きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.5.3 前橋文学館




2008.7.31(木)


 今日は私の誕生日です。59歳になりました。だからと言って特別なことなんてありませんでしたけどね(^^; 数人の方からはお祝いメールをいただきました。嫁さんは忘れていても、覚えてくれている人がいらっしゃるということは、正直、嬉しいものです。ありがとうございました。
 大袈裟なことを言うつもりはありませんけど、よくここまで生きてきたなと思います。皆さんと同じように当然、波はありました。それを何とか乗り越えてきたのは、やはり親しい人たちや陰で応援してくれている人たちのお陰だと思います。私に宗教心はありませんが、年毎に生かされている≠ニいう気持ちは強くなりますね。来年の誕生日まで頑張って生きます!



秦恒平氏著『湖の本』エッセイ44
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2008.7.27 東京都西東京市・「湖(うみ)の本」版元発行
2300円

<目次> 京味津津一
京都学のために
京の美学 初めに「位」ありき…5      京の話術 ウソとわる口の文化…10
京の世間 損はいや徳と道づれ…15
きのう京あした
1 京おとこ・京おんな…26         2 京の献立…31
3 京の着だおれ…37            4 京の町なみ…42
5 京ことば…47              6 京根性…52
洛東という京の懐
京の正月…60                ちおゐんさん…68
けんねんさん…78              京の私の散歩道…88
伽藍明浄 東福寺・泉涌寺…96
中世の京・近世の京
中世の陽気…110
                    近世の視野…120
後水尾天皇…136
私語の刻…144 湖の本の事…170
〈表紙〉装画 城 景都/印刻 井口哲郎/装幀 堤 或子



 京の世間 損はいや徳と道づれ

 年賀状の季節は過ぎたが、この春も例年どおりのある感想をまた新たにした。およそ六百通と数えて自然、京都に根のある私は京都の人からもらう割合が多い。むろん仕事柄ほぼ各県の読者からも年賀状をもらう。もらえば返礼を書くとして、それには、もらった年賀状の差出し住所をそのまま宛先のそれに用いる道理で、だから、きちんと住所が書いてなかったり落ちてたりすれば余儀なく割愛、でなければ後回しにしてしまう。何百という数の返礼ではたとえ知った相手でも、いちいち住所録にあたり直している手間がわずらわしい。で、失礼はお互い様と割切ってしまう。
 ところが例年、差出し住所は書いてあるのに、そっちの郵便番号の記入されてこないのが、まま有る。受取るこっちの番号は入っていて、差出す側の郵便番号が落ちているのだ、郵便局での仕分けには差支えないだろうが、返礼を書く身はそこでつまずく。ブツブツ言いながら結局調べるハメになる。かなりな手数になる。

 さ、それに意味があるかどうかすぐには言い切れない。が、京都の人から断然割合多くこの郵便番号を書かないのが届くのは何故だろう。数の多いのは沢山来るのだから当然として、割合でいっても十人に二人以上もが(平気で)自分の郵便番号を書き入れてこない。個人だけでなく法人の印刷物にすら、京都からのは郵便番号の抜けたのが多い。今年とかぎらない、いつの正月にも気がつく。しかも年々に改まるという気配もない。
 知合いに、とうとう聞いてみた、「なんでや…」と。
「せんかて、分ってはるし…」
 この返事、京都のほかの人には分りにくかろう。「せんかて」とは、そんなコウルサイ手続きはしなくても、省いても、の意味である。
「分ってはるし…」には、二つ掛けてある。手紙を受取った側は、こっちの郵便番号はつとに承知し記憶もしているハズだから、また簡単に調べる手段はあるのだから、差出し側で手間を省いて差支えないハズだというのである。
 もう一つは京の町なかで、郵便局の配達サンにそんな番号の助けの要るハズ、「おへんやないの。自家
(うツ)トコが分らへんハズ、ありますかいな」というのである。これには驚いた。
 無意識であれ、意識してであれ、まずはこの返事に「京都」と「京気質
(かたぎ)」は、尽くされていよう。脱帽ものである。

 だが、もう一つ大切なことも付加えたい。
 郵便番号が導入されようかという頃、もう幾昔のことか、反対の声はけっこう高かったし、声のなかには、お役所仕事の便宜に国民の手間をトルのは不愉快だというのが多かった。反対の最たる理由ですらあった。実は、その姿勢を依然固持している体
(てい)の「京都人」が寡なくないのにも、注意していい。そういうシッカリした人らからみれば、おおかたの日本人、モノ忘れが早いアキラメも早いとあざ笑われても、仕方があるまい。(以下略)

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 エッセイ44の副題は〈京味津津(一)きのう京あした〉です。京都生まれながら東京で人生の大半を過ごしている著者の、いわば京都論=Bここでは「京都学のために」から「京の世間 損はいや徳と道づれ」の冒頭部分を紹介してみました。初出は1987年4月の『旅』です。私たちにも馴染み深い〈郵便番号〉であるだけに〈「京都」と「京気質」〉がよく分かりますね。この後、本題の〈損はいや徳と道づれ〉について論考していくわけですが、そちらは是非お求めになって読んでみてください。旅行雑誌とは大きく違う京都の本質を考えさせられます。京都から見える日本、とでも謂いましょうか、お薦めです。



詩誌『きょうは詩人』11号
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2008.7.26 東京都世田谷区
アトリエ夢人館発行 700円

<目次>
●詩
奥の部屋/小柳玲子 1           体操/鈴木芳子 4
薔薇/赤地ヒロ子 6            牛/吉井 淑 8
相談室/森やすこ 10            泣く/万亀住子 12
夕焼け/万亀住子 14            梅泥棒/伊藤啓子 16
もやしを炒めていると/長嶋南子 18
●エッセイ
電話/万亀住子 20             あさひ屋の店先/伊藤啓子 21
電話とわたし/赤地ヒロ子 22        詩の話絵の話1 ダッドの絵の中/小柳玲子 23
花は散るモノ人は死ぬモノ11 ――必殺仕事人 高田敏子/長嶋南子 26
表紙デザイン 毛利一枝
表紙絵 リチャード・ダッド (C)
Reiko Koyanagi



 もやしを炒めていると/長嶋南子

NHKが教えてくれた
歯ざわりシャキシャキのもやし炒めは
弱火でゆっくり炒めること

弱火でゆっくり炒めているあいだに
父も母もきょうだいも夫も子どもも
親せきのおじさんおばさん
みんなどこかにいってしまって
シャキシャキ
シャキシャキ

台所の壁の向こうにもうひとつの家があって
向こうの台所で女がもやし炒めを作っている
ただいま という声
見知らぬ男が靴を脱いでいる
座敷にあがりこんで食卓を囲む
男の子もふたりいる
男も子どももおかあさんといって話しかけてくる
ふり向いた女の顔
あれ わたしではないか
そうか わたしはあちらで家族をやり直しているんだ

子どもはわたしが生んだ子ではないので
好きなだけ猫かわいがりする
やり直しの夫に手を握られ抱きしめられて
うれしそうな顔をしている
壁のこちら 誰もいない部屋で
女がひとり寝息をたてている
シャキシャキ
音が聞こえる

 〈家族〉って何だろうなと考えてしまいます。〈家族をやり直〉すことが出来るなら、私は〈父も母もきょうだいも夫も子どもも/親せきのおじさんおばさん/みんなどこかにいってしま〉う前まで遡りたいと思いますね。〈男も子どももおかあさんといって話しかけてくる〉直前には選択肢も多かったのでしょうが、現実は〈女がひとり寝息をたてている〉ばかり。それが人生というものかもしれません。そんなことを考えさせられました。



詩誌『環』129号
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2008.7.28 名古屋市守山区
若山紀子氏方・「環」の会発行 500円

<目次>
さとうますみ/白樫の下で 2        神谷 鮎美/うめ 4
安井さとし/踊り場 6           東山かつこ/膝 8
菱田ゑつ子/風草 10            加藤 栄子/ギッ、 12
若山 紀子/コクトーの海 −コート・ダ・ジュールで− 14
<かふぇてらす> 16
東山かつこ 安井さとし さとうますみ 加藤栄子 菱田ゑつ子 神谷鮎美
<あとがき>
若山紀子 21                表紙絵 上杉孝行



 膝/東山かつこ

すこぶる堅固な表情で
なんとデリケートな所作を重ねているのだろう

季節のない街をひたすら歩き続けるように
立つにせよ 座るにせよ
小僧さんはおおいそがし

羊水の中で
折りたたむように密かに隠された
未来の夢の芽はどこへいったのか

つかまり立ちで規律正しく伸ばしたり
はじめの一歩でゆったり折り曲げたり
つかの間の
ほほえみの歩みは
夢の予測を膨らませたりもした

歩いて
走って
小僧さんは大活躍

夢に見捨てられ
小僧さんを抱きかかえた安アパートの部屋の隅
それでも
ちょっぴり晴れた日もあれば
曇天や土砂降りだってあった

過去も未来もまぼろしの様に私を過ぎてゆく
夢の溶け滓のように透き徹ってはいるものの
その影さえ掻き消した黄色の廃液をたっぷり
と蓄えた私はこわばって屈伸もままならない

歩くにせよ 止まるにせよ
それでも夢のかけらをそっと捜して
私の小僧さんは今日もおおしごと

 〈小僧さん〉とは最初、誰のことか分かりませんでした。一通り読み終わって、タイトルに戻って…。膝小僧≠フことだったのですね。上手い作りです。〈羊水の中〉から〈こわばって屈伸もままならない〉現在まで、〈夢に見捨てられ〉たり、〈ちょっぴり晴れた日〉もあったりの人生。〈今日もおおしごと〉の〈小僧さん〉を見事に描いた作品だと思いました。



   
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