空き屋敷に、山室老人はひとり来て暴らすようになった。離れ屋であり、その上自殺者をだしたその家に近づく人はあまりいない。そんな所に住むようになったひとり暮らしの初老の男所帯に、村人の好奇の眼は集まる。〈蜘蛛老人〉などと呼ばれるのはそんなこととも関係する。
 首吊り屋敷と蜘蛛老人とはなんの関係もなさそうだが、先の逸平さんの、言うところでは、蜘蛛老人はこの家の自殺した老夫婦のひとり息子の、学生時代の恩師らしいということだ。なんても息子は気象庁の技手になっているそうだが、その大学の生物学だかの教授が山室老人であり、世間の人はこの老人を〈クモ博士〉と呼んでいるそうだ。それも空を飛ぶ雲ではなくて、地を這う蜘蛛の方だと逸平さんはいう。
 古屋敷の老人夫婦は街には住めず、一方山室さんの方は街からの脱出組だ。いずれにしても過疎となったこの村は今はこうしてはぐれ者のたまり場のようになってきつつある。

 山での山室さんはひとり暴らしだが、連れ合いはいる。この山の者でも耳にしたこともある山室美容室、山室美容理容学院、その名誉学院長として、時にはテレビの画面にも登場するという。でっぷりとした白髪の老婦人。どうもその人が老人の連れ合いらしい。だから時には、その老婦人が運転手づきの黒塗りの乗用車で、あの首吊り屋敷へ現れることがある。つばの広い帽子をかぶり、ドレスのような裾長の洋装をした女性と山室さんが連れだって歩いているのを、私も車を運転しながら見たことがある。腕を組んで歩く初老の男女の姿は、田舎ではあまり見慣れない風景だ。
 山室さんの方は私も少しは知っていて、話を交わす機会もある。多くは村の温泉の共同浴場の湯船の中だ。決まった仕事をもたない私たちは、それぞれの家から歩いて小半時間ほどの、村の共同浴場へ昼間から湯浴みにゆく。そこでよく偶然の出合いをする。

 私の方は日頃は街に住み、気が向くとひとりで、自分が生まれ今は空き家になった生家へ、やはりひとりで帰って住む。住むと十日ほどは居続ける。私は元はフリーのカメラマン。前にはいくつかの雑誌社や出版社と個人契約をしていて、仕事で国外にもよく出向いていた。しかし今は全くのフリーで、亞高山系の山野草などを撮ることが多くなった。草花ならいつでもそこへ行けば逢える。いわば移動しない被写体だ。ただ開花期などを考え、その日の晴雨と、もっともよい時間帯を選んで出かけて行けば、さまざまな表情をした山野草に逢える。このような被写体を選ぶようになったのも歳のせいだ。
 近くの山歩きをしていると、ひょんな機会に山の道で山室さんに合うことがある。こちらは三脚と二〜三台のカメラをぶらさげている。先方は補虫網やどうらん(胴乱)をななめに肩にかけている。それぞれの身なりで、それぞれの関心のありようを知りあってはいるが、だからといってそれを話題にするといったことはあまりない。
 山室さんはいつも瓢々としていて、相手の仕事の領域に立ち入った話題を好まれないようにみえる。だからそんな時でも天気や山の話を交わすくらいで、立ち話の域をでない。

 なんでもスギタマバエという小さなハエの幼虫。その幼虫は杉の若芽を好んで食べるそうで、そうした杉の木にはよく蜘蛛の棚網が無数に架けられている。それがササグモだ。ササグモはスギタマバエの幼虫を捕食する。山室さんはその蜘蛛の研究者だと他の人から聞いたことがある。逸平さんは山室老人は糸を吐く虫の研究者だといった。逸平さんは元農協職員で私の小学生時代の同級生。村のことで判らないことは逸平さんに尋ねれば大概は知れる。
 小地主の古屋敷。あの家の老夫婦が村に帰って自殺したのも、街に住むひとり息子が国外へ研究に出て、その間に母親の方が宿痾の病をえた。相談相手を失った寂しさからああした結果となった。あの家には三代前にも〈鐘ガ淵〉で役身自殺をした労咳を患った先先代がある、いわば自殺者の家系だ、と逸平さんは言う。言われてみれば古屋敷の人たちは、どこか寂しげな寡黙な人たちだったと私も思い出していた。(以下略)

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 小説「天の罠」により第47回農民文学賞(2004年)、「がまの子蛙」により新日本文学賞(1990年)を受賞し、受賞には至りませんでしたが「炙り絵」により第12回太宰治賞(1976年)の最終候補となった作品を含んだ自選小説集です。ここでは表題作「天の罠」の冒頭の部分を紹介してみましたが、このあと元カメラマンである「私」は「山室老人」の話に興味を持ち、蜘蛛の観察にのめり込んでいきます。さらに蜘蛛の巣だらけの室で巨大な蚕の繭のような袋の中に裸の人間が蠢く気配…。蜘蛛の糸が「天の罠」ではないかと思わせる傑作です。
 「炙り絵」は原稿用紙2〜3枚という掌編が6編集められた構成になっていて、読み進めるうちに近代日本の原風景がジワジワと炙り出されているのを、読者は感じるという佳品です。これが太宰治賞を取っていればなあ、と思わせる作品でした。
 その他の作品にも従来の作家とは違う観察力と問題意識を感じさせられました。今年出たばかりの本ですから、どうぞ書店でお求めになって読んでみてください。妖しい世界に惹き込まれていきます。



山影冬彦氏著漱石異説「坊つちやん」連想
――多田薬師炙り出し――
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2003.5.20 東京都国分寺市 武蔵野書房刊 2000円+税

<目次>
 まえがき……4
第一章 連想二筋――音から饅頭・意義から薬師……12
第二章 音から連想――多田の満仲から只の饅頭へ……34
第三章 音から連想 補完の補足――「まんちう」の「契り」……49
第四章 意義から連想――多田の満仲から多田の薬師へ……70
第五章 多田の薬師の知名度――絵画の記録から……82
第六章 多田の薬師の知名度――文章の記録から……118
第七章 『坊つちやん』の東京――忘れられた下町……139
第八章 連想「小日向の養源寺」――米山保三郎のこと……163
第九章 多田の薬師にまつわる連想力――連想力が消えたわけ……185
第十章 葛飾北斎と『坊つちやん』の世界――福本和夫を手本に……198
第十一章 坊つちやんの生まれ育ち――絞って連想……220
第十二章 坊つちやんが挑んだ上総掘り――仕掛けと分布……246
第十三章 東京ことば――山の手・下町……276
第十四章 坊つちやんの東京ことば――巻き舌・べらんめい調等々……292
第十五章 漱石と多田の薬師――接点を探る……347
 あとがき……372
〔付録〕
付録その一 多田の満仲と只の鰻頭との洒落一覧……375
付録その二 湘南高踏無稽百人一首……383
付録その三 昨日も狂歌明日も狂歌日記……402
付録その四 不承知「指導力不足教員」物語……411
〔多田の薬師関係図版一覧〕
絵本隅田川両岸一覧(葛飾北斎)表紙カバー  江戸一目図屏風(鍬形惠斎)……巻頭見返し
多田薬師堂(『江戸名所図会』より)84〜85  江戸名所之絵(鍬形惠斎)……88〜89
多田薬師(鍬形惠斎)……91         江戸名所一覧双六(歌川広重二世)……95
福神隅田川遊覧絵巻(曙峯)……100〜101   隅田川風物図巻(仮称)……100〜101
神仏納手拭(廣重・豊國)……112〜113    隅田川両岸一覧(鶴岡蘆水)……扉、及び116〜117



 『坊つちやん』は、作者漱石が前面に出て語る叙述形式を採っていない。作品の語り手は、主人公の坊つちやん自身になっている。その坊つちやんは単純で、世間ずれしていない。次々に起こる事件の認識もそう的確にはできない。殊に四国に赴任したての頃がそうで、赤シヤツや野だいこにうまくあしらわれる。のみならず、自らの言動が他人にどのような印象を与えるかといったことについても、気にすることはあっても、自覚的であるとはいいがたい。つまり、自己を客観視する姿勢と能力に欠けている。その意味では、語り手としては主観的でありすぎて手際を欠き、合格点はつけがたい。
 この主観的な語り手の手際を欠いた語りという負の要因が、かえって『坊つちやん』が何度読んでも読み飽きることがない魅力の源泉となっているように思われる。この種の魅力を、私はわが恩師亀島貞夫の顰みに倣って「欠落の情緒」と呼んでおきたい。

 そもそも、語り手の坊つちやんが語り手として頼りにならない存在ならば、読む側がその不手際を補うよう務めなければならない。また、自然に読者がそう務めることになるように、作者漱石によって巧みに設定が施されてもいる。
 つまり、様々な形で材料はすでに豊富に与えられている。それらを、どのような視点から、どのように整理して、どう組み立てて行くのか。解釈の余地が読む側に程よく残されているという印象を受ける。
 これはすぐれて連想の問題と連なる。解釈の余地が残されていることは、それだけ連想作用の自由度が読む側に開かれているということに外なるまい。連想を比較的自由になしうること、これが語り手として頼りない坊つちやんを語り手とする作品『坊つちやん』の魅力の構造なのではないか。作品としてのそのような語りの構造を作者漱石は意識して設計したように思われる。

 要するに、物語の整理と組み立てが多く読者の側に任されて、大いなる連想を発揮できるということが、『坊つちやん』を何度読んでも読み飽きることがない一つの大きな理由となっていると私は思う。
 例えば、ただ単に視点を少し変えるだけでも、整理の仕方や組み立て方において、読む者は読む度に思いを新たにする、今まで気づかなかったことに思い到る、といった形で、新鮮味を覚える。むろん、与えられた材料自体が鮮度を保って豊富にあるということもある。こうしたことから、『坊つちやん』は、読む度に新たな連想を刺激されるといったような仕組みにもなっているように思われる。少なくとも、私の体験としてはそうなる。

 実に、私自身は、『坊つちやん』によってその種の連想を大いに刺激されてきた。連想は、事の性質上、連鎖反応的に更なる連想を呼び、様々な事柄に脹らんでいく。その上、連想する個人の認識や発想に大きく左右されもする。個人の認識や発想とは、個性と言い換えてもよい。多分、『坊つちやん』は、語り手が語り手として手際よく語らないという「欠落の情緒」を漂わせることによって、読者の連想を個性豊かに保障してくれる、そういった包容力を備えた作品ではないかと、私はその読書体験として実感する。
 実を言えば、連想が文学において大変重要な要素となっていることを、私は漱石『文学論』から学んだ。文学作品を読んでどう感じるかは、人それぞれで、ずいぶん違いがある。また、あっていい。連想を文学の重要な要素と認めるならば、そうなる。

 『坊つちやん』の解釈についてもそうだろう。近年の漱石研究者の大方は、『妨つちやん』を悲劇と性格づけようと懸命に努力している。悲劇としてでなければ『坊つちやん』は論ずるに足りぬと言わぬばかりの発言が目立っている。ところが、私のような素人が傍目にみると、これを悲劇だとするには相当の無理があるように思われる。率直に言って、妨つちやんの言動には面白くて仕方のない感じを覚えて、喜劇としてしか読めない。このように読後感が大きく異なるのも、基本的には読む者が『坊つちやん』のどこをどのように連想したかの違いによるのではないかと思う。
 その意味で、平岡敏夫著『「坊つちやん」の世界』(塙新書一九九二年刊)は、私の『坊つちやん』連想にとって、よい刺激となった。『「坊つちやん」の世界』は、基本的には『坊つちやん』悲劇視に立った『坊つちやん』連想といえよう。これに対して、私の『坊つちやん』連想は、基本的には『坊つちやん』喜劇視に立っている。そこで、不遜を承知で敢えて『「坊つちやん」の世界』に対比して言えば、私の『坊つちやん』連想は、『「坊つちやん」・もう一つの世界』とでもなろうか。

 そもそも、他人と同じようなことを連想していたのでは、自分が人並みなことを確認できる程度の話で、さほど心地がよくなるものではなかろう。特に、著名な研究者の説をなぞっているだけでは、知ったふうを装えはしても、いわゆる猿真似と同じ行為であって、真に文学を愉しむ所以とはいえまい。猿真似を活字として現わそうとするなどは、資源の浪費以外のなにものでもない。
 猿真似は、漱石が講演記録に基づく評論「私の個人主義」において、かつて漱石自身の中にあった他人本位の姿勢として厳しく自己批判しているところでもある。漱石はこの自己批判から、文学理解における自己本位の立場を導き出した。つまり、他人と同じようなことを連想しないことを、敢えてよしとしたのである。

 連想は楽しい。それは、出発点において他人と同一の環を共有しながらも、ある時点から外れて次第に他人とは異なる独自の世界を構成できるようになるからだろう。そうした楽しい連想にとって、『坊つちやん』は数々の素材を提供してくれる作品である。
 一例を示そう。かつて私は、「多田の満仲の後裔だ」という坊つちやんの独白から、只の饅頭を連想した。そこからこの口合的連想の歴史的妥当性を調べあげた。他方で漱石『文学論』の「無意識的洒落」論にも行き着いた。その上で、坊つちやん自身について「自覚なき道化」を連想した。この一連の連想は、今日においても依然として『坊つちやん』についての私の基本認識になっている。

 この基本認識に立って、本書では新たなる連想を試みたい。ただし、この基本認識のうち前半を構成する、多田の満仲から只の饅頭を連想する範囲に関しては、重複を恐れず、本書でもとりあげる。これに加えて、今回本書において私が『坊つちやん』連想として新たに展開するものについては、次章の十で風呂敷を広げておいたので、参照されたい。
 これら新たな諸連想は、その源をたどれば、源通り、源
(みなもと)満仲(みつなか)こと多田(ただ)の満仲(まんじゆう)に端を発しており、相互に絡み合ってもいる。文字通り、連想が連想を呼び、そのまた連想が……といった格好になる。遊びにも似たこうした連想作業は、管見する限り、誰も試みていない。誰も試みていないらしいのは、奇抜すぎるからで当り前かという冷めた思いもあった反面、それだけに心踊る思いもあった。とにかく遊びつつ学ぶ心地で、私はこれらの『坊つちやん』連想を満喫した。その報告書が本書である。

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 国民的な文学作品と謂ってもよい夏目漱石の『坊つちやん』論です。「まえがき」の後半部分を紹介してみましたが、「私のような素人が」と謙遜しているのとは裏腹に、相当調べこんだ著作です。参考文献だけでも20冊、30冊を超えていると思います。殊に本著の中核となっている「源満仲こと多田の満仲」は、数多くの漱石論・『坊つちやん』論でも触れられたことはないようで、圧巻です。それだけでなく、調査に用いられた多田の薬師にまつわる絵画、文章の記録は、そのまま江戸・東京論としてもおもしろい視点です。また、「付録その四」として載せられている「不承知『指導力不足教員』物語」は、現在の文科省政策・教育委員会への、身を持って抵抗する痛切な批判でもあります。とても「付録」で読み過ごされる問題ではありません。
 私はまったくの素人ですが、漱石研究に一石を投じた論文だと思いました。漱石研究者のみならず、漱石好き、文学好きにはご一読を薦めたい本です。



上坂高生氏著『緋の衣』
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1996.8.20 東京都国分寺市 武蔵野書房刊
2000円+税

<目次>
日航那須高原保養所…5
炎える夏の日…73
カテーテル・アブレーション…123
緋の衣…193
 あとがき…260



 電話の受話器をとると、女の人の声で、私の苗字をいった。私の苗字は、知らない人からは違った読み方をされる。その場合、宣伝や勧誘ばかりで懲りており、違います、と切ることにしている。それで不都合があっても仕方がないと割り切っている。
「鎌倉のかねつねと申します」
「鎌倉の?」
 そんな所から電話をかけてくる人の心当たりはない。しかし、かねつね、という姓は、そうざらにあるものではない。
「兼常武三郎先生の……」
 まさかと思いながら訊いてみた。神戸大学教育学部の美術科の名誉教授である。教授の長男耕一は藤沢市におり、次男伸司は千葉市にいる、と聞いていた。相手は否定するかと思ったが、そうです、という。
「先ほど父がこちらに着きました。父が、知らせてくれと申しまして……」
「神戸ではどうされましたか」
「家がつぶれました」
 ええっ、と息をのみ、声にならなかった。
 一九九五年の一月十七日の午前五時四十六分、兵庫県南部の淡路島から神戸市、芦屋市、西宮市が直下型の大地震に製われた。テレビの生なましい画面を見て、凝然となった。煙と炎をあげて燃える神戸市街のありさまは、私の体の芯から慄えさせ、戦かせた。私は神戸市に五年間、西宮市に三年間住んでいたが、生地の兵庫県の日本海側を含めて、地震の体験は一回もない。東京に出てきてからは、年に数回は揺れ、まるで大海の中の船に乗っているようなものではないか、と思った。横浜に移ってからも同様だ。それで馴れたかといえば、そうではない。自分の意志によらず、また何の覚悟もないところで、揺さぶられるのは、まことに不安で気味が悪い。関東大震災級のものが近く襲ってくるといわれると、地震のない関西に戻りたい、と思うのも当然で、その矢先の、兵庫県南部の大地震だった。
「先生は無事だったのですね」
「はい。――父に代わります」
 電話口にすぐ教授が出てきた。やあ、と呼びかけてくる教授の声は明るく元気そのもの、いつものとおりだった。
「先生、家がつぶれたんですって……」
「トイレに行って、もどってきて、ベッドに両手をついたときに、どかーんと来たね」
「家の下敷きに?」
「二階に娘が来て泊まっていたんだが、二人とも何とか難をのがれたよ」
「それで怪我かなんか……」
「どこも怪我はしていない」
「知らなくて申しわけありませんでした」
 私は小さな声でいい、壁に向いて頭をさげた。私は学生時代、ほとんど教室には出ず、国文学の楠道隆教授宅の書斎に寝転んで文学書を片っぱしから読んでいた。敗戦後のこと、焼け残った官舎の書架にある膨大な書物は宝だった。楠教授の隣の官舎が兼常教授の官舎で、そのあたりで顔を合わせるくらいのもの、兼常教授の授業は全く記憶にないほどだが、卒業後、無職になって困りはてているとき、西宮市の安井小学校という所に紹介してくれた。怠け者の私なのに、文字による創作活動に期待をかけ、何事にも大目で見逃してくれたし、力になってくれた。にもかかわらず、不義理を重ねている。
「先生の家がつぶれるなんて……」
 信じがたい。地震当初、先生の家はどうなったか、と気をもんだが、その深夜、船橋市に住む加藤雄山
(ゆうざん)が電話をかけてきた。
 ――きょうは一日じゅう電話の前にすわりっ放しだったぜ。てんで掛からないんだよ。
 ――パンク状態だから、外からは掛けないでくれ、とテレビではいってるね。
 ――加古川の松尾卓郎の家は無事だとさ。加古川あたりは、何とか持っているらしい。
 ――神戸の西だから、外れているのかね。
 ――中林の家も藤井のマンションも大丈夫だったそうだ。
 西宮市の前教育長の中林盛久の家は甲山
(かぶとやま)ちかくにあり、岩盤が硬く、倒壊をまぬがれた、という。兼常教授の弟子である画家藤井昭二の家は、六甲山ケーブルの乗り場近くにあり、神戸市街から大阪湾が一望できる場所で、このあたりも岩盤は硬い、という。すさまじい被害となった長田区・中央区・東灘区・芦屋市・西宮市の海岸寄りの埋立地とは違うところの差異が出ていた。ならば、歴史上有名な須磨区の一の谷の兼常教授宅は、あまり揺れてもいないのではないか、と想像し、安心していた。
「娘の家に行ったが、ここもだいぶこわれていて、何日もいられない。姫路から岡山に出て、そこから飛行機で羽田に来たんだよ」
 大阪から神戸にかけて、山陽新幹線・阪急電車・日本鉄道・阪神電車と、交通機関は豊かだが、それらがすべて西宮・神戸で崩壊した。東に来るのに、はるばると西の岡山へ行かねばならないとは、むごい。
「加藤雄山君にも連絡します」
「二人に会うのを楽しみにしているよ」
 教授の声は、弾んでいた。

「父から代わりました」と女の声になった。「父はちょっと興奮していまして……」
「先生は、おいくつでしたかね」
 十何年か前、東京文化会館で教授に会ったおり、七十八歳といっていた。その時、朝鮮半島での中学時代の同級生二人と顔を合わせ、筝曲の宮城道雄、歌謡曲の古賀政男と机を並べていたという回顧談になり、驚いた。古賀政男が亡くなって一年後か二年後だったが、あれから何年なのか。
「いま九十一歳です。もうすぐ九十二歳になります」
「もうそんなになりますか。声を聞いているとそんな歳とは思えませんね」
「すこぶる健康で、元気です」
「先生ひとりで来られたのですか」
「主人が迎えに行きました」
 この日、一月二十四日は地震から一週間になる、と柱に掛けたカレンダーに目を向けた。同じ火曜日になる。鎌倉の住所と電話番号を聞き、書きとめた。
 加藤雄山は東京放送につとめていたが、その子会社の役員となり、退職して間もなかった。日曜休日でも一か所に留まっていることのできない彼のこと、在宅しているかどうか気になったが、すぐ電話口に出てきた。
「おう、おめえか、元気か」と豪放にいう。
 彼は教員養成課程を経ながら、ぜんぜんその方向には進まず、私より早く東京に出て、文学座の養成所にはいった。役者になるのかと目をむいたが、あるいは彼の容貌性格は特異な俳優に向いているかもしれない、と思った。
「おれは神戸の兼常先生の家に何回も電話をかけたぜ。けど、つながらなかったな」
「家がつぶれて電話線も切れたんじゃないのかね」
「そうかもしれん。でも先生の家は平気だと思っていたね。山手のとっても眺めのいいところだからね」
 彼は何回か教授宅を訪ねている。テレビ局の仕事で関西に行くと、時間が許すかぎり教授宅に寄っていた。私は一の谷の教授宅を知らない。
「すぐ先生に電話をするよ。いろいろと聞いてみる。なるべく早いうちに、いっしょに行こう。おれは寺に行く用事もあるし」
 寺とは鎌倉の長谷寺をさしている。加藤雄山はその名が示すとおり、僧侶の子だった。父は寺院を持たない身分だったので、雄山に継ぐ寺はない。
「先生の息子は藤沢ではなかったかね」
「そりゃ十年以上も前の話だろ。鎌倉の梶原なら想像がつく。たしか野村総合研究所というのがあるあたりだよ」
 他人の世話に労を惜しまない雄山が、私にはありがたい。一か月と少し前に、上室性頻拍、心房粗動ということで、横浜赤十字病院において最新技術による高度でそれだけ危険な手術を受けた私は、心臓を病むと無気力になる、といわれているとおり、自分自身がひどく頼りなかった。よろしくたのむ、といって電話を切った。(以下略)

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 表題作の冒頭部分を紹介してみました。このあと阪神淡路大震災に遭った老教授を見舞いがてら、30数年ぶりで鎌倉を訪ねます。そこで長谷寺の住職の肖像画を老教授に依頼して、震災後の励みにしてもらおうと「私」は思いつきます。住職も老教授も快諾して、「緋の衣」を着用したところから表題の由来が判るわけですが、学生時代の同級生や恩師との交流が淡々と描かれていて好感が持てる作品です。
 他の「日航那須高原保養所」は、勤めていた日航整備工場を停年退職した義弟親子と「私」夫婦の、保養所宿泊に絡めた物語。義弟という人間がよく書けていると思いました。「炎える夏の日」は雀蜂の巣が出現した「私」の家の騒動と、刺された「私」の心理が作家らしい冷静な眼で描かれていると思います。「カテーテル・アブレーション」は「上室性頻拍、心房粗動」という心臓病の手術を、患者の「私」から見た作品ですが、患者の心理は言うに及ばず医師の心理、家族の心理まで描ききっていると思いました。いずれも「私」を主人公とした私小説と言えましょうが、素材の新鮮さもあってか、書かれて10年以上の歳月を感じさせないものでした。お薦めの1冊です。



   
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