きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.4.28 富士・芝桜




2008.5.14(水)


  その1

 午前中は実家の父親の通院付き添いで、御殿場市内の病院に行ってきました。拙宅から実家まではクルマで20分。そこから病院までは10分。片道30分のドライブですが、途中の246号線は、この路線の中では最も急カーブの多いところで、楽しめます(^^;
 往復1時間を楽しんだあとは読書。いただいた本も楽しんで拝読しました。



一人誌『粋青』53号
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2008.5 大阪府岸和田市
後山光行氏発行 非売品

<目次>
詩 ○峠(4)
  ○至福の時間(6)
  ○漂流する朝・10(14)
スケッチ (8)(17)
エッセイ
●中 正敏詩論 孤高に自由を編み込む詩人(1)(9)
●絵筆の洗い水【29】(16)
●アメリカ出張記(2) 
Elkhart,Indiana(18)
●舞台になった石見【43】(20)
あとがき
表紙絵:95年6月 マレーシアにて「マンゴスチン」



 
    ――還暦を迎えた友に、そして私に

ふりかえり
立ち止まりながら
生きてきた人生だけれど

いつも出発点に戻り
再出発だと
常に心新しく

人生の峠を越えると
もう遠い空しか目標がない
その空からも次第に遠ざかる
下り坂

ふりかえって想い出されるのは
いつか岩陰に咲いていた
野の花と出会った感動だけでいい
前を向いて歩く

 「還暦を迎えた友に、そして私」への讃歌と採りました。たしかに「人生の峠を越えると/もう」「下り坂」なのかもしれませんが、姿勢はやはり「前を向いて歩く」ことだろうと思います。「ふりかえって想い出」すことももちろん大事ですが、「常に心新しく」していきたいものです。



詩誌『六分儀』32号
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2008.5.7 東京都大田区   800円
小柳玲子氏方・グループ<六分儀>発行

<目次>
林 立人 面(W) 1            小柳玲子 壁の中 6
樋口伸子 春はあれに乗って 8       夏目典子 ギュスターヴ・クールベ展 13
島 朝夫 余震−「古筐」より− 16      古谷鏡子 風が吹いて/手紙を書きたくて 20
小柳玲子 詩学終焉(続) 24         鶴岡善久 谷津筆記*7 落石岬の池田良二  28
表紙/林 立人



 風が吹いて/古谷鏡子

夕方かすかに風が吹いて あるいは
夜 十月の黒い風が吹いて
(なぜ十月の風は黒いのだろう
海から吹きあげてくる風
山からおりてくる風はいつも白い

風のなかを子どもたちがやってくる
走って ちりぢりに たのしげに
おとなたちは
風のなかをどこかへ消えてゆく
どこへ行ったか見とどけたものは誰もいない

からだのなかにいっぱい袋がありますね
と 医者がいう
そりゃあ人間ですもの 耳袋 胃袋 子ぶくろ 手ぶくろ 砂ぶくろ
なやみごとやおめでたいことがいっぱい詰まった頭とこころ
人間なんてからだそのものが袋みたいなものですから

袋のなかはどれもからっぽです と医者はいう
それではあの風神雷神の風神のかついでいる袋のような
いや そんなに大きくありません それに
風神さまの袋には世界をゆるがすほどの風がはいっています
すこしずつ小出しにして風神さまはたのしんでいるだけです

ほら 風のなかに笑い声がきこえるでしょう
飛びはねる子どもたちの足音
大きくなったりちいさくなったり
からだのなかの袋はそうっとしておいてください
まちがっても嘴でつついたりしないように

風がやんで
満開の桜花は灰色の空に貼りついたままうごかない
美術館通りでは山茶花の白い花がぼたぼたと落ちていた

 「からだのなかにいっぱい袋がありますね」という「医者」の発言に興味を覚えました。それ以上に「人間なんてからだそのものが袋みたいなものですから」というフレーズには驚かされます。たしかに「耳袋 胃袋 子ぶくろ」と袋ばっかりで、それらの袋を取りまとめたのが人間の身体なのかもしれません。続く「袋のなかはどれもからっぽです と医者はいう」のには思わず笑ってしまいました。私の場合は頭蓋という袋の中もからっぽなんだろうと連想したのです。
 最終連はそれまでの動の風から静の風になって、見事です。その中で「山茶花の白い花がぼたぼたと落ちていた」という動もまた見事。一枚の絵をみているような錯覚に捉われた最終連です。



詩誌『墓地』62号     
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2008.5.12 茨城県古河市 山本十四尾氏発行 非売品

<目次>
闇桜
(よざくら)/大掛史子        ささら/石下(いしおろし)典子
惜別/岩崎和子           一撮一掬/山本十四尾



 一撮一掬/山本十四尾

尾形光琳の「絵巻 花のにしき」の絵が炬燵の上にひろげられ
ている これを文章で表現せよというのが女将の教育であった
 下品にならず上品にすぎず あくまで一夜に千夜をこめた情
念で春画を言葉に表出できなければ物書きにはなれない とい
うのが口癖であった

(扇をひろげたような衣裳 それを乱れさせて 浮舟と匂宮が
和合している 長い黒髪は男の襟元から背に 左腕にからまり
 褥へとながれている 女の肌のしろさ深く 閉じた目線の艶
やかさ そして太股のあわせところの嬉游のたくましさ・・)

そのときに書いた私の文案をみて 女将の採点は厳しく これ
では女人に一撮の涌水をもたらすことはできない という返答
であった おまえさんが膝頭で一掬のつゆを涌泉させられるよ
うになったとき すばらしい文体ができる 文章もまた血で書
くもの それからしばらくして女将は他界した

いま女将の三十三回忌の法要中である。いくたびか「絵巻 花
のにしき」を文章化して来たが 実はその極みを持参してきて
いる 後刻 墓前で読みあげてみようと決めている

 難しい熟語が出てきました。「一撮一掬」という熟語の直接の意味は判りませんでしたが、「一撮」はいっさつ≠るいはひとつまみ≠ニ読み、わずかな量のこと、「一掬」はいっきく≠ニ読み、両手でひとすくいする程度の水のことだそうです。しかし「一掬」には、たとえば<一掬の涙>は両手にあふれるほどの涙と、少しの涙の両方の意味があるようです。
 合わせていっさついっきく≠ニ読み、わずかな量とあふれるほどの量、という対比で考えるか、わずかな量の強調と考えられますが、ここでは前者ではないかと思います。すなわち「これでは女人に一撮の涌水をもたらすことはできない」は、わずかな量の湧水さえ出さしめない、「おまえさんが膝頭で一掬のつゆを涌泉させられるようになったとき」は、あふれるほどのつゆを涌泉させる、と採りたいとですね。

 それを命じた「女将」、なかなかの人物だと感じました。さらに最終連で「その極み」を「墓前で読みあげてみようと決めている」「私」も、久しく見られなくなった粋な人物と受け止めています。
 なお、第1連2行目の「女将」にはおかみ=A第3連2行目の「女人」にはおなご≠フルビが振られていましたが、HTML形式では綺麗に再現できず、詩の形を壊しかねないので省略してあります。ご了承ください。



   
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