きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.2.26 河津町・河津桜




2008.3.16(日)


 特に予定のない日曜日。終日、いただいた本を読んで過ごしました。



文芸誌『扣の帳』19号
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2008.3.10 神奈川県小田原市
青木良一氏編集・扣の帳刊行会発行 500円

●目次● ◇表紙  木下泰徳
     ◇カット 木下泰徳/宮本佳子/秋山真佐子
小田原の文学発掘(13) 白秋−精神の底流――対談・岸 達志/三津木國輝 2
ややもすれば輪廻の業――東 好一 26
仙台城と義姫――今川徳子 29
足柄周辺の碑文を探る(3) 寺子屋師匠の供養塔−筆子塚――平賀康雄 34
カルメン日記――桃山おふく 44
足柄を散策する(10) 文学遺跡を尋ねて−我が産土の町・小田原(6)――杉山博久 60
夢二の「宵待草」を味わう!――石口健次郎 58
雪――宮本佳子 61
来大連的信(大連からの便り)(5)――水谷紀之 62
湖北「観音の里」を旅して(二)――田中 豊 64
季語雑感−遊糸と「いとど」について――佐宗欣二 69
菊花紋奇譚(第三回)――岩越昌三 73
編集後記――84
 ギャラリー情報(新九郎)――83
 ギャラリー情報(箱根口門)――52



 来大連的信(大連からの便り)(5)/水谷紀之

 大連の冬は、中国東北部の他の都市に比べると、極端に寒くはありません。一月中旬から二月初旬にかけて、気温が最も低くなるものの、一○度以下になる日は多くはありません。気温だけを見ますと、私が住んでいました札幌とさほど変わりません。違いは大連では雪がほとんど降らないことです。そんな大連でウインタースポーツを楽しみました。

 まずは定番のスキーです。大連には、スキーのゲレンデが四、五ヶ所あります。全て人工雪です。そのひとつ、近郊にあるスキー場に出かけました。リフトが二本、コースが四つの、小規模なスキー場です。コースには初級、中級、上級とありますが、中級が日本で言うところの初級レベルでした。北海道から来た私にとって、雪のない大連は寂しく感じていたものですから、雪を見るとじっとしていられません。スキーを履いて、早速リフトに乗りました。
 リフトに乗っていると、日本のスキー場と同じように音楽が聞こえてきます。一瞬、ここは日本かと錯覚してしまいました。雪質はカリカリで、コースも短く、ちょっと物足りませんが、中国でスキーができるというだけでもありがたいことです。
 周りを見ますと、滑りが上手な人は少なく文字通り、七転八倒しながら滑っている人が多い。市内にスキー用品店を見ることは少なく、まだまだ普及していないのが現状のようです。ましてやスノーボードなどは、ほとんど見かけませんでした。

 大連で楽しむことのできるもうひとつのスポーツはスケートです。自宅から近いところに、堤防で固められた川がありまして、水量はさほど多くはなく、冬になると凍結します。そこに誰が作ったのか、スケートリンクができていまして、とにかく一度滑ってみよう、と行ってみました。
 氷上では橇(ストックを突きながら前に進むもの)やスケート靴を貸し出しているおじさんがいました。スケート靴は一回十元(約百六十円)で借りることができました。靴を履いてみて、恐る恐る立ち上がります。実は、スケート靴を履くのは三十年ぶり。しかも当時、全く滑れなかったことで嫌になってしまい、それ以来スケートとは縁がありませんでした。
 案の定、まるで生まれたての小鹿のように、ヨタヨタと滑り出します。そんな私の横を、自前のスケート靴を履いた近所のお年寄りが、スイスイと追い抜いて行きます。その姿はまるで清水宏保です。私も気持ちだけは荒川静香だったのですが…。
 そんなヨタヨタ滑りですが、滑ってみるとこれがまた楽しい。リンクを何周かしているうちに、少しずつ形になってきて、これは自分で靴を買うしかないなぁ、と調子に乗ってしまいました。

 十二月にハルビンを訪れたときには、氷結した松花江で、同じようにスケートや橇で遊んでいる人をたくさん見ました。犬橇もありました!
 私の滑った川以外に、大連市内には池のある大きな公園があり、そこでもスケートを楽しむことができます。ただし、毎年転落事故があるようで、中国人の知り合いは、立春を過ぎたらもう危険だ、と言っていました。
 昨年は長春で冬季アジア大会が行われ、来年はハルビンでユニバーシアード冬季大会が開催される予定です。中国では今後、ますますウインタースポーツが盛んになるのではないでしょうか。

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 連載の「来大連的信(大連からの便り)」を紹介してみました。「気温が最も低くなるものの、一○度以下になる日は多くはありません」という気候に驚いてしまいました。マイナス10度を超えるのではないかという先入観を持っていましたから、「札幌とさほど変わ」らないことに緯度を考えていますが、これは実際に住んでいる人でなければ言えない言葉でしょう。
 その大連でのスキーやスケート、人々の遊びは国の違いを越えるのだなと感慨を持ちます。中国のウインタースポーツ、盛んになるといいですね。



季刊・詩の雑誌『鮫』113号
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2008.3.10 東京都千代田区 鮫の会発行
500円

<目次>
鮫の座 いわたにあきら 表紙裏
[作品]
樹のつぶやき 井崎外枝子 2        花火 原田麗子 5
なぜ なぜなの 前田美智子 8       くずれる家は崩れるままに 大河原巌 10
伝説 瓜生幸三郎 12            家内安全火の用心 芳賀稔幸 14
健康診断結果報告書 芳賀稔幸 16      ガラスの日々 仁科龍 18
ジーナ6の魚 原田道子 21
[詩書案内]
杉谷昭人・詩集『霊山 OYAMA』高橋次夫 24  吉田義昭・詩集『北半球』芳賀章内 24
北原千代・詩集『スピリトウス』原田道子 24
[作品]
或る女の歪な風景 飯島研一 26       夜陰の正座 高橋次夫 28
廊下 松浦成友 30             やまい 松浦成友 31
いつか 死んだら いわたにあきら 35    通りゃんせ 岸本マチ子 36
干満の搖れのような 芳賀章内 40
[謝肉祭]
読みたい・む 前田美智子 45        日本語の混乱 芳賀章内 44
[詩誌探訪] 原田道子 45
編集後記   表紙・馬面俊之



 くずれる家は崩れるままに/大河原 巌

この家の庭一面に
鳳仙花
はじけて狂い咲く

家系という神話は
内在する家族のつながりを示して
家の跡目を相続させることで
封建社会での家格をきめるもの
家の氏族が
地域に階層の権力構造をうみだす

鳳仙花
霜踏むころに咲くか
記憶の庭の一面に

家にまつわる神話は
家族とともに棄ててきた
一世代一家族
家族のつながりの数も限られた
もう神話には戻れない
新しい少子化神話の行方を見る

はじけて咲くか
鳳仙花
落葉ふりつむ家の庭一面に

家系という神話を棄てた罪科
くずれる家は崩れるままに血縁で贖いましょう
墓は永代
棄ててきた神話の家系には戻れない
鳳仙花の狂い咲く
この庭のある記憶の家に住みかえましょうか

 現在はたしかに「家系という神話」、「家にまつわる神話」は「棄ててきた」時代だと思います。特に都市部では顕著でしょう。そして今は「新しい少子化神話の行方を見る」時代。この慧眼は見事です。しかし作者は、未来を見据える前にもう一度「家系という神話を棄てた罪科」を考え、「くずれる家は崩れるままに血縁で贖いましょう」と説きます。
 「鳳仙花」を「くずれる家」の象徴として配置した構成も見事だと思いました。時季になれば「はじけて狂い咲く」鳳仙花は、家そのものなのかと改めて気付かされました。



万里小路譲氏論集『言語という小宇宙』
−E.E.カミングスの創造的企投−
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2007.12.20 東北公益文科大学総合研究論集第13号抜刷 非売品

<目次>
言語という小宇宙 41
原文の詩篇と訳文について 62
注 62
参考文献 62



 世界があるという一事が神秘である。E.E.カミングズ
Edward Estlin Cummings(1894−1962)による統語法(syntax)は、未知なる世界を構築する。句や節のまとまりあるいはまとまりのなさは、語と語の思いもかけぬ連結や乖離を導きだし、語と語の連続性ないしは非連続性が見知らぬ統語法を行使するにいたる。たとえば、S(主語)+X(述語動詞)+O(目的語)という規則性を内包するふたつの文――John likes Mary.Mary likes John.は、互いに異なる意味を持つことを読み手は知っている。主語・述語動詞・目的語のありかは語順(word order)によって伝えられる文法のうちにあるが、主語・目的語・補語それに述語動詞の存在を突きとめることが難しい作品もまた存在する。カミングズの詩篇には語順という制約が取り払われてあるものが多いゆえ、日本語とは異なり助詞が存在しない英語にあっては統語すべき語群を見極めることは困難である。文法規則が既成のものではないのであれば、あるいは規則性が新たに形成されているのだとすれば、既成の文法概念を抱いている読み手は路頭に迷う。それでもなお読み解こうとする営為は読み手を未踏の領域へと連れて行くだろう。語と語の連結の曖昧さは、述語動詞のとりわけ他動詞と目される語の目的語を見失わせ、自動詞であるかもしれない余地を残しつづけながら、述語動詞それ自体として成立する可能性を薄めていく。したがって、詩篇の内在する規則性は読み手の気分に作用されるものとなり、確定される意味は存在しないように思われる。こうして、視覚詩(visual poetry)においては、意味からの解放が志向される意味論(semantics)が巧まずして意図されているにちがいない。世界がいまここにこうしてあることそれ自体がつねに意味を超えているように、形象詩(shape poetry)は超えた意味の彼方に新たな意味を生成している。

    6

    nw
    O
    h
    S
   LoW
    h
 myGODye
    ss

(from Late Poems V)

 最後の2行は台座のように見え、上の6行が仏像にも見えてくる。受け留め手の視覚における主観的な把握は、自由な世界を構築する。時間が経過すれば、見える像は微妙にあるいはまったく違っているにちがいない。私たちの実在がつねにいまここにあるものから変容するように、世界もまたつねに変容を遂げている。各行がセンタリングされており、中央を軸として左右対称にあるこの像は、しかしながら、アルファベットで構成されている。小文字の群と大文字の群は、それぞれ左右対称に位置している。

 何ゆえに絵の具や物体ではなく文字で構成されているのかという問いが湧き起こるのは、この文字の連鎖に統語法らしきものが働いているのかどうかという疑問ゆえにである。文(
sentence)の構文化はもとより、節(clause)や句(phrase)の構成が不明である。そして、それより細かな単位である語(word)の所在すら明瞭とは言い難い。分断される語のありようと、通常の文法における大文字化(capitalization)には当てはまらない大文字の出現は、意味論を遠く彼方へと放り投げる。

 きっちりと相称に据えられた語群からは、しかしながら、いろいろな語が視えてくる。アルファベットは、前から後へ、後ろから前へ、斜め前から斜め後ろへ、斜め後ろから斜め前へ、と繋がりうる。そうして見て取れるのは、次のような語である――
no,now,show,how,oh,slow,low,my,god,dye,so,yesno yes へ、yes no へと回帰するような世界にあって、隠れたキーワードは snow(雪)であるように思われる。GOD を除けば、これが唯一の内容語でもあるからだ。詩集 95 Poems の作品41などがそうであるように、snow(雪)のなかに now(現在)が内包されている(1)

 台座の中央に嵌めこまれた
GOD(神)は、大文字であり分断されていないただひとつの内容語(content word)であるゆえに、ひときわ目に眩しい。「神」は、しかしながら、Oh my GOD のうちに統語されており、「いやはや/おやまあ」という困惑・驚きのうちに捉えられているとも考えられる。この内在する意味の二重性は、台座における yes の肯定が冒頭2行における no の否定へと連関するありようにも認められる。また、順接的な意味の二重性では、中央の4・5行目に位置する S/Low に現れる Slow Low というふたつの語に内在している。それらはともにカミングズの詩群を基調する stillness(静寂)へと通じており、熟成する内省の世界が予感される。降雪の停止するありようがありえないように、停止する今もまたない。世界は降る雪の空間にあると同時に、つねに次へと移行する今という時間のうちにある。

【注】(1)門脇道雄「美、あるいは規範からの飛翔−詩人E.E.カミングズの言語世界」『東北公益文科大学総合研究論集第10号』東北公益文科大学、2006年。pp.45−46

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 E.E.カミングズの研究論文です。以前にも拙HPで紹介した論文の続編です。ここでは今回の冒頭の部分を紹介してみました。詩篇最初の「6」は作品6という意味です。それにしても「最後の2行は台座のように見え、上の6行が仏像にも見えてくる」というのは面白い見方ですね。そのあとの「
no,now,show,how,oh,slow,low,my,god,dye,so,yes。」はこの作品をよく捉えた発想ではないかと思います。まさに「私たちの実在がつねにいまここにあるものから変容するように、世界もまたつねに変容を遂げている」ことを読み取ったものと云えましょう。E.E.カミングズについてはまったく無知でしたので、多くを学ばせていただきました。



   
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