きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.4.25 柿田川 |
2008.6.15(日)
関西大会2日目。他の地域の大会ですと、2日目は地元の人に案内されて文学館や詩碑を見学するというツアーが組まれるのですが、隔年で開催される関西大会にはそれがありません。まったくの自由行動となります。せっかく大阪に来たのだからと、今日は道頓堀に行って、法善寺横町などを散策しました。と言いながら、いつものコース。他はあまり知らないのです(^^;
2時間ほど法善寺横町、心斎橋筋を逍遥。昼食を済ませて早めの新幹線で帰りました。
○西本梛枝氏詩集『神明の里』 |
2008.6.1 神奈川県横須賀市 山脈文庫刊 2000円 |
<目次>
身の上話 10 アオバズク 16
別れ 20 追悼 24
*
若狭・常神半島 28 生杉集落 32
丹後夕日が浦 38 越前・小原の里 42
行きくれて 鈴鹿山中にて 48 興福寺 阿修羅 54
捨てる〜淀川べり〜 58 赤後寺 十一面観音さん 62
安曇川源流・ツボクリ谷 68 能郷白山 74
大安寺 馬頭観音 80 いろんな方法〜梅田阪神前交差点〜 84
平泉寺初秋 90 梛の木〜熊野権現の梛によせて〜 96
かわく〜京都北山・八丁平〜 100
信州・大渚山で 104
夏〜丹後・世屋の里〜 108
NEW YORK
BLUES 112
インド紀行〜ガンジス河〜 116
*
プライド 124
メール 130
真夜中のカラス 134
かげろうの生 138
*
西本梛枝の指呼の先の淑気たち 筧槇二 142
あとがき 144
*
装幀 高島鯉水子
身の上話
物置の隅に作りつけの棚があった
少しカビくさいその棚には
使わなくなった茶碗や皿が並んでいた
子どもの私たちは
その茶碗に触れることさえ
怖ろしかった
私の家は寺だったからか
物乞いが時々やって来た
母は縁台を出し
物置から茶碗と皿を出してきて
ありあわせのものを盛りつけて
物乞いに食事を出し
食事が終わるまで そばに坐って
身の上話を聞いていた
私たちは物乞いの風体に
ただ怖ろしくて
物陰からその様子を盗み見していた
昭和二十七、八年のころではなかったか…
白髪の白い髭の老人がやってきた
やせ細り白い髪と白い髭は汚れて異様で
父が不在だったから
私たち兄妹は身構えて 盗み見していた
母は老人にいつものように食事を供し
身の上話を聞いていた
それから数日後
警官が母をたずねてきた
川下であがった入水の老人が
お寺の奥さんに「ありがとう」と
手紙を残していたのだと
父は本堂に坐し経をあげた
見知らぬ老人のために
あれは秋の始まりだったのだろうか
老人と母の風景が
キンモクセイの花の中に浮かぶ
父が逝き 母も逝き
キンモクセイの季節はあまた巡り
たくさんの身の上話を
積み上げていた物置は もう
取り壊されてない
父も母も 物乞いも
それから 私たちも 物置も
みんな それぞれの身の上話を抱えて
同じところに歩き始めている
旅行関係の著作が多い詩人ですが、詩集としては19年ぶりの第3詩集です。詩集タイトルの「神明の里」という作品はなく、第2章の旅先での神々=A特に山里の神≠ゥら採ったのではないかと思われます。ここでは巻頭に置かれた「身の上話」を紹介してみましたが、一言で云うと、佳い作品です。著者の原点が見えるようで、特に最終連が良いですね。
この詩集で特徴的なのは第2章の旅の詩だと思います。いわゆる紀行詩にはあまり良い作品がないと私は感じているのですが、それは月並みな情景描写に終始したり、風景と心境とが過度に接近しているからだろうと思います。しかし、この詩集は違います。プロの旅行作家という側面があるからかもしれませんが、訪れた地域との距離に無理を感じさせません。紀行詩を多く書いている人にはぜひ読んでほしい作品ばかりです。
○詩誌『黄薔薇』183号 |
2008.6.10 岡山県倉敷市 田千尋氏発行 500円 |
<目次>
記憶の樹―中山秋夫さんに/井久保伊登子 P1 夏・わからない・広島のスズメ/境 節 P3
チャルメラ/水島睦枝 P7
春の畑・かのひと・キーワード/一瀉干里 P10
時のかたち/小舞真理 P13 庭で/井久保勤 P15
ぼくがわかりきったことを/吉田貴博 P17 早起き三文の徳/柴田洋明 P19
父(2)/岡田久美子 P21 或る日の主治医との会話U・他/椚瀬利子 P23
特集 追悼 中山秋夫さん
鏡の前で 悲しみと喜びの詩 蟋蟀 いのちのうた P25
句集『父子獨楽』から 句集『一代樹の四季』から P31
らい予防法違憲国賠訴訟について、手紙 P33
死の時も独りではなかったな、中山さん(山下峰幸)P38
「おもい」(白河左江子)P42
骨たちヘ−追悼中山秋夫さん(水島睦枝)P43
中山秋夫さんの思い出(吉田博子)P47
中山秋夫さんを偲ぶ(田千尋)P49
中山秋夫さんの詩と人生(井久保伊登子)P51
犬とわたし・行きゆきて/吉田博子 P57 昇華/山田輝久子 P61
待つ・春夜/吉田重子 P63 雑詠/木村真一 P66
草刈り・ボタン/小林一郎 P67 子供さんは・視野/白河左江子 P71
「未来からの贈り物」が/麻耶浩助 P73 (詩碑に彫る)/塔 和子 P76
東京(味街道五十三次で)/あおやますずこP77 星月夜/田千尋 P79
お花見弁当(山田)P62 五十肩(椚瀬)P65
同人の詩集他 P70 本多寿さんへ(高田)P81
永瀬清子生家保存 P82 上田万紀子詩集(境)P83
節子さん(境)P84 編集後記(高田・境・小林)P85
同人名簿 P86 表紙 近藤照恵
らい予防法違憲国賠訴訟について/中山秋夫
一九九九年五月 らい予防法違憲国賠訴訟における熊本地裁での意見陳述
私は、このたび国賠訴訟の原告の一人として、岡山県邑久光明園から来ました中山秋夫です。
全景に骨堂のある療養所
これは、私の作品です。
十三園のハンセン病国立療養所には、それぞれ納骨堂があります。しかし、この納骨堂は国立ではありません。私たち療養者の知恵と費用によって造ったものです。そこには、療養所で死んで骨になっても故郷へ帰れない死者達が眠っています。
予防法廃止の際、時の厚生大臣が最寄りの療養所の納骨堂の前で頭を下げました。しかし私の申し上げたいのはあの悪法の下、隔離撲滅政策の犠牲になった死者達への国の責任は、厚生大臣が一度頭を下げたくらいで、すべてが終わったと言えるようなものでは、決してないということです。
予防法廃止に際し、国は各療養所の何万の死者達に対し、何をもって謝罪し、贖罪の約束をしたでしょうか、一言半句も触れてはいません。それどころか、国は先の反論書において「合理性があった」と隔離を肯定し、断種も患者の同意を得てした、とすら言っています。これは死者に対する冒涜以外のなにものでもありません。
私は昭和十四年、十九歳で入所し、爾後六十年の療養生活を送ってきました。
その間、多くの死者達を見送ってきました。そして今わたしは、残された者として過去の死者の為に、逢えて国に問いたいのです。
私が入所した時、施設の係りの者から受けた処置は現金を取り上げられたことでした。そして所属宗派は何か、ここでの偽名はどうするか、と問われました。そのことが何を意味していたのか。答えは入り口があって出口のない「らい」療養所の納骨堂だったのです。
肝心の「らい予防法」については、あることすら知らされずに、ただ早く治って帰るようにとの甘言で誘い、送り込まれた療養所でした。そしてその後の生活を通して、そこが私たち患者を隔離撲滅するための頑丈な檻でしかないことをいやというほど知らされていったのです。
長い療養生活の中で、私は昭和二十一年に重病室事務所の副主任に、そして二十二年から二十八年に至るまでは主任として患者作業をしてきました。
既に御存知のことと思いますが、当時は療養所の運営のあらゆることを入所者が担っていました。それは重病室に於いても同じで、ベットで坤吟する病人までも患者が看取っていたのです。何棟もの重病室にさえ、専属の医師も看護婦も居なかったのです。三百六十五日、年中無休の患者作業でもって重病室のすべての運営がなされていたのです。幸いに病気が回復した者は自室に戻るのですが、そうでない者にとって、病室は死に場所でした。その死者達の死に水はみな、僚友達が取りました。死ぬ時も自分の肉親と切り離されて一人で死んでいくのです。その寂しさがどれほどのものか、お察しにはなれないでしょう。
それからですが、そうした病友の死後の処理、その亡くなられた亡骸の処理も僚友でやったのです。湯潅をして死者を清潔にし、それから納棺です。その後ですが、病友の柩を解剖室まで運びます。私は病室主任でその解剖室の鍵を預かっていました。深夜であろうと、先に行って解剖室の鍵を開けなければなりません。柩を解剖室に運び込んで、その後の鍵をかけます。これで私の作業が終わるのです。
私が主任になってまもなくのことでした。顔見知りの職員が私の所へ訪ねてきて、便箋大の書類ですが、便箋より随分厚いものでした。その最初のページを開けて、中山君ここへあなたの判を押すようにとのことで、私はそのことについて思わず尋ねました。用紙は半裁の罫紙を綴じた物でそこには何も書かれていませんでした。それへ私が判を押すということ、これは何のためかということ、例の職員は苦り切った顔で、解剖に使う・・・と、言い渋ったが私はそれに対し、これから死ぬ者の解剖のたびに、なぜ私が判を押さなければいけないのかと言うと、相手は、そうかたいことを言わずに・・・前からこうしていたのだということ、私は納得できないので何はともあれ、このような物に私の判は押せないと拒否しました。その職員は、苦々しい顔をし、その書類を持って帰りましたが、その後のことはわかりません。ただ、その後も解剖は続いていました。このことについて、もしご不審があるのなら、国の方で時代をさかのぼって、お調べになって下さい。
ところで、重病室においてすら、この通りですから一般生活は言うもでもなく、あらゆることを患者が背負い、患者作業の名の下に療養生活の運営に従事させられたのです。患者作業なしには成り立たないという療養所の仕組み、国家の仕掛けた罠にかかって、私たちの先輩は次々に死んでいったのです。
私たちはそんなふうにして亡くなっていった数多くの死者たちに見送られ、生き残り生き残りして、今ここにこうして立っているのです。
病室の副主任、主任として私は、八年間で三百人以上もの病友の「死」に立ち会ってきました。その数もさることながら、私の心に強く印象に残っているのは、死者達の誰もが苦しむような表情は残さなかったということです。死んでホッとして安心を得た顔になっていたのです。
先に偽名についてふれましたが、それは決して自分を社会から隠す自己防衛のためのものではありません。あまりにも恐ろしく汚れた病気にでっち上げられた「らい病」、その病名を符されただけで当人だけでなく、血縁のすべてにまで累が及んだのです。一人の病人を出した家族は、唯それだけで世間を憚り、ひた隠しに隠さなければならなかったのです。偽名はそうした家族との縁を断ち、血縁者を守るためでありました。
その偽名を以ってしてもなお病む者にとっては、不安が付いて回りました。その不安から解放されるのが「死」でした。苦悩からやっと解き放たれる、それが私たち療養者の死でありました。
大空へ偽名が消えていく煙
私はその「死に顔」を何百というほど見てきたのです。国が今さら「らい予防法」についてどのような言い逃れをしても、私の眼の底に残っている死者達は、決してあの悪法を振りかざした国を許すことはない!と、敢えて断言します。
数多くの死者達の中に、私にとって心から断ちがたい一つの死があります。私は第二次大戦後、社会への思いを断ち、所内結婚に踏み切りました。昭和二十一年の冬のことです。結婚の条件として否応無く断種手術を受けさせられました。私は術後すぐに、自分の受け持っている職場の一室へ一人そっと戻らねばなりませんでした。その晩、手術箇所がひどい熱を出し、悪化しました。その頃は医師も極端に少なく、六百名を越える患者に対し医師は二、三名で、私の手術をしたのも外科専門ではなかったように覚えています。その劣悪な治療体制の結果をもろに受けたのです。その夜私は、熱と痛みに苦しみました。相手の女性が遠く離れた自室から来て、私の枕元に座り、濡れ手ぬぐいを絞り、深夜まで看病してくれました。
私が再び彼女と会ったのは、病室のベットに臥せている彼女とでした。当夜の私の看護で彼女は風邪をひき、こじらせ、急性肺炎になっていたのです。
娘のことを知らされた両親は、周囲をはばかり、しかし漁夫であったことを幸いとして、漁に出る振りをして我々の元へ駆けつけてくれました。治りの悪い娘の病状を心配し、生の鮒を三枚にして片身ずつを娘の足の裏に貼っていました。しかし貧しい治療とまじないめいた願いは、彼女の病気を防ぐのには何の役にも立ちませんでした。
彼女は死にました。まだ春浅い四月のかかり、年齢は十九歳でした、療養所の方針によって私が断種され、それによって若いこれからの娘の命がむざむざと失われたのです。
敢えて言いますがその一人の死は、私にとって今なお痛恨の極みとして心に刻み込まれています。
断種へのさかまく想い海荒れる
このようにして生き残った私は、たくさんの死者に見送られながら今、この場所に立っています。何千、何万の死者達が私の一言一句について聞き耳をたてているのではないかとすら、今私は思っています。
敢えて言います。国はその死者達に何を答えたのか。納骨堂には、死んで骨になっても故郷に帰れない者たちが眠っています。
しかしそれとは全く対象的に、終生絶対隔離政策の中心にいた光田健輔という人は、このような骨を残したことで「救らい」の功労者となり、国から文化勲章を受けています。勲章を受け永眠している者と、骨になってもどこにも帰れない者、この事実を放置して、法の廃止でもってすべて終わったなどと言えるのか。この不条理を私は国に問いたい。これで私の証言を終わります。
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拙HPでは初めて紹介する詩誌です。今号では昨年12月に87歳でなくなった同人・中山秋夫さんの追悼特集となっていました。中山さんはハンセン病患者として岡山県邑久光明園に「十九歳で入所し、爾後六十年の療養生活を送ってき」た詩人で、詩集『囲みの中の歳月』で第31回壷井繁治賞を受賞しています。1996年に「癩予防法」が廃止されて、その後患者による国家賠償請求訴訟が起こされましたが、紹介した文は1999年5月の第3次原告団の一人として意見陳述した全文です。意見陳述では異例ともいえる自作川柳を交えた文に圧倒されました。日本史の中でも貴重な歴史的証言と云えましょう。
現役詩人の中でもハンセン病患者との交流・支援を行っている人は大勢います。この詩誌にもその姿勢が感じられます。詩は必然的に社会的弱者への視線を持つものだと私は考えています。具体的な交流がなくとも、詩人としてはこの問題を避けることは許されないとも思っています。中山秋夫さんのご冥福を祈るとともに、『黄薔薇』の今後の活動にも注目していきたいと思います。
なお、紹介した意見陳述の原文は24字改行となっていますが、ここでは画面での見やすさを考慮してベタとしてあります。ご了承ください。
○詩誌『沈黙』36号 |
2008.6.10 東京都国立市 井本木綿子氏発行 700円 |
<目次>
詩
鈴木 理子 台詞 2
山田 玲子 ビリーブ 5
井本木綿子 大坂落城 8
村田 辰夫 謡曲余情 その後の漁師と天女 12
謡曲余情 その後の景清と娘人丸 15
中岡 淳一 白もくれんが咲いて 18
天彦 五男 文化? 22
宮内 憲夫 それだけの事実 26
文句、ある? 29
吉川 仁 革命をゆめみし兵士は……<U> 爛漫行 ぼろぼろ 32
あとがき 吉川 仁 天彦五男
<表紙> 天使の像 スペイン 作者不詳
文化?/天彦五男
食は文化だという
私は文化を失なってしまった
朝は白粥と梅干し一つと煎茶一杯
時折パンにハム 玉子に紅茶一杯だと
満タンで走れない歩けない
ただ坐して消化を願うのみだ
胃の切除と老化が食を細く細くしぼって
一口のビール一合の冷酒など液状のものが
生きる糧になってしまった
食は文化だという
野蛮人にならないためにサプリメントを飲む
ビタミン・カルシウムなどカタカナを飲む
私と共存していた鮨・天麩羅・鰻など
平仮名も漢字も消えてしまった
教会で和服を着て経を唱える違和感
私は頭を丸め僧衣を纏おうと思ったが
背広を着てネクタイをきつく締めている
元もと悪かった血の巡りが一層悪くなり
青白い顔の常識人は東と西の区別が解らない
飽食の時代だという
輸入した食糧の三割近くが捨てられている
冷蔵庫が保存 保管ではなく
ボロかくし屑籠になってしまった
冷蔵庫は黴製造機だと思っている主婦
食糧危機が迫っているのに気付いていない
私は生きていることを確認したいと
食にこだわるが餓鬼道には落ちていない
物を捨てない 人も捨てない 己も捨てない
メタボのスタンプを押されることはないが
錠剤だけで生きているのはさびしい
食品の偽装ばかりでなく
モラルの低下は日本も同じだ
賞味期限を告示する必要もあるし
原産地や加工などの表示も必要だが
生産者と消費者との心のつながりが第一だ
日本から冷蔵庫は追放しろ!!と言いながら
冷やしたグラスにビールを注いで
文化と細い糸で繋がって生温い生存をしている
「胃の切除と老化が食を細く細くしぼって」しまった「私」の、「食にこだわるが餓鬼道には落ちていない」証しのような作品だと思います。「ビタミン・カルシウムなどカタカナを飲む」ことが「教会で和服を着て経を唱える違和感」だという比喩は、ご本人には失礼ながら面白いです。「冷蔵庫が保存 保管ではなく/ボロかくし屑籠になってしまった」現在、「日本から冷蔵庫は追放しろ!!と言いながら/冷やしたグラスにビールを注いで」いる姿を、「生温い生存」として規定したところは、詩人の矜持と云えましょう。「食は文化だとい」いながら「輸入した食糧の三割近くが捨てられている」現状も考えさせられた作品です。
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