きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.4.25 柿田川




2008.6.14(土)


 大阪市・南森町のトーコーシティホテル梅田で開催された、関西詩人協会との共催、第16回日本詩人クラブ関西大会に出席してきました。関西大会は隔年で行っています。毎回のことですが、今年も会場の定員いっぱいの130名ほどの人たちにお集まりいただき、たいへん賑やかな会となりました。私は日本詩人クラブの理事として出席を義務付けられていますから、行くのは当然としても、今回は特にお会いしたいと思っていた詩人が3人いらっしゃって、その人たちとお話しできたことが最大の収穫でした。とても佳い作品を書く詩人たちで、お会いした印象もお3人ともさわやかでした。関西の人たちとは昔から、それこそ30年も前から知り合っている詩人が多かったのですが、新たに佳人の皆さまとお会いできて光栄に思っています。

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 写真は会場でのスナップ。日本詩人クラブHPには公式の記録をアップしておきましたので、こちら もどうぞご覧になっておいてください。
 大会、懇親会、2次会は同会場で。3次会はカラオケに行こうということになって、13名という大所帯で近くの店へ。入ったのは21時半ごろでしたが、店の説明では1時間コースか3時間コースとのこと。1時間では短い、3時間では長いけど、まあ、2時間ぐらいで終わるだろうからと迷わず3時間コースを選びました。一昨年の3次会も楽しかったから今回も、という人もいらっしゃって、次々と歌が披露されました。そして、フッと気付くと0時半。結局3時間をフルに使って遊んでしまいました。
 関西大会の実行委員の皆さま、ありがとうございました。お陰さまで有意義な会を楽しませていただきました。遅くまでお付き合いいただいた皆さまにも感謝しております。次回は来年6月第2土曜日の岡山大会です。またお会いしましょう!



有馬敲氏著『現代生活語詩考』
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2008.6.25 京都市左京区 未踏社刊 3200円+税

<目次>
 T
現代生活語詩考−9
 一 生活語詩とは−9             二 生活語詩の源流−15
 三 口語自由詩へ−23             四 宮沢賢治・以後−40
 五 太平洋戦争中の伏流−68          六 戦後詩の時代−85
 七 一九七〇年以後−120           八 言文一致へ−144
『源氏物語』と庶民生活語−150        啄木『ローマ宇日記』−156
生活語詩への期待−163            生活語と詩の話−173
これからの詩と生活語・語録−190
 U
茨木のり子−203               石垣りん−224
鶴見俊輔様−275               カウンターカルチャーの時代−293
一九七〇年前後の対抗文化−302        京都時代の高田渡−315
サンフランシスコの一夜−322         いま、何を、いかに書くか−328
創作の背景−348               現代詩のなかの現代京都詩話会−357
人と本と私−372
 V
中国大陸で考えたこと−403          中国の詩と書−412
台湾国際詩祭−417              モンゴルとの詩交流−421
スペイン語圏詩人とのつきあい−426      翻訳による国際交流−435
フランス語訳について−455          サンジェルマン・デ・プレのこと−460
 *
火柱の美学−481
初出一覧−515



方言の問題
 これらは一般に方言詩と言われていますが、私はそこでも引っかかるわけです。というのは方言というのは共通語、または標準語に対して呼ばれていますが、方言とは日常の暮らしのことばで生活語なんですね。たしかにその土地でしか通じませんから排他的な面があるかもしれません。しかし、皆さんもご経験がありますように、身内や親しい人にはホンネで話せる方言の方が通じませんか。共通語になると、タテマエとしての話し方になってくるでしょう。それがいけないと言うわけではなく他者へのコミュニケーションとして、共通語には方言ではやれない利点があります。電話にしろ、会議にしろ、あるいは今日のお話にしろ、共通語でないと通じないことがありますね。これに対して方言と言われるものを生活の言葉として捉えてゆきますと、大げさなようですが、国家主義、ナショナリズムとの対決ができると思うのです。共通語で日の丸とか、君が代とかやってくることに対して、自分の実際の生活語で話すことによって対抗できるのではないか。「球ころがし」という詩を読みます。

 足で球をころがすのが/えろう はやってますな/大人も子どもも ネコもシャクシも/ワンカップ いやワールドカップいうて/えろう 醉うて騒がしいことどすな//オリンピックでも そうやったけど/日本が勝つために一生懸命や/茶髪 金髪 赤髪//顔を丸ごと 日の丸顔に仕立てたりして/あの人たちをサポーターいうんやでぇ/それに輪をかけて えずくろしい気狂いを/フリーガンいうて ほたえまくるやつや//このごろ カラオケでは/若いひとが平気で「君が代」うとうて/人気があるそうやけど/あの曲に球ころがしの選手の名前をいれて/応援歌にしとるんどっせ/それをまた/このごろ流行のインターネットで/やりとりしおうたりして/テレビでも新聞でも/球ころがしのことばっかし/そう そう/その本家本元の連盟の役員さんまでが/おつむをつこうたヘディングで/お金の球ころがしをやったはるそうどんな

 私は替歌の研究をしていますが、歌曲とか流行歌とかは一定の歌詞があり、共通語と一緒ですね。ところが替歌は、その時の場所、時代によって、また人によって違ってきます。さいきん若い人がよくうたうそうですが、「君が代」はカラオケでは上位らしいですね。ところが「君が代」を元歌にして、サッカー応援の替歌がいくつもインターネットで交信されているようですね。日本が勝つように「日の丸」を掲げたり、「君が代」の替歌をうたったりしますが、ナショナリズムの問題に結びつく危険性があります。昔、「君が代」が制定された明治には、もっとおおらかで、自分の愛人のところへ通うような替歌の歌詞がありました。オリンピック、それはたいへんいいことですが、そこにあるナショナリズムを考えていく必要があるのではないでしょうか。

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 上述の関西大会で関係者より頂戴しました。1995年から2008年までに詩誌や新聞などで発表したもの、講演したものを収録した論考集です。タイトルの「現代生活語詩考」については「T」で詳しく述べられていますが、ここでは「U」の講話録「いま、何を、いかに書くか」の一部分を紹介してみました。「生活語」とは何かがコンパクトにまとめられている上に、「国家主義、ナショナリズムとの対決」にも触れた名文だと思います。その具現が「球ころがし」に出ていると云えるでしょう。
 「生活語」だけでなく、詩とは何かについても考えさせられる名著です。お薦めします。
 なお、原文では44字改行となっていますが、画面での見やすさを考慮してベタとしてあります。ご了承ください。



詩誌『プリズム』3号
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2008.6 堺市東区 西きくこ氏発行 非売品

<目次>
福岡公子 浄化…1     薄氷…3    残照…5
吉田國厚 笑顔考…7    冤罪…9    少子化讃…11
西きくこ 秋を歩む…13   ほたる灯…15  ごはん粒…17
東尾緯子 いちごあかり…19 闇夜…21    夜の雨…23
波長…25
表紙・カット 吉田一之



 少子化讃/吉田國厚

あたたかい冬の昼どき
いつも通る川沿いの岸に
背をかがやかせてかわせみが
じっと川面を狙っている
動かず見下ろすぼくに気づかず
桜の枝に移るとみるまに
川にとびこみ岸にもどったその口に
魚が光っている

しばらくかけて飲みこんだか
色あざやかに飛び去って両岸の桜並木に見失ったが
すぐ魚をくわえて現れ
サッと川上へとび出し
向う岸のコンクリート壁にたしかに消えた
垂直にひび破れた中程に
穴めいた部はたしかにあるにはあるが−

この数分のあやうき至福の間
(かん)
犬をつれた少女がぼくの視線に気づいて
かわせみを見たが
犬にせかされてすぐ走り去った
車は何台も通ったがむろん気づかない
世は少子化で
子どもの事故はまた社会の損失だから
この川沿いの道路に面して運動公園と
プールが出来て
子どもの川遊びはない
巣のありかはぼくしか知らない

カラス奴
()見やがったか

 こちらも上述の関西大会会場でいただきました。改めて御礼申し上げます。
 タイトルがよく効いている作品だと思います。「世は少子化」のお陰で「巣のありかはぼくしか知らない」のは「かわせみ」にとって幸いだったなぁ、というわけですけど、最終連も佳いですね。「子ども」が狙わなくても「カラス奴」が「見やがった」のです。ここでは人間と自然との乖離を言っているのかもしれません。印象に残る作品だと思いました。



藤本敦子氏詩集『風のなかをひとり』
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2008.6.10 東京都豊島区 書肆山田刊 2500円+税

<目次>
 T
停留所 10      草の上 10      空を開けて鳥は… 18
木のこと 24     旅行かばん 28    ワンピース 32
夏の日 36      波の音 40
 U
フック 46      屋根の下 50     メトロノーム 54
幣舞橋 58      茶碗 62       ギャザー 66
そこにいる 70    欅並木を行く 74
 V
ブラウスに風をためて 80          水の
Door 84
マレーバクに関する覚書 86         アカテガニの産卵 90
富士山須走口五合目付近 94         空が集まって 98
ありがとう 102               そこの 106
声 110                   早朝の町 114



 停留所

あなたが嵌めてそのあとわたしが嵌めて
どこかに置き忘れた
茶色の皮手袋

通りの食堂の
外に置かれたプラスチックのごみ箱の
ふたが鳴っている
髪が頬に触れ ほほにまつわる
わたしは髪を切ったばかり
バス停に立っていると
そこにひとりのわたしがいると風がわたしに教える

わたしが鳴っている
風は そのようにして存在を知らしめる

バスの停留所は通りをいつも見ている
よく見える耳であり
よく聞こえる目である

沈丁花のかおりがする

風よ伝えてよ
ここで待っていると

 8年ぶりの第3詩集です。はっきりと描かれてはいませんが、亡くなったご主人への鎮魂詩集ではないかと思います。タイトルの「
風のなかをひとり」はそれを象徴する言葉でしょう。しかしタイトルポエムはありません。紹介した詩は巻頭作品で、第2連の「そこにひとりのわたしがいると風がわたしに教える」などから採ったように思われます。この作品は「停留所」がよく効いている詩です。ひところ流行したバスストップ≠ナはなく、あくまでも「停留所」。ここまで詩的に高められた「停留所」を読んだことがありません。抑制された叙情の美しい佳品だと思いました。



   
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