きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.3.12 湯河原町・幕山公園 |
2008.4.18(金)
伊豆の下田は今日も強風と時折りの雨模様。最南端の石廊崎まで足を延ばしてみました。岬巡りの観光船がありますが、驚いたことに運行していました。おもしろそうなので乗ってみましたけど、けっこう波が荒くて怖いほどでした。
石廊崎は何度か訪れていますが、海から眺めるというのは初めてです。奇岩が多く、滝もあるんですね。小さな船は岩礁ギリギリまで寄って、おいおい、大丈夫かよ、と思うほどでしたけど、海の男には波高2mなんて波のうちではないんでしょう。予定通りのコースだったらしく、予定通りの時間で周遊していました。素人には外海の波は身震いするほどでしたが…。昔、ヨットで遊んでいた頃でしたら、絶対に海に出ない波です。でも、こんな機会もめったにないことと思って、運を天に、じゃない、プロに任せて楽しませてもらいました。
○秦恒平氏著『湖の本』エッセイ43 酒が好き・花が好き |
2008.4.15
東京都西東京市 「湖(うみ)の本」版元刊 2300円 |
<目次>
酒が好き したみ酒 古典の味わい…5
世の中はちろりに過ぐる・6 光源氏のうらみ酒・11 酒壺へ奔った皇女の恋・17 だます工面の酒はイヤ・22 雪もこんこん花もさけさけ・27 能の舞台に夢みる酒・35 めでたく興言利口の酒盛り・40 泣いて笑って言祝ぐ酒・46 いい女のいい酒いい男・51 お酒のあとの楽しみは・56 今も昔も酒の上の悲喜劇・60 おのづから捨てがたきは酒・67
花が好き はなの愛(めで) 草木の言祝(ことほ)ぎ…73
夕顔・74 萩・77 龍胆・80 木犀・83 石蕗・85 茶の花・88 藪柑子・91 枇杷の花・94 八手・97 水仙・99 椿・102 梅・105 蕗の薹・108 連翹・111 菫・113 牡丹・116 鈴蘭・119 薔薇・121 燕子花・124 紫陽花・126 蛍袋・129 百合・132 朝顔135 芙蓉・137 水引・140 葛の花・142 菊・145 ほととぎす・148 山茶花・151 臘梅・154
私語の刻…157 湖(うみ)の本の事…165
<表紙> 装画 城 景都/篆刻 井口哲郎/装幀 堤 ケ子
世のなかはちろりに過ぐる
「情緒」ということばを、ほとんど聴かなくなった。「いい趣味」という批評も実質をうしない、あたら軽蔑さえされている。情緒的といい趣味的ともいうのは、昨今でははっきりと批判ないし非難の的になっている。微温的で、つまりは手ぬるいというのだろう。
このところ、ぬるま湯にながく入って気がねのない本を読むのを、いい趣味とは言わないが情緒的な自由時間にしている。そこで酒はやらないが、やりたければやる気は、ある。どんな本をッて。ちょっと、こんな場面をご披露してみよう。
あの晩――、敦子の連れが、編集者にエッセイストを兼ねたS女史が、「ごめんごめん」の声一つのこしてよその文士一団に、銀座か新宿か別席へ抜かれてしまったのを願ってもない幸便に、幸田は宮道(みやじ)敦子を会場からさほど遠くない、築地の「小網」という路地のおくの割烹の小店へ連れて行った。思ったとおりに敦子はなかなか酒上手だったし、話ははずんで、それもおおかた世離れた平安京の昔が話題だった。思えば敦子の方でそのように仕向けていた。幸田の方から敦子が商いの筆や墨や紙のはなしへ誘っても、それもいつのまにかまた三筆・三跡といった話題になり、敦子はためらいなく、道風の書が好きですと笑顔だった。そして、お魚も好きでお酒も…と言いかけて、つと畏まると幸田に盃を持たせ、
「にしざ、ひ、も、お…」
と笑みを含んで、手つきよく酒をついでくれた。
「…有難う…」
幸田はぐッと呑みほし、ためらいのない声を張って、「きづかさ、やよせさ…」と敦子の目のまえへ盃をさし返した。ちいさな会釈があった――。
あれ以来、くりかえし逢ってきた。京都でも逢った。緑燃える真夏の嵯峨の奥で逢った。すさまじい風の一夜を、水かさます宇治の川宿で鳴る瀬の音に身を揺られながら明かしたこともあった。
「想ひざしに、させよや、さかづき」という小歌が、二人を、時をおかず深い闇へ誘った。
女は、京に名代(なだい)の「筆屋」副社長で、四十まえとある。ペンクラブの例会で引き合わされて初対面の二人であったとも、ある。小説の運びには首をかしげるが、うらやましや、引いてある室町小歌がいい。
きづかさやよせさにしざひもお 閑吟集
お察しのように逆さに読む。「想ひざしに、させよや、盃」となる。微妙に男女色想の絡み合った一句であって、それは、「さし」「させ」「さかづき」と頭韻をふみながら、ほとんど猥褻なほどの求愛の歌となっている。女の体は一ヶ所「容れ物」を成している。皿のように浅いのも壺のように深いのもある。盃のように微妙香潔(みみょうこうけつ)なのも、ある。その盃へ、住い酒をさせよ・さすぞと言い合っている。「さし」「させ」が、もうすこし露骨に「する」「させる」とも聞こえ、ずぶり「挿し」「挿せ」とすら聞こえる。そういう「酒」もあるのである。京は鞍馬の火祭りでは「サイレイ」「サイレウ」の掛け声が勇ましいが、「さ、入(い)れい」 「さ、入(い)りょう」という和合神秘の願念かと聞いたことがある。
ことの序でに、さっきの小説らしいものの場面をもっと追って行くと、こんどはこんな「酒」の場面があった。男幸田が五十の誕生日のようであるが、対談の仕事で出向いた先の京都で倒れ、かつがつ東京の家へ帰っで、やっと息をついたところらしい。
寿司の和可莱に頼んで住い鯛を手に入れ、身は刺身にしてもらい、頭は持って来させて、土鍋で、近江かぶらの角(かく)切りと柚子(ゆず)の香(か)とをいっぱいに添え、柚子は、妻は、幸田がことに好物の「たいかぶら」に煮ていた。
鍋の蓋をとれば、透きとおるようなかぶらと、たちこめる柚の香り。野菜に鯛の味をしませ、それでいて濃い色をつけないよう、あらかじめ二つの鍋を使って煮たという、そんな楽屋ばなしも嬉しそうにしながら、朱塗りに菊の盃に、ひとつだけよと堅く約束させて妻は富の寿を冷やで、八分めも注いでくれた。
すばらしい蕪(かぶら)だった。歯ざわりの静かさは、翡翠色した美味い水をしっとり噛みしめるみたいだ、やわらかに口の奥へ灯(ひ)がはいったみたいだ。聞けば今朝「筆屋さん」から宅急使で届きましたの、錦のお店のよと、妻は柴漬けのにおいを台所にこもらせながら華やいで返事をする。京の錦通に軒並の、生魅の麩丹もぐじの魚伊も味噌の岡田屋も、こう東京の田舎まで生き帰ってみれば、うそのように幸田にもなつかしい。
話の筋をうかがうと、どうやら千年をさかのぼる王朝の女が、昭和の男の身辺にただよい憑(よ)る物語であるらしい、が、そんな話はすべて今は措(お)こう。つまりはこれで「酒」談義なのかとお叱りをうけるかどうか、だが、わたしの思うところ、住い酒とうまい食い物とが、それと女が座を華やがせるときは、およそこんな割振りで「酒」はよろしいのである。それでも「ひとつだけよ」の「八分め」では、やはり、つらい。やるせない。ただ「富の寿」とあるのが嬉しい。冷やでよく、温めてもよろしく、まことうまい酒のひとつである。むろん米と麹とで純に磨いてある。
詩歌を材料に酒のはなしを――と「舌代(しただい)」が付けば、学のあるお方ほど、どうせ八岐大蛇(やまたのおろち)を酔わせておいて「出雲八重垣妻籠(ご)みに」だろうと来そうな気配がする。で、文学史の授業じゃあるまいにと、いきなり「想ひざしに」「さかづき」をもってみた。閑吟集はわたしのおはこである。
よのなかは ちろりに過ぐる ちろりちろり
無常迅速、頓生菩提(とんしょうぼだい)。ま、いきなりそう読むもよかろうが、「ちろり」に酒の香がかげなくては情けない。「よのなか」とは世間や社会である以前に「世の仲」つまり男女の仲をいうとは、伊勢・源氏の昔から「出来た」物言い。その好いた同士の「寝ん頃(ごろ)」な仲も、所詮は一杯の酒に爛がつく、「ちろり」が鳴りだす、ほんのそれまでの、あぁやるせない、ものはかない間柄やなぁ、ちろりちろり…、と、かく読まれてしかるべく、初手(しょて)から抹香くさく神妙になる手はない。江戸の大通(だいつう)蜀山人(しょくさんじん)もこう歌っているではないか。
世のなかはさてもせはしき酒の爛
ちろりのはかま着たり脱いだり
むろんこれには、平安末の梁塵秘抄に見える
冠者(かじゃ)は妻(め)儲けに来(き)んけるは 構へて二夜(ふたよ)は寝にけるは
三夜(みよ)といふ夜の 夜半(よなか)ばかりの暁に 袴どりして逃げにけるは
という今様(いまよう)歌も引っ掛かっていて、さてここまで迂回してもう一度「ちろりに過ぐる」へもどってみると、またひとしおの可笑しみが添う。酒と色と。これこそはスサノオの神代以来、切ってもやはり切れないようである。閑吟集には、こんなのも、ある。
上さに人の打ち被(かづ)く 練貫酒(ねりぬきざけ)の仕業かや
あちよろり こちよろよろ
腰の立たぬは あの人の故(せい)よなう
「腰の立たぬ」は「酒」のせいではない。「あの人の故よなう」の、なんたる嬉しさ。さ、そうなると、上方(かみがた)の大通与謝蕪村のこの句は、どう読むか。
腰ぬけの妻うつくしき炬燵(こたつ)かな
炬燵に入りびたりの妻を「腰ぬけの」と見立てたものと学者サマは注する。酒の気も色気もない。「想ひざし」の住い後味を想いやれずに、情緒も趣味もない。「腰ぬけ」という美しい詩句が、及び腰に泣いている。
さてさて、「酒」の場面は、なにも、「色」とばかり組み合うのではない。しかし、いずれは何かと取り合わせて「酒」は生きる。味深くも濃くもなる。詩歌にとこだわることなしに、懐かしい、いろんな場面へ参入して、紙面にゆるされる限り「酒」の香をおもしろく尋ねあるいてみようと思う。
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「酒が好き(したみ酒 古典の味わい)」は『酒』誌1993年8月号から1994年7月号までの1年間、「花が好き(はなの愛 草木の言祝ぎ)」は『サライ』誌1996年19号から1997年24号の30回に渡って連載したものだそうです。ここでは「酒が好き(したみ酒 古典の味わい)」から冒頭の1章を紹介してみました。「よのなかは ちろりに過ぐる ちろりちろり」の「『世の仲』つまり男女の仲をいう」、「『寝ん頃』な仲」などは、なるほどなぁと思ってしまいます。蜀山人の歌も与謝蕪村の句も佳いですね。特に蕪村の句には笑ってしまいました。そういえば、私にもそんな元気な頃があったな…失礼。
そんな具合にこのエッセイは続きます。ぜひお求めになって読んでみてください。著者の見識の高さに惚れ惚れしながら読み進められますが、決して固くはありません。肩の凝らない好エッセイ集です。
○詩誌『SPACE』79号 |
2008.5.1 高知県高知市 大家氏方・SPACEの会発行 非売品 |
<目次>
詩
ぜつぼうの口笛/豊原清明 2 発進/葛原りょう 4
望岡公園の桜の樹/近澤有孝 6 ビラの/中口秀樹 8
エウリュディケ/山川久三 10 春愁/さかいたもつ 12
片隅で ほか三篇/あきかわ真夕 14 こめかみにひそむ絵/かわじまさよ 22
ヤマダくん/松木俊治 24 傘/日原正彦 26
道/中上哲夫 28
§
砂浜(二)/指田 一 48 日々/内田紀久子 50
さざ波/中原繁博 52 解体新書/南原充士 54
夜 ほか二篇/秋田律子 58 五丁目電停札所/萱野笛子 64
少年/ヤマモトリツコ 66 海の町/山下千恵子 67
雲消し/弘井 正 70 窮屈な午後/大家正志 72
詩記 山崎詩織 68
エッセイ
春だから/山沖素子 30 ロブ=グリエが死んだことからあれこれ思い出したこと/大家正志 40
リレーシナリオ『SPACE・泣き声あげる』 大家正志 32・36 豊原清明 34・38
評論 連載XU『<個我意識と詩>の様相』〜日本人の自我意識と詩(12)〜/内田収省 75
編集後記・大家 94
表紙写真 移る(ヤマモトリツコ)
発進/葛原りょう
ワンタッチ傘の爆音一斉と
ぼくは、ウサギの眼を
隠そうとして、
雨の日を選んで
傘は斜め45度の 信号を渡る
痩せた、野ギツネのように
やや敏捷に
神様は
もじゃもじゃのヒゲをもぐもぐさせて
「微笑ましい光景だ」と仰り
そんなぼくを「星座に祀ってやろうか」と
ひそかにたくらんでおられる
石投げの指が晩夏に触れてをり
そうら、きた
夢は嘘くさい友人を連れてきて
あり得ない川岸で原価の下がった青春を
投げている
みっつ、よっつ、と ぴっぴっと
波紋と波紋がぶつかる前に
要らない朝に目覚めてしまう
トランプの手から凍蝶たち生まる
だから、ほら
もう、出かけましょう
たった一人で
贅沢に
俳句は自作なのでしょうか、門外漢なので大きなことは言えませんが、それぞれに場所を得た作品ではないかと思います。特に「ワンタッチ傘の爆音一斉と」が良いですね。駅の出口で一斉に開くワッタッチ傘の情景が浮かびます。詩語としては「原価の下がった青春」に惹かれました。そういえば人間も減価償却して、いずれは〇になるんだなと連想します。最終連の「たった一人で/贅沢に」も、若い人らしい「発進」の言葉だと思いました。
○詩誌『歴程』550号 |
2008.4.30 静岡県熱海市 歴程社・新藤涼子氏発行 476円+税 |
<目次>
詩
掌紋/高貝弘也 2
夢かうつつか/池井昌樹 4 幸福論/三角みづ紀 6
キリンまで/柴田恭子 9 くり返されるオレンジという出来事(夜)/詩と写真 芦田みゆき 14
江差 補遺六章/安水稔和 16
絵 岩佐なを
夢かうつつか/池井昌樹
わたしがいつもみるゆめは
いつもはたらくみせのゆめ
いつものようにせわしなく
だしたりいれたりはこんだり
ゆめのなかでもくたびれて
わたしはうちへかえります
もうあとかたもないふるさとの
もうあとかたもないはたけでは
もうあとかたもないちちが
ひとりしゃがんでいるのです
あとかたもないはずなのに
すこしやつれたようなちち
わたしにみせたことのない
ふかいためいきつきかけて
わたしはやっとめざめます
いつものあさのうちのなか
ことばすくななむすこらと
うたわないつま
ことばすくなにむかいあい
ことばすくなにおかわりし
ことばすくなにうちをでて
けさもつとめにまいります
ゆめかうつつかしらないが
ふかいためいきつきながら
「わたしがいつもみるゆめは/いつもはたらくみせのゆめ」というのは、なんだか今の日本を象徴しているようで切なくなりますね。「いつものようにせわしなく/だしたりいれたりはこんだり/ゆめのなかでもくたびれて」と来ると、これは「夢」ではなく「うつつ」だろうと思うのですが、「もうあとかたもないちち」、「ことばすくななむすこらと/うたわないつま」ですから、夢と現実のあわいだろうなと思えます。そして「ふかいためいきつきながら」「ことばすくなにうちをでて/けさもつとめにまいります」と最終部を締めるのですが、やはりリストラ・効率化で汲々としている日本の現実を見る思いです。漢字かな混じりにしないで、平仮名だけにしたところに「夢かうつつか」がよく現れていて、厳しい現実を和らげる効果もあるなと感じた作品です。
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