きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.4.25 柿田川 |
2008.6.17(火)
前から行ってみたいと思っていた伊豆高原の小室山に登ってみました。登ったとは言っても、麓の駐車場からリフトが山頂までありますから、本当に歩いたのは百歩にも満たないでしょう。また、伊豆高原とは言っても、伊豆高原駅からはずいぶん離れていまして、伊東の駅に近いので、そう呼ぶのはふさわしくないかもしれません。
なぜ以前から気になっていたかというと、伊豆高原には他に大室山があるからなのです。大室山はパラグライダーでよく飛んでいましたから知っているのですが、小室山というのもあるのかと興味津々だったのです。
登ってみて、まあ、こんなもんだろうなというのが正直な感想です。山頂駅には小さな喫茶店もあって、海もよく見えて、ちょっと立ち寄る分には申し分のない処です。でも、全体に小振りなせいか、感動≠ニは程遠い処ですね。貶しているわけではありません。ちょっと気晴らしに登ってみるか、というのにはピッタリでしょう。そういう場所も必要だと思います。ま、自分にとってのミステリーゾーンがひとつ減ったということで納得しています。
○詩とエッセイ『千年樹』34号 |
2008.5.22 長崎県諌早市 岡耕秋氏発行 500円 |
<目次>
詩
風/和田文雄 2 自然の彩りに癒されて/江崎ミツヱ 4
千葉野の春/早藤 猛 6 風の中で・祖父桜・乾杯・二人に/松尾静子 8
シジミ汁/竜崎富次郎 18 砂時計と静寂/わたなべえいこ 22
五月の四つの詩/岡 耕秋 24
エッセイほか
景観とは−フナやミミズが伝えたもの−/佐藤悦子 34
古き佳き日々(三一)/三谷晋一38
自由の鐘(七)/日高誠一42
みみず様々/早藤 猛 45
ふるさとの海 諌早湾干潟の再生を求めて(U)/岡 耕秋 46
菊池川流域の民話(二七)/下田良吉 52
樹蔭雑考/岡 耕秋 55
『千年樹』受贈詩集・詩誌等一覧 56
編集後記ほか/岡 耕秋 58
表紙デザイン 土田恵子
景観とは/佐藤悦子
――フナやミミズが伝えたもの――
平成十六年から十八年にかけて景観法という法律が整備された。その五つの基本理念の中の二つに、
・良好な景観は、地域の自然、歴史、文化等と人々の生活、経済活動等との調和により形成されるものであることにかんがみ、適正な制限の下にこれらが調和した土地利用がなされること等を通じて、その整備及び保全が図られなければならない。
・良好な景観は、地域の固有の特性と密接に関連するものであることにかんがみ、地域住民の意向を踏まえ、それぞれの地域の個性及び特色の伸長に資するよう、その多様な形成が図られなければならない。
ということが掲げられている。
「ふるさとの川、城原川−ダムに拠らない治水を探る」の本を出版して半年ほどしたある日、知らない年配の人から電話があった。その人は
「あんたの本、読んだよ」
と少し高圧的に言ってから、
「柿の葉っぱの落ちる頃になっぎ、何の、来っね?」
と聞いてきた。ダム問題についての質問かと緊張して聞いていた私は、急に肩の力が抜けた。簡単な話だ。と言っても、地元の人以外には、というより地元の川を知らない人には、まるで禅問答のような質問だろう。
「山ガニです」
と私は答えた。
「知っとたね」
とその人は満足したような声で言った。私が本当に城原川のことを知っているのか、試していたのだ。数字や理論のことではないその質問に、流域で生きてきた人の思いを感じた。ダムの是非についての討論には決して出てこない流域の人の「心」の部分だ。「心情」といっても良いかもしれない。
城原川流域委員会の最後の頃、私は住民の「心」の問題についても提言に盛り込んで欲しいという発言をした。共感する委員の方たちもいた。が、私自身その「心」が住民のどのあたりの思いまでを指し示すのか、掴みきれていなかった。大切な問題であることはわかるのだが、漠然としすぎていて難しい。結局「心」というものをどう把握していいのかわからないまま、置き去りにしてしまった、という思いがある。今ならそれは公共事業の方向性を考えるうえでの「景観」という視点で、論議できたと思う。
二十歳前後のころ、東京の蒲田でしばらく暮らしていたことがある。入社当初は訓練生として勉強しなければならないことに追われ、会社とアパートの往復に明け暮れていた。希望の職に就けて、目の前に広がる未来の可能性に胸を弾ませながらも、バス通勤の車窓から見える都会の景色には、深呼吸出来ないよどみを感じていた。
(だいいち水が無い)と思った。やっと見つけた川はコンクリートで覆われ、脂ぎった水が芥を浮かせていた。城原川の豊かな流れや大蛇が棲んでいると父が話してくれた神秘的な「大門(だいま)の堀」、公役のあとの「しまい祝」の魚を捕る「まついぼい」、いたるところにある「れんこんぼい」、「まるぼい」、そんな網の日のように広がるクリークを恋しいと思った。自分のふるさとが日本でも有数の水郷地帯であること、その水に囲まれて育っていたことをふるさとの外に出て初めて実感したのだ。ふるさとが驚くほど強い力で、私を呼び戻し始めた。
私に限らず、ある年齢以上の人たちの、ふるさとに対する思い入れは、今の若い人より強いように見える。「城原川を考える会」として様々な取り組みを企画したが、そこに参加してくるのはほとんど五十代以上の年配者だった。もちろん現役世代は仕事がある。そんなことに関わっている時間はない、ということだろうが、それにしてもダム問題を自分のこととしてとらえる年配者と、無関心に見える若者層との温度差は気になった。近頃、それは自分自身や我が子の様子などを見ていて、成長期にどうふるさととかかわったかによるものではないかと思えてきた。
私たちまでの年代は今よりよほど質素な生活の時代を過ごし、好むと好まざるとにかかわらず、ふるさとをしっかり味わって育った。城原川に残る「野趣」や「堰き」は成富兵庫茂安の時代から今に至る四百年の間、地域の人々によって常に手入れがほどこされていたし、「草堰」にいたっては、吉野ケ里で弥生の人々が生活していた頃から現在まで活用されている。堀岸のヤナギにも笹藪にも畦の高さや道の低さにも、それぞれに重要な存在の意味があり、それにかかわる人々の営みがあった。まさにそれが「良好な景観」ではなかっただろうか。この地域の空間の持つ価値は代々引き継がれてきた流域の生き方にこそあったのだ。その生き方が次世代に引き継がれていないことが若者層の無関心さを生んでいるのではないかと思う。
春になると堀割の水面がいたるところで動き出す。特に浅瀬は騒がしい。日頃は警戒心の強いフナやコイたちがこちらには目もくれず泳ぎ回る。産卵期に入ったのだ。こちらもわくわくしてくる。
かつてはこのフナやコイが、この辺りの重要な蛋白源だった。初冬からこの時期くらいまでのフナは美味しい。尺ブナと呼ばれる大物は味噌汁か刺身、大人の手のひらサイズくらいは煮付けにする。佐賀平野では、昆布でフナをまいた「フナんこぐい」が冬の味覚として有名だが、我が家はフナだけを甘辛く煮付ける。甘露煮ほど醤油や甘味が濃くはないが、砂糖に加えて、もち米で作られた板状の飴「あめがた」や、ときには甘露飴なども入れるので、何度も火を入れているうちに、こくのある我が家の味になってくる。
フナも以前はマブナが多かった。エサはミミズや赤虫などだが、赤虫は高価で手には入らない。子どもたちは、近くの農家の堆肥からミミズを捕ってくる。フナが好むのはシマミミズだ。好むサイズもある。小さすぎても大きすぎてもいけない。夢中になって取っているとついフナの気持ちになって、姿形の良いシマミミズを見つけると舌なめずりしそうになった。
フナを釣るにはシマミミズを使うが、ウナギになるとハタケミミズやヤマミミズを使う。青紫色のヤマミミズはシーボルトミミズとも言い、成長すると四十センチほどの大きさにまでなるらしい。蛇かと思うほど大きいのがいるが、そんなに大きいのは山手に行かなければ見ることはなかった。平地のそれは、小さくてもミミズらしからぬ筋肉質で、力も強い。
堆肥や土の種類、熟成の違いでミミズの種類も違ってくる。どの家のどの堆肥、どこの土の中にどんな種類のミミズがいるか、当時のこどもたちは良く知っていた。
昭和三十年代後半からはヘラブナと呼ばれる草食性のゲンゴロウブナが多くなった。ヘラブナはマブナに比べて成長が早く大型になる。植物性のエサ、とくにマッシュポテトで良く釣った。マッシュポテトを水で戻し、よく練ってパチンコ玉くらいの大きさに丸めて使う。ヘラブナは群れて動くので、一度あたりがくると面白いように釣れるが、味はマブナのほうが格段美味しい。そのためゲンゴロウに混じってマブナが釣れると得したような気になった。
甘辛く煮付けられたフナは父の晩酌の肴や、ご飯のおかずとしても重宝した。そんなフナの腹には黄色い卵がはち切れそうに入っている。ほとんどのフナが「こ」を持っている。後になってそれは銀ブナという種類がメスだけで繁殖するという特異な生殖機能を持っているためだとわかったが、その頃は不思議ともなんとも思わずに、父が美味そうに晩酌をする隣で一緒にフナの卵をほおばっていた。
今の釣りはスポーツだと言われるが、キャッチアンドリリースなどという釣りは、かつては無かった。釣ったものは食べる。それが当たり前だった。初夏から夏にかけて釣れる手長エビのかき揚げや佃煮、真っ白い身の食感と、深い味わいのある鯰の味噌汁や天ぷら、ウナギの蒲焼き、フナのかけあい、ハヤの甘露煮、あげればきりがない。地産地消の豊かな食卓だ。この川魚と呼ばれるあらゆるものを食べなくなった。
いつの間にかそれらは、遠い異国の海のマグロやエビに追い払われていた。食の文化さえ受け継がれないでいる。
最近NHKで日曜フォーラム、「司馬遼太郎『街道をいく』菜の花忌シンポジュウム」という番組を見た。この中である著名な作家が「明治からの日本人の生活の様子は、昭和三十年代半ばまではあまり変わってはいないが、その後激変した」という発言をしていた。成る程と思う。物心ついてからの台所の変遷だけを見ても目まぐるしいものだ。私などは、炊事に七輪やかまどを使い、井戸や堀や川から飲み水を汲んでいた時代に実際に生活していたのだから。おかげで、私たち世代は幸福なことに、自分の五感にふるさとの風景も空間もしっかりすり込まれている。そのすり込まれたものを通して浮かび上がるものがふるさとに対する「心」であり、「景観」なのではないかと思う。
過ぎ去った日々が素晴らしかったとは決して言えない。昔は生活そのものが重労働だった。だが景観法が言う「地域の自然、歴史、文化等と人々の生活、経済活動等との調和によって形成されるもの」が良好な景観とするなら、「地域の固有の特性と密接に関連するもの」が良好な景観であるのなら、私たちは良好な景観を無くしつつあるのではないかと危惧する。
かつて本書に流域治水ということを書いたが、この流域が、水とどうつきあっていたかを調べると、見えてくるのは、治水、利水はもちろん衣食住までも網羅した循環型の生活の有り様だった。大切な物を無くす前に、ここから私たちが学ぶことは多い。
川魚を食べることから、私は始めよう。
ご報告
「ふるさとの川城原川−ダムに拠らない治水を探る」が日本自費出版文化賞の地域文化部門賞を受賞しました。七百冊近い応募の中で入賞できたのは幸せです。ありがとうございました。
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環境問題についても積極的に発信している本誌の、「景観とは−フナやミミズが伝えたもの−」を紹介してみました。冒頭の「知らない年配の人から電話」が印象的で、「数字や理論のことではないその質問に、流域で生きてきた人の思いを感じた」とする作者に、誠実さを感じます。
「ご報告」にもありますように、作者は「城原川」についてのエッセイを連載していました。その当時から注目していたのですが、この度のご受賞、誠におめでとうございました。
なお、本文は24字改行となっていましたが、画面での見やすさを考慮してベタとしてあります。同様の理由で適宜空白行を入れさせていただております。また「センチ」は機種依存文字を使っていましたので表記のようにさせていただき、明らかな脱字は補足しました。合わせてご了承ください。
○『横浜詩誌交流会会報』57号 |
2008.4.20 横浜市金沢区 木村雅美氏方事務局・浅野章子氏会長 非売品 |
<目次>
想い育んだ創立30周年記念の集い 1
エッセイ
農業国日本は何処へ/森口祥子 3 今こそ/西村富枝 4
極端な意見/佐藤 裕 5 出会い/新井知次 6
軽妙洒脱な詩人岩佐東一郎/志崎 純 7 林住期に/森下久江 8
加害と被害/荒波 剛 9 ガラスの動物園/木村 和 10
「月に吠える」の詩人/うめだけんさく 11 過去・現在・未来/植木肖太郎 12
タクシーに乗って/林(リン)文博(ウェンボー) 13
武州久良岐郡戸部村/坂本くにを 14
結社近況
詩のパンフレット 15 じゅ・げ・む 15
横浜詩好会(地下水) 15 獣の会 15
紙碑 16 よこはま野火の会 16
<掌>詩人グループ 16 青い階段 16
象詩人クラブ 17 伏流水 17
アル 17 横浜詩人会議(京浜詩派) 17
横浜詩誌交流会事務局 18 受贈誌御礼 あとがき 19
軽妙酒脱な詩人岩佐東一郎/志崎 純
モダニズム系の詩人といわれている岩佐東一郎(一九〇五−一九七四)氏をご存知だろうか。忘れられてしまいそうなので、風化させないためにも個性的な明るい詩人でもあるので、ここに書き止めておきたい。
昭和二十四年大学に入学するため上京した私は、ぜひとも私淑していた岩佐東一郎氏にお目にかかりたいと氏のお宅を訪ねた。大井出石町のお宅を探し当てたら、なんとその斜め前に、私が尊敬し、大学で学ぶはずになっていた教授折口信夫(釈迢空)氏の家があった。これも何かの因縁であろうかと、不思議に思われた。
初めて氏のお宅を訪ねたときから、お亡くなりになる昭和四十九年まで二十年余、その年の二月、入院先にお見舞いにお伺いした時は、たいそうお元気で「君とも長いつきあいだったねえ」と懐かしがられたのを覚えている。ご自分ではドクターストップがかかっていたが、お見舞に来る方々のためにウイスキーが用意されていて、私も酔わない程度にいただいた。それから四か月後の六月にお亡くなりになるとは思いもかけないことであった。
氏は明るい軽妙洒脱な詩や好評のエッセイもさることながら生粋の江戸っ子風流人で、いつも和服の着流し姿、それが氏のトレードマークでもあった。
晩年はNHKの「とんち教室」に出演されたり、気心の知れた文人墨客をお宅にお招きになり「風船句会」を催されたり、風流豆本・シリーズ(全十二巻)を刊行されたりと多岐にわたって活動された。
少し長いが詩集「幻燈画」(昭和二十二年刊)から、「木馬館」という詩を紹介したい。
桃の花が散って
ほっかり桜の蕾がふくらむ頃に
いつも私の夢にみる
見知らぬ遊園地の木馬館よ
ペンキ塗りの白い馬や黒い馬が
軽い楽隊の音につれて
ぐるりぐるりと廻ってゐる
人影もないさびれた木馬館だ
ひぐれの仄かな明るさが
木馬たちのガラスの眼玉を光らせ
錆びた鐙がしづかに揺れて
いつか私だけがひとり乗ってゐた
杳い母の子守唄に似た
古びた曲を楽隊は繰り返し
云い知れぬ悲しみの中で
私は痴呆のやうに泣いてゐた
気がつくと
木馬は私をのせたまま止まってゐて
木馬館の建てものが
私のまはりを廻ってゐた
春の日に見る私の夢よ
お前も私のまはりを廻ってゐた
(掌詩人グループ)
掌詩人グループの志崎純氏によるエッセイ「軽妙洒脱な詩人岩佐東一郎」を紹介してみました。詩をある程度知っている人には岩佐東一郎という名はお馴染みですが、たしかに「忘れられてしまいそうな」詩人であるかもしれません。そんな詩人との思い出や詩を紹介してくれたことに詩史上の位置づけは高いと思います。「木馬館」という詩も良いですね。原文はベタで書かれていましたが、ここでは行分けに直してみました。特に最終連の「木馬館の建てものが/私のまはりを廻ってゐた/春の日に見る私の夢よ/お前も私のまはりを廻ってゐた」という展開に岩佐東一郎という詩人の並外れた感性を見る思いです。
○『南国忌の会会報』25号 |
2008.2.1 横浜市金沢区 長昌寺内 南国忌の会・早乙女貢氏発行 非売品 |
<目次>
特別講演 小説ってなんだろう/阿刀田高 1
第25回南国忌次第 4
第26回南国忌案内 4
司馬遼太郎と藤沢周平という沢山の読者を持っている作家についてのジョークです。
二人に江戸城は誰が作ったかと聞くと、司馬さんは、あれは太田道灌が東国を栄えさせていくためにはどういう城が必要かということを考えぬいて建てたのだと言うだろう。藤沢さんは、そうではなくてあれは大工と左官が苦労して作ったのだと答えるというのです。
ジョークではありますが二人の特徴を非常によく表しているように思います。
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「南国忌」は直木三十五(1891〜1934)の命日・2月24日に合わせて、直木が眠る横浜市金沢区の長昌寺で開催されているものです。私も一度参加したことがありますが、今号では昨年2月18日に開かれた第25回の阿刀田高さんの講演要旨が載っていました。紹介したのは、その最後の部分で、たしかに「司馬遼太郎と藤沢周平という沢山の読者を持っている作家」の違いがよく出ていると思います。
講演タイトルの「小説ってなんだろう」は阿刀田さんが作家になる経緯が書かれていて興味深いのですが、ここでは割愛。阿刀田さんの著作をあたってみてください。もともと理系に進もうとしましたが、結果的には国立国会図書館の職員になり、そして作家となったという面白い人生を垣間見ることができると思います。
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