きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.2.26 河津町・河津桜




2008.3.22(土)


 特に外出予定のない日。終日いただいた本を読んで過ごしました。



南川隆雄氏詩集『火喰鳥との遭遇』
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2007.5.10 東京都千代田区 花神社刊 2500円+税

<目次>
 T
水牛 8                  天問 11
旅の半ばに 14               鳶 18
母との散歩 22               麦踏み 25
電車の旅 29                墓参の午後 32
夏に遇うひと 35              壕を掘る人 38
トーチカ 42                傷の顛末 46
湖 49
 U
黒い鳥あむぜる 54             黒い鳥あむぜるの憂愁 58
迷鳥あむぜる 61              鷭と大鷭 64
よたかの飛翔 68              霧のなかの隣町 72
ふくろうのいた寺 76            運河 81
ただ見下ろすだけの公園 84         歩く病 88
天使の居場所 91              年寄り猫 96
窓 99
 V
火喰鳥との遭遇 104             バンジージャンプ 112
ローズガーデンのワニ 119          ローズガーデンの虎 123
朝飯求めてヤッファ通り 127         ベツレヘム半日コース 134
無憂宮を抜ける 141
あとがき 149



 火喰鳥との遭遇

この原生林は赤道直下からかなり外れるが 熱帯多雨林の植生が息苦しいほどに圧縮されている。ぼくたちは空中舟に乗っていわば密林の背中の毛並みだけを眺めて線状に動き それでも底知れない植物の生命力に嘆息する。光合成する生き物の独裁に怖れをなしてここには空飛ぶ鳥類を上回る大型動物が近寄ることはない。背毛の盛り上がりが禍々しいと映るのは ひ弱な動物側の僻目
(ひがめ)だろう。

息潜めじわりと成長する植物群を眼下にして 鋼索で吊した舟で半時間ほども行くと 誰しも尿意を催し 気流による揺れから一時逃れたくなる。と よくしたもので小高い所に中継駅が現れる。同属の体臭のまつわる駅の周りには ぼくたち人間と植物群が互いに干渉し合わない程度の板敷きの道が設えてある。乗客たちはこの自然観察道と称する板の上をそろりと一巡りして 密林の毛並みの 毛の数本に触れる機会を得る。

この地の名物 青い大柄の蝶が誘うかのように板敷きの道をすいと横切った。市庁舎内の展示室で見てきた標本には「ゆりしず」とあった。いずれこれも英国人の命名だろう。ぼくの頭にそのとき 賀状が来るだけでもう二十年も会っていない蝶好きの同級生の顔がちらと浮かんだ。あやつもそろそろ定年のはずだが どうしているだろう。ぼくは 遣い古した自動写真機を望遠状態にしながら 思わず両足を板敷きから外してしまった。これは不運か幸運か。霞むような湿気と背丈を越す下草が視界を遮る。喬木の枝には宿り木が陣取り 宿主とも寄生者とも見分けのつかない気根が垂れ下がって湿気を吸う。

振り向いても もう人の気配は目に入らず 同属の体臭は一欠けらも来ない。しかと見たはずの青い「ゆりしず」は幻か それとも隣り合う異界からの伝令か。これ以上立場を不利にしないため ぼくは歩き回らないことにした。それなりの冷静さで目前の光景をじっと観察する。そう 空飛ぶ鳥が樹の股に糞をすると 未消化の種子が糞を栄養にして芽を出し やがて宿主にまとわり着いて宿り木になる。

葉緑体の稀薄な寄生植物の赤味を帯びた葉と茜色の花。目前のその宿り木に背を伸ばし首を突っ込んでいる鳥がいる。この姿を樹間に垣間見て 昔の人はこの鳥を火喰鳥と呼んだのだろう。鳥が首をもたげた。背の汗が冷めるのを感じながら ぼくは動かず眼を凝らす。背丈は人の子供より高いが大人より低い。紫とも緑とも見える冠。赤い肉垂が 飲み込んだ火の食道を通る様を思わせる。首を傾けるごとにむき出しの頭部が色変わりする。胴は黒い剛毛に覆われ 密生した潅木を擦り抜けるのに適応している。羽根は退化したわけではない。渦巻く海流を眼下に海峡をこちら側に飛び越えたあと 望んで無翼鳥になったのだ。

「かそわり」。この土地の人たちの呼び方でぼくは思わず鳥の名を低く口にした。その声に応えるかのように鳥はこちらを見る。首をいくらか傾げ 興味深げに瞬く。と 巨樹の陰から一回り小柄な火喰鳥が現れた。雌鳥に違いない。まとわりつくように雛鳥二羽。猪の瓜坊そっくりの縞模様がある。不本意にもぼくは火喰鳥一家の居間に断わりなく足踏み入れてしまったのだ。二十歳少し過ぎたころ「孔雀の独白」と題した檻の中の鳥夫婦の生活を散文詩にしたことがあるが いま目の前にある自分の立場に引き較べれば あんなものは絵空事もいいところ。汗はすっかり引き 何やら寒くなってきた。

可愛い盛りの瓜坊ども二羽が向い合ってふざけはじめた。と見えたが そこは鳥の巣だった。まだ生々しい羊歯の緑葉を敷き詰めた窪みに これも二個の濃緑色の卵がおさまっている。これを瓜坊どもがいやに逞しい三本指の足で踏みつけ また嘴でつついている。いずれ生まれる弟妹よりも優位に立とうと 卵を痛めつけているようにも見える。しかし そうとは限らない。雌鳥が雛鳥を咎め立てする様子がまるでない。ならばこの巣は 縄張りを侵した他の「かそわり」の仕業なのだ。

雛鳥の悪戯は止まず そのうち二個の卵の殻はひび割れ 濃緑の地肌に麝香瓜そっくりの白い網目が細かく拡がる。雛鳥が可愛さに似ぬ太い三本指の足で踏みつけると 卵はいくらか歪になる。が 中身に張りがあり 殻の下の薄膜が丈夫なのだろう 蛮行を止めて雛鳥が母鳥のもとに歩み行くや 卵は形を整え 白い網目もかき消えて もとの無傷の形に戻ってしまう。雛鳥二羽はこれに気づき また悪戯を繰り返す。しかし卵は致命傷を被らず復元する。この種族にはわずかながら再生の霊力が伝わっているのだろう。親鳥たちはそれを分かっていて知らない顔をしているわけだ。

「かそわり」。こんどはいくらか大きめの声で言ってみた。すると雄鳥がこちらを正視した。多少は意味が解るらしい。さらに奇妙なことに この地の先住民の遣う英語とくぐもった鳥類の呟きとの中間ほどの声が 雄鳥の肉垂の辺りから伝わってきた。ぼくには聞きとれた ただ今のことは互いに早く忘れよう と。そして雄鳥は首を右に傾げた。そうか そちらに人間どもの歩む道があるのだ。教えられなければ いつまでも道に並行にそれを探し彷徨うところだった。

「ゆりしず」が横切った辺り それとは逆方向からぼくは板敷きの道に戻った。空中舟に乗った。安全圏に入ったせいか 贅沢な悔恨が頭を掠める。応対の仕方によっては あの邂逅でもっと自分のことを知り得たかもしれないと。しかし もう過ぎたことだ 忘れろ。見ろ 尿意から解放された同乗者たちの表情は明るい。お前も明るく振舞うのだ と自分に言い聞かせる。そうだ 書いて忘れろ とよく言うではないか。

理屈の合わない方角に青みの強い虹が懸かっている。眼下の植物群は息苦しいほどに圧縮されて底が見えない。その密林の奥深い所から 鋼鉄の軋みとも猿人の悲鳴ともとれる濁った鳴き声が二度ほど響いた。ぼくの背にまた汗が吹き出してきた。空中舟を吊す鋼索の先は 過飽和の湿気のつくる真昼の霧の中に消えている。

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 2年ぶりの第5詩集になるようです。大半を占める散文詩を特徴とする詩集ですが、その代表的な作品が表題作の「火喰鳥との遭遇」だろうと思います。この作品は「行数の多いこともあって詩誌に載せる機会を逸している」(あとがき)そうですから、その意味もあって、文字数の制約を受けないHTMLの特性を生かして全行を紹介してみました。
 「熱帯多雨林」での「多少は意味が解るらしい」「火喰鳥との遭遇」。ここでは「わずかながら再生の霊力が伝わっている」鳥の存在を示すことで現代文明を逆に照射しているように思います。「書いて忘れろ」という詩語も逆説として受け止めています。読み終わって、この非日常性の持つ不思議な感覚に捉われていますが、それこそがこの詩の醍醐味と云えましょう。

 なお、本文は30字改行となっていますが、ブラウザでの読み易さを考慮して、各連内はベタとしてあります。同様の理由からルビは( )内としました。合わせてご了承ください。



隔月刊詩誌RIVIERE97号
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2008.3.15 堺市南区 横田英子氏発行 500円

<目次>
悟りというほどではないが 石村勇二(4)  酒         蘆野つづみ(6)
蹴っぱれ、イッちゃん(2)  清水一郎(8)  城之崎の旅      平野裕子(10)
ふうせんかずら・やーめた 山下俊子(12)  ボクササイズの時間  横田英子(14)
涙をながして       松本 映(16)  深海魚W       藤本 肇(18)
河            泉本真里(20)
RIVIERE/せせらぎ     (24)〜(27)
 永井ますみ・石村勇二・横田英子・河井洋
早春のひもじさ      釣部与志(28)  田舎の風景      後 恵子(30)
あずき       ますおかやよい(32)  カレーブックの読み方 内藤文雄(34)
愛と希望の国(『少年』2) 河井 洋(36)  立ち往生      永井ますみ(38)
蝋梅の花         戸田和樹(40)
受贈誌一覧            (42)  同人住所録          (43)
編集ノート            (44)  表紙写真・TORU/詩・永井ますみ



 酒/蘆野つづみ

この頬の傷 殴られたん ちゃうで 呑んで ぶっ倒れたんやで
こんでもな いろいろ 悩みが あるんや そやから 呑まんと
やれんのや
キイツケテ クダサイ

血吐いて 病院に入ってな 二ケ月 一滴も 呑まんかったんで
二ケ月やで 二ケ月 すごいやろ ほんまやで
ボク ウタガッテマセンヨ

そやけどな 出てきたら あかんがな よおよお 久しぶりやで
退院の 祝いや 一杯いこか いうてな 友だちがな 呑ませて
くれるんや そら 断れんがな
ソレハ ツライトコデスネ

ほんでな いつの間にか もと通りやがな ほんまに 悩みやで
どないしたら 呑まんと おれるんやろ
ソレハ ナンモンデスネ

そやろ 仕事は 若い奴に どつかれるし ほんま たまらんで
な 分かるやろ そうや 明日ゆっくり わしの話 聞いてんか
わしの顔 よう覚えとき 忘れたら あかんで
ハイハイ ワスレマセン

おお そやそや いっそのこと 今晩 いっしょに 寝たらええ
兄ちゃん 抱いて 寝たるがな 今晩は 冷えるで
ボク オトコハ ケッコウデス

公園の 焚き火のそばで ワンカップをあおる おっさんの目が
笑っている 僕も 遠い満月の 孤独の隣りで 浮かれている

 「おっさん」と「ボク」との会話体で綴られた作品ですが、関西弁が奏功していると思います。関東弁ではこの軽妙さを出せないでしょうね。話題が酒ということも一役買っています。それにしても「退院の 祝いや 一杯いこか」の辛さは、私も近い経験があるだけによく判ります。おそらく作者にも似たようなことがあったのかもしれません。作品に作者は登場せず、観察者・記述者として徹していますけど、そう読み取れます。その面でも客観性があって好ましい作品と思いました。



エッセイ誌『交差点』8号
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2008.3.5 神戸市灘区 直原弘道氏発行
非売品

<目次>
路地裏のサプライズ/木崎千代子/1     お使い/嶌 茂子/4
詩が生まれる日/渡辺信雄/6        昭和初年の新興住宅地点描/本宮八重子/8
恩返し/下野けい子/15           お庭でバーベキュー/永井ますみ/18
ぐい呑みひとつ/永井ますみ/20       穴ぼこ生還記/田中憲子/22
笑いばなし/辻下和美/25          母を見舞う/直原弘道/26
表紙挿画・カット 嶌 茂子・石井寛治



 笑いばなし/辻下和美

 「あんな針金に味噌を塗ったような娘と、結婚せんでもええやないか」
 初めて夫の実家にあいさつに行った時のこと、ミニスカート姿の私を見て義母が物陰で夫に言ったそうだ。さらに「かげうらのとうきびのような」ともつけ加えたという。
 「針金に味噌」は、いかにも肉付きの薄い様子が目に浮かぶ。「かげうらのとうきび」がいかなるものかわからないが、日蔭で育ったひょろりとしたものの例えだろう。
 結婚して婚家にも慣れた頃、義母にこの話をしたら大笑いをして、「ないしょの話やったのに、何でも嫁さんに言うてしまうあの子はアホやね」と何ともさばさばしたものだった。私もつられて笑い、以後「針金に味噌」は、四十年近い縁となる嫁姑の共通の笑い話になった。

 長い暑い夏のあと、木犀の香りを連れてようやく秋が訪れた十月八日早朝、義母は八十九歳で亡くなった。軽い肺の炎症で一週間程入院していたが、前日見舞いに行った折にはベッドに座りずっと話をしていたのに、思いがけない別れとなった。
 その日、酸素のチューブが鼻から外れるし、なかなか痰が切れないと義母はイライラしていた。見舞いに持って行った好物の甘酒も、アルコールが入っているからと目の前で看護師にとりあげられた。それでも息子夫婦に話を聞いてもらうことが嬉しかったのだろう。病状のこと、家族のこと、昔々のはなしなどあちこちに話題が飛びながら、いつものように同じ話を何度もくり返した。背中をさする私の手が止まると、「もっと力を入れてさすらんかい」と叱る元気もあった。

 「長話は疲れるからもう帰るよ」と夫が腰を上げると、「息子等はみな並の男やけど、一番の手柄はみんなええ嫁さんを見つけてきたことや」と言った。私がおどけて、「針金に味噌塗ったような娘も、こんなに貫禄がついたしね」と言うと、「ちょっと貫禄がつきすぎたのと違うか」と切り返して笑った。鼻のチューブが斜めになったままの笑顔だった。

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 エッセイ教室のアンソロジーのようです。紹介した作品のように、昔の人は何かによく喩えて話をしていたなと思います。私の父親の譬えで覚えているのは生木を裂くような≠ニいう言葉です。まあ、月並みな譬えですが、この作品の「義母」は違います。「針金に味噌を塗ったような娘」、「かげうらのとうきびのような」には恐れ入りました。例え話は誇張させることが鍵になりますけど、これは借り物ではなく独創的なものなのでしょう。
 それにしてもこの「義母」さん、よく出来た人ですね。「さばさばした」性格が伝わってきます。この作品は短い文章の中に「義母」という人間をよく捉えた好エッセイだと思いました。



   
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