きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.4.25 柿田川




2008.6.12(木)


 珍しく日帰り温泉に行ってみました。温泉に入って、ビールを呑んで、昼寝して、まあ、それだけのことですけど、リフレッシュしますね。あとはいただいた本を読んで過ごしました。



小島きみ子氏詩集
『((天使の羽はこぼれてくる))』
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2008.6.20 長野県佐久市 エウメニデス社刊 2000円+税

<目次>
T ((そよぐ草の畸形な声の眼よ)) 7
U ((
mama)) 33
V ((
coupler)) 63
W ((おお天使の羽がこぼれてくる)) 83



 W ((おお天使の羽がこぼれてくる))



白い空、
白い空、
秘奥の薔薇いろの空、
水鳥が飛び立っていく湖のほとり、
((おお天使の羽がこぼれてくる))



湖に奇蹟の物語を映す灰色の森、
まぶしい空は、
水鏡の深奥に、
有情なるものの感情を隠蔽すると同時に、
表層の仮面を剥がしてゆく。
実相を揺らすたゆたう湖の聖なる水鏡、
剥がれ落ちる表層の上に付加される仮装のペルソナをもって、
変容する森の陰影。



けれど神は、ほんとうに最初に「光、あれ」と言ったのだろうか。
「初めに(原初に)、言葉があった(
In principio verbum.)」(『ヨ
ハネ福音書』第1章1節))神もまた人間とともに生きるために、
陰影のなかにそのペルソナを隠したのではなかったのか。恋人たち
が愛を探して、有情なものと無常なものとが融合した感情が、湖の
漣を追いかけていく。神話の中の愛、それは白鳥のレダ、黒雲のイ
オ、金色の雨粒に変身したゼウス。やわらかな愛の曲線。そして、
もうどこにも隠れる必要のなくなった、異形なものの逆さまの陰影
は、復活したイエスのように《光》に向かって言うだろう、《触れ
るな》と。私たちは、誘われ、私たちに訪れたものを、ふたたび、
誘い訪れ返すことによって、この身が永遠(とわ)の手前で、果て
しないものとなる。



私たちの初めての詩は、どこからやってきたのでしょうか。詩の言
葉が書かれた紙を捲る、やさしい吐息のように、…夏が逝く高原の
山荘ではコスモスが黄色い花粉を風に飛ばし、M! あなたのノオ
トの断片が燃えています…ああ、Mの声がする《 こたへもなしに
私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》*…い
つかもそれはそうだっように、私にとってこの地上ではもう愛し合
い見つめあうものが何も無いので、私と湖の木の影とは、世界を数
値で示すために『中世の秋』を黙読しあう。詩によって「希望の意
味(方向)」を見つけるために、白い空と私は、もはや形姿(
figure
を失ってお互いの声だけを見つめあう。指し示すものは無く、記憶
の場所だけがある。その欠落した記憶の場所に辿りつく事。それは、
人の輪郭に沿う、言葉の息に重なること。信仰の薔薇を詩のうえに、
詩への幻想を誘うアシジの聖クララ(名も無き薔薇)という恋人ま
でのあらたなる霊知を見いだそうというのだ。おお、(名も無き薔薇)
という天上の(秘奥の薔薇)をもとめて書物を捲る指にかけられる、
限りなくやさしい先人の吐息よ。



 ((白い空、…苦悶の煌きの、…それはぎっしりと空に敷き詰めら
れたアイスバーグの白だった、ショパンの革命のエチュードを聴い
た朝。神の、やさしい吐息のように、天使と見紛う水鳥の羽がこぼ
れ落ちてくる)) ((思い出そう、指先が薔薇の香で充ちる日、レー
スの手袋をして薔薇を摘んだ日のことを思い出そう、思い出そう、
小さな蜜蜂の魂が、白い薔薇のなかで眠っていた姿を、あのときの
眩むような白い薔薇の襞を))

註記
1.記憶の第三層と「立原道造詩集」
 私の記憶の第三深層で、なつかしく私と語り合う詩人《M》もちろん立原道造です。詩句の引用は、:「立原道造詩集」:立原道造著・第四巻・1972年初版・角川書店刊:からです。《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》そして、《私は風であり豹なのだ。私は向こうへ行ってしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は変貌しないで私になってゐる。それは同時に変貌している。雲は流れ消えながら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あれは私にもなれるのだ》と。記憶の第三層から第四層に向けて詩人が、自己を越えて発見するもの、「この限界」とは。「個別的な実存」とは何でしょうか。

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 詩集タイトルの「W ((おお天使の羽がこぼれてくる))」の冒頭部分を紹介してみました。このあと「13」まで続きます。「註記」は「4」の「M」についてのものです(原文では34字改行ですが、ここではベタとしました)。
 正直なところ、かなり難しくて私の力ではとても読み取れません。難しいひとつの理由は、古今東西の名著を読んでいるという前提で書かれているからだろうと思います。もちろん必要なところは註記で補足されていますが、それでも追いつけません。ただ、詩語を楽しむことはできます。「2」の「剥がれ落ちる表層の上に付加される仮装のペルソナ」、「4」の「書物を捲る指にかけられる、限りなくやさしい先人の吐息」などは、それだけでもひとつの詩世界を形成していると云えましょう。著者の思いとは大きくかけ離れてしまいますが、そういう読み方もまた許されると思います。



小島きみ子氏著Essay・光の帯』
essay hikari no obi.JPG
2008.6.20 長野県佐久市 エウメニデス社刊 非売品

<目次>
* 序・詩への憧れ、そして希望のように 3
* 光の帯 8
* (「眼」の知覚について)「ブルーベリーの実が熟すころ」からの断片 29
* 鏡の中のあなたへ 36
* 抒情の深化・その「フィジオノミー
(physiognomy)」の世界へ 山田兼士詩論集「抒情の宿命・詩の行方」を読む 41
* 多人称による物語言説の眩畢のなかへ 海埜今日子詩集「隣睦」 60
* 「夢」その創造的異種空間への誘い 宮田登美子詩集「竹薮の不思議」 74
* 身体の(リアル)から生起される外界の(バーチャル) 85
* 空間の言語による演劇 デフ・パペットシアターの「オルフェウス」 95
* 「盲いた鏡」という仮面による非現実への超越の企て 藤井雅人詩集「鏡面の荒野」 102
* 記憶が連鎖する「褐色茶房」から(砂語)の「砂州の丘」へ 太田潤詩集「アロンジ・アロンゾ(廃跡、へ)」 111
* 矢印が光のように射し込む樫の木の下「
ARROWHOTEL」を読んだ 北爪満喜詩集「ARROWHOTEL」 124
* 「はかない詩」という無力な物質を武器のように携えて 平林敏彦詩集「舟歌(
Barcarolle)」 137
* ワタシと写真・「語る主体(シュジェ・パルラン)」 北爪満喜詩集「青い影 緑の光」 155
* あとがき 164
  挿画・宮原勇作



 * 光の帯



 詩に狩られる。言葉が、からだを持っているように。そんな、絶対的言語の、思考する言語の沈黙。思考しているものを、無言のコギトが語る主体として捉えることから始まる。

 デカルトは、思考する主体としての人間(自己)を「レス・コギタンス」(思考するもの)とし、その働きを「コギト」としてとらえ、「思考する」ことが人間(自己)にとってどんなに疑おうとしても疑いえないという事実として、人間的自我(主体)の存在を根拠づけている。「方法序説」の論理の展開は一人称の私が語る「考えるわたし」の率直な態度が美しい。
 デカルト派の「数学的知識以外の知識はありえない」という認識論に反対したイタリアの哲学者ギアムバスチタ・ヴィーコ(
Giambattista Vico・1668−1744)は、「真理と事実は置換できる」としている。また、西欧の知的伝統に大胆に反論した「新しい学問」のなかで、『logic(論理的)という語はロゴス logos に由来するが、ロゴスの本来の意味はファビュラ fubura「寓話」で、それがイタリア語ファベラ favella「ことば」として持ち込まれた。ラテン語のムッス mutus「おし・無言の」という言葉に由来する。言葉は無言のときは心の中の言葉(記号)としてあり、それを声にして出す。音節のはっきり分かれた言語以前に(ことば)は心の中に存在した。そこからロゴスには〈ことば〉と〈イデア〉の両方の意味がある。』と、している。
 このことが、「詩を書く」、「詩を読む」ことと、どのように連動してきたのか。ラテン語の『ムッス
mutus「おし・無言の」という言葉』に注目して詩のことを考えてきたと思う。
 「私にとって、「思考」と「思想」の関係は、「詩作」と「思索」の関係に他なく、「沈黙の言語」はここから、「語の音(おん)」に照らされて闇の前に出てくるのだ。「思考」と「思想」を生き生きと展開させていくために、「言葉」をひとつのリアリティに照らしつつ「言語」の精緻な「意味」をさぐるとともに、自分自身の「思考」と「思想」の全体あるいは、統一のなかで「言葉」を使うこと。それが、私にとっての「詩を書くということ」の始まりであった、と思う。

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 こちらは詩集『((天使の羽がこぼれてくる))』と同時に刊行されたエッセイ集です。ここでは、タイトルともなっている「光の帯」の冒頭部分を紹介してみました。このあと「9」まで続きます。これを読むと著者がどういう思いで詩作しているのかが少しは判るように思います。「私にとって、『思考』と『思想』の関係は、『詩作』と『思索』の関係に他な」らない、という部分が重要でしょう。もっとも、誰もが詩を書く場合にはそのように考えているのですが、著者は「自分自身の『思考』と『思想』の全体あるいは、統一のなかで『言葉』を使う」と続けます。つまり、一般的な詩人よりは思考の程度が広く深いと言っているのかもしれません。安直に直感やひらめきに頼る私などは心すべきなのでしょうね。勉強させていただきました。
 なお、原本では40字改行となっていますが、画面での見やすさを考慮してベタとしてあります。ご了承ください。



隔月刊誌『新・原詩人』18号
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2008.6 東京都多摩市 江原茂雄氏方事務所
200円

<目次>
《この詩16》農民詩人・猪狩満直/羽生康二 1 読者の声 3
日本語の「七五調」について/江原茂雄 3
詩  大社の桜/大井康暢 4        ワニのくち・ワニの涙/大橋晴夫 4
   冬の花/羽生槙子 4         ひかりがいっぱい/堀内みちこ 4
   夜の儀式/神 信子 4        土/伊藤眞司 5
   私もアホウドリ/神谷量平 5     風葬/坂上 清 5
   母の愚痴/江 素瑛 6
狂歌 辛っ風/乱鬼龍 4
短歌 死刑はいやだ−岡下香さんを偲んで−/大田敦子 5
事務局より 6



 母の愚痴/江 素瑛

貴女がいなければ
私はもはやパパのところに行っていたわ

パパが早く迎えに来てくれないかな
けしからんわ
ひとりで先に行ってしまうなんて
どこへ行ってしまったのかしら

兄弟が相談の結果
貴女が私を引き取ったの
なんの条件付きかしら
ほかの兄弟はどうしたの
誰もこの老いぼれを構ってくれないわ

往生したことないから
知りたいの
あの世はどんなところかな
行く前に知りたいの
貴女がいなければ
私はもはやパパのところに行っていたわ

――今は父と母二人でお茶でもしているのかしら

          (「砂」107号より)

 老いた「母」について「兄弟が相談の結果」、「貴女」が「引き取」ることになっての「母の愚痴」ですが、「往生したことないから/知りたいの/あの世はどんなところかな/行く前に知りたいの」というフレーズで、思わず微笑ましくなりました。しかし、最終連を読んで愕然としました。もう「母」は亡くなっていたのです。非常に効果的な1行ですけど、この1行を書くまでの作者の思いを考えると、こちらの胸まで締め付けられるようです。見ず知らずの「母」ですが合掌したくなった作品です。



   
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