きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.8.28 松島




2008.9.19(金)


 昨日は日本詩人クラブの事務所で例会案内状を発送する予定でしたが、事務所のパソコンからはヤマト運輸のB2システムを使って宛名シールを作成できませんでした。ヤマト運輸のサポートセンターと電話で話しながらいろいろやってみて、ダメで、結論は事務所のパソコンがおかしいのだろうということでオシマイ。
 それならば拙宅のパソコンでやることでサポートセンターとも合意がとれ、今朝9時にサポートセンターが開くのを待ちかね、さっそく試してみました。が、これもダメ。エェーッ、なんで!という感じですね。サポートセンターの人も丁寧に対応してくれ、何度も試してみましたが、結局ダメでした。2台ともダメというのはおかしいので、ちょっと強気で交渉しましたけど、もともと無償のシステムですから、声を荒げるまでには至りませんでした。こういう時って、金を払っていないという弱みがありますね。
 サポートセンターの人も匙を投げて、B2は使わないことになってしまいました。

 さあ、それからが大変。慌てて従来通りのやり方で宛名シールを作って、それを持って小田急に飛び乗って事務所に向かいました。昨日できなかった発送を総務の二人だけでやろうというのですから…。1時半から初めて、5時まで掛かってしまいました。一人でやったら7時間かかるという計算になります。950人の会員・会友というのは、そういう数字なんですね。でもまあ、終わってよかった。総務のFさん、ありがとうございました。

 それにしても、何故かな?といまだに疑問です。B2はうまく稼動しているところもあり、ダメなところもあると聞いています。システムのどこかに欠陥があるのでしょうね。以前、事務所でうまくいっていたときでも処理量に問題がありました。950人分を一度に処理しようとして、できなかったのです。そのときもサポートセンターに問い合わせたのですが、950人分は多すぎるとのこと。3分の1ずつに分割して成功しましたけど、1000人、2000人なんてのは大手の企業では当たり前です。それが処理できないようでは、やはりどこかに無理があるのでしょう。ヤマトさん、せっかくユーザー指向の良いシステムを構築したんだから、もっとツメてくださいよ。中途半端はいけませんなあ、と、これは陰口です(^^;



季刊・詩の雑誌『鮫』115号
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2008.9.10 東京都千代田区
鮫の会・芳賀章内氏ほか発行 500円

<目次>
鮫の座 仁科龍――表紙裏
[作品]
みんないなくなる 原田道子――2      詩を書くことは野蛮だ 大河原巌――4
花カンナ 岸本マチ子――6         ファンタジー 瓜生幸三郎――8
花山 高橋次夫――10            辻の木 原田麗子――12
秋の哭き声 飯島研一――16
[詩書紹介]
中正敏・詩集『いのちの籠・2』高橋次夫――18 浜田知章・詩集『海のスフィンクス』原田道子――18
相良蒼生夫・詩集『禁猟区』芳賀章内――18
[作品]
螺旋の風景 井崎外枝子――20        間に合わない 前田美智子――23
濁流 仁科龍――26             別れ 松浦成友――28
傘のなか いわたにあきら――50
作文練習(V) 芳賀章内――34
[謝肉祭]
遊びたい・む 前田美智子――37       星に憑かれた歌人・山中智恵子とのある関係 原田道子――38
[詩誌探訪] 原田道子――59
編集後記  表紙・馬面俊之



 別れ/松浦成友

ここを離れるとわかってから
何故か まわりの景色が薄くなり
空気が 見知らぬ色に変わっていく

ここにいる自分が
まるでもうすでにいないかのように
人々は自然に動き 流れていく

この薄い 透明な世界の中で

ここにいない今を生きること

なじんだ空間がいつのまにか
見知らぬ他人のように体から離れていき
次第に見えなくなっていく

机やロッカーや天井 そして人々
諸々の事物の輪郭が次第にぼやけ
崩れていく……

乳白色に染められたこの世界も
やがて自らとともに消滅するのだろう

 〈机やロッカー〉とありますから、この〈別れ〉は職場からのものなのでしょう。それも異動ではなく退職なのだと思います。私の経験からも、異動の場合は〈ここにいる自分が/まるでもうすでにいないかのように/人々は自然に動き 流れていく〉という状態にはなりません。元の職場に戻ることもあれば、社内のどこかで顔を合わせることもあるからです。決定的に退職だと感じたのは〈なじんだ空間がいつのまにか/見知らぬ他人のように体から離れていき〉というフレーズです。私も退職したときに何かを感じていたのですが、このフレーズを読んで、そうか、〈なじんだ空間〉が離れたのか、と思い至りました。共感できた作品です。



詩誌『墓地』63号
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2008.9.15 茨城県古河市 山本十四尾氏発行
500円

<目次>
月見るうさぎ/石下
(いしおろし)典子      あきしのの/岩崎和子
迦陵頻伽
(かりょうびんが)/大掛史子       巣林一枝/山本十四尾


              いしおろし
 月見るうさぎ/石下典子

両耳をぴんと立て
朱赤の着物に青の羽織で正座する
「月見うさぎ」は浅草今戸焼
黒の細帯に藍の半襟も粋に
両手を武士の居住いに置く

今戸は吉原の玄関
遊女らは猪牙
(ちょき)舟で通う客を醒めた心眼で覗き
毎夜 違う夫を迎え入れるおぞましさ
何より恐れた懐妊には
遣り手から折檻まがいの堕胎があった
せめて呪
(まじな)いのような避妊灸を据え
毎月 無事に月が見られますようにと
うさぎの姿にこめて生きた

苦界に身を売った生地獄を嘆いたところで
土砂降りは止まない
女が抱える苦役と 抱く水泡夢
泥の中の水晶を拾うように
懸命に生きた女たちの証は
三百年 長い耳が聞き継ぎ今も売られる
女の憂苦は絶え間ない
児を宿すのも辛し 宿せぬも哀しと

願掛けに求める今時の女
(ひと)
不順なる月の翳りか あるいは
居待ち月のまろうどへの得恋か
今宵 うさぎ顔の女が正座して
望みも欲もない溜息に
卵黄の月明り

 浅学にして〈浅草今戸焼〉というのを初めて知りましたが、〈遊女〉と深い関係があったのですね。〈毎月 無事に月が見られますように〉とは、なんと哀しい話なのでしょう。〈児を宿すのも辛し 宿せぬも哀し〉という遊女のジレンマもよく伝わってきます。それに対して〈願掛けに求める今時の女〉の〈望みも欲もない溜息〉。この対比が見事だと思いました。最後の〈卵黄の月明り〉もよく決まっている作品です。



鷺宮の歴史をたどる会『会報』5号
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2008.9.18 東京都中野区 菊田守氏代表 非売品

<目次>
平成20年度総会開催 1
鷺宮囃子演奏会 2
第四回鷺宮れきし散歩 歴史民俗資料館企画展 2
編集後記 2



 講演会要旨 演題「ふるさと鷺宮」
     鷺宮の歴史をたどる会代表 菊田 守

 私は1935年7月、旧鷺宮2丁目(現白鷺2丁目)に生まれ、戦争中も疎開をせず、同所に73年住んでいます。鷺宮小学校、中野区立八中、都立武蔵丘高校を徒歩で通学しました。当時の自然豊かな里山、妙正寺川と田んぼ。そして天神山の雑木林、そこに生きた鳥や昆虫や生き物などを、当時の写真と、19才から50余年書き続けている自由詩を通してお話したいと思います。
 鷺宮は(レジュメ参照)江戸時代(1603年・慶長8年・家康)の頃、上鷺宮村(畑)下鷺宮村(田んぼ)があり、上鷺宮村は今川家領地、下鷺宮村は江戸幕府領地でした。その後、1880年双鷺小学校(現鷺宮)創立、1927年鷺ノ宮駅開設、1959年(昭和34年)妙正寺川沿い団地建設開始、1963年(昭和38年)妙正寺川洪水、1970年妙正寺川治水工事完成し、この頃鷺宮から水田がなくなりました。
 詩の朗読を致します。詩「妙正寺川」「土筆橋のあたり」「太白
(たいはく)・昭和19年11月24日」「ひとを撃つ」「天秤棒かついで」の5篇です。私の小学3年生(昭和19年)の空襲体験の詩「太白」は、中野区が初めて死者の出たB29の空襲の現実を、太白というさつま芋を通して書きました。高校1年(昭和26年)の時、肥桶(こいおけ)を母とふたりで担いだ詩「天秤棒をかついで」は、辛い体験を明るくユーモラスに描いた作品です。また詩「妙正寺川」は、2000年(平成12年)に私の母校鷺宮小学校開校120年記念式典・祝賀会で全校児童により群読されました。これら作品の背後には豊かな自然と貧しいが自給自足の農村生活があり、夏祭り、お盆と、民間信仰の講中がありました。
 写真にあるように妙正寺川大洪水の時、救命ボートが出ました。このように、暴れる妙正寺川も、1960年(昭和35年)頃までは、きれいに澄んだ豊かな川で、魚や水生動物の宝庫でした。当時は、鷺宮橋から西の空を望むと、よく見えた絶景の富士山。ザリガニやタニシのいる田んぼに舞い下りる白鷺の姿。夏の夕べ天神山から聞こえるひぐらし声。水門の辺りで乱舞する蛍、金魚の浴衣の少女と団扇。目を閉じるとまぶたに浮かびます。
 鷺宮の村から町への変遷を、私の拙ない体験を通してお話させていただきました。
 ご清聴ありがとうございました。

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 6月の総会のあとに行われた講演の要旨が載っていましたので、全文を紹介してみました。中野区鷺宮に〈73年住んでい〉るという菊田さんの前半生は、そのまま鷺宮の現代史と云えましょう。〈鷺宮橋から西の空を望むと、よく見えた絶景の富士山。ザリガニやタニシのいる田んぼに舞い下りる白鷺の姿〉は、今では見られないものでしょうが、それだからこそ貴重な証言のように思いました。



   
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