きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.4.28 富士・芝桜




2008.5.14(水)


  その2



個人詩紙『おい、おい』55号
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2008.3.6 東京都杉並区 岩本勇氏発行 非売品

<目次>
告白
元祖フリーターの伝(十二)



 元祖フリーターの伝(十二)

 今のパソコン、パソコンの時代にあって、ネット検索とメールぐらいしか出来ない私が、業務用コンピューターに関係したのは1976年のことだった。
 そういう世界と全く無縁だった私をコンピューター関連の人材派遣会社に紹介してくれたのは、以前からの知り合いKだった。四谷三丁目にあったその小さな派遣会社からKはKで、ある有名なコンピューター会社にプログラマーとして近々派遣されることになっていた。私は私で、やはりある有名な全国規模の書店のコンピューター部門にオペレーターとして派遣されることになった。とは言っても、私もKも、そして他の何人かもコンピューターに関しては全くの素人状態で入社し、派遣先でコンピューターを学習しながら仕事を億えるという、今から思うととても有り得ない状況で、そのくらい当時はのんびりしていた時代だったのだろう。データ記憶のためのディスクなどというものはまだまだ存在していず、パンチカードと呼ばれる縦横に並んだ数字に穴を開け、それを記憶用紙としていた時代である。派遣先へ出向するまでの数ケ月間は、膨大な量を必要とするその情報パンチカードを小荷物配送で御馴染みの赤帽を頼んでパンチ会社から納入先へ運搬するというような、全くのアナログ感覚で以てデジタル関係の仕事をしていたのである。つまり、戦時中ゼロ戦の試作機を工場から飛行場へ運ぶのに大八車を使っていたというのと同じ事である(確か、柳田邦男さんだったか吉村昭さんだったかの本にはそう書いてあった)。
 私は生まれて初めてのネクタイ、スーツ姿でもって毎日東中野にあった、その書店のコンピューター部門へ通うことになった。通うことになったはいいが、私は元々機械系、数字系に全く弱いニンゲンであるがゆえに、その毎日は辛いものがあった。辛いものがあるとは言っても、仕事であるからコンピューター操作を憶えなければいけない。憶えなければいけないのであるが、元々相性が悪いからなのか、いつまで経ってもコンピューターというものが把握できない。把握できないとは言っても書店側は私の派遣元に毎月一人前のオペレーターとしての使用料を支払うのである(そこから何十%かを会社はピンする)!
 私はヘトヘトだった。ヘトヘトになった私に裁が下される。こいつは使い物にならない!
 社会に出て初めて使い物にならないの印を押された私は、四谷三丁訂の会社へ帰るしかなかった。社長は渋い顔をしている。しかし、社長が渋い顔を向けるのは私だけではなかった。私と相前後して会社へ戻らされてきたKもその一人だった!
 使い物にならないの印を押された私達を待っていたのは内職のような仕事だった。当時は企業全般がコンピューター導入に切り換えの時代であり、私達はある地方の新聞社のコンピューターに入力する基本文字の作成に携わった。携わったと言えば聞こえはいいがパンチカード同様に一枚の紙縦横にずらりと並んだ数字を使って、例えば「あ」ならば「あ」の形を作っていくという気の遠くなるようなシンキ臭い仕事だった。シンキ臭い内職のような仕事でも私達はそれをやるしかなかった。パーソナルなコンピューターなどというものが全く想像できなかった遠い遠い昔の話。

――――――――――

 なつかしい言葉に出会いました。「パンチカード」って確かにありました。研究所にあった大型コンピュータにそれを突っ込んで学術計算をさせたのですが、夕方持ち込んで明朝結果が出てくるという代物。それでも当時の計算尺や卓上計算機から比べると画期的なものでした。でも、まだまだ信用できなくて、密かに一部を手計算して、合ってる!合ってる!なんて喜んでいましたが(^^;
 「コンピューターに入力する基本文字の作成」というのは、現在のパソコンで言うところの外字作成のようなもので、いろいろなフォントの文字を基本的には書かれているように「縦横にずらりと並んだ数字を使って、例えば「あ」ならば「あ」の形を作ってい」きます。これは作成した会社が登録して○○書体として販売もされるものです。このスタイルは今も変わっていないでしょう。派遣という立場では大変な仕事だったでしょうが、コンピュータの黎明期として記憶に残しておきたいエッセイです。



個人詩紙『おい、おい』56号
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2008.4.6 東京都杉並区 岩本勇氏発行 非売品

<目次>
先行き
今宵もまた
元祖フリーターの伝(十三)



 先行き

このところ
父の墓とか
同級生の墓とか
詩人山之口貘の墓とか
もう
この世に生きていない人の
今いる場所を訪ねていくことが
さいさいある
これって何だろう。
そっちへ行ったら宜しくねって
年齢的な意味なのだろうか
それとも
もう
この世に生きていない人って
嫌味も言わないし
皮肉も言わないし
蔑むことも言わないし
それが
良いのだろうか
だとすると
この世で今のところ
えんあって会う人たちに
なんだか
ちょっと
面白みをあまり
感じなくなっている
ということなのか
つき合いに
倦んでいる
ということなのか

だけど
考えてみれば
これが
この世の話だからいいようなものの
あの世で以て
あの世の人たちに
面白みを感じなくなったり
倦んでしまったりしたら
その時は
どうするのだ

 「この世に生きていない人の/今いる場所を訪ねていく」というフレーズがおもしろいですね。最終連の「あの世で以て/あの世の人たちに/面白みを感じなくなったり/倦んでしまったりしたら/その時は/どうするのだ」という心配も詩人ならではのものでしょう。フツーの人はこんなこと考えないでしょうね。



個人詩紙『おい、おい』57号
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2008.5.6 東京都杉並区 岩本勇氏発行 非売品

<目次>
もしそれが真実としたら
しみじみ
絶唱
元祖フリーターの伝(十四)



 絶唱

人の世とは
人の心のこと
かもしれない
人の世が分からない
ということは
人の心が分からない
ということかもしれない

人の心の分からない世界で
一人で生きていかないと
いけないとしたら
人はやっぱり
悲しい生き物なのでしょうね

 「人の世とは/人の心のこと/かもしれない」という指摘に改めて感じ入ってしまいます。たしかに人の世は厳しい≠ネんて言い方の対象には「人の心」だけがあって、たとえば建物や鉄道や芸術・科学は含まれていませんね。思わぬところを気づかさせてくれた詩で、小品ですが深い作品だと思います。



   
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