きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.9.27 栃木・和紙の里 |
2008.10.9(木)
生れて初めてお金を払って、白馬村観光局主催のトレッキングに参加してきました。八方尾根自然研究路トレッキングというもので、私と同年齢だという女性ガイドに連れられて、4人のツアー客、男は私一人というものでした。200mの標高差を4時間ほどで往復しましたが、なかなか良かったです。本来なら2時間ほどで往復できるのでしょうが、それを倍の時間を掛けて、紅葉や山容を愛でながらのお散歩といったところでしょうか。高山植物はほとんどが枯れていて、ガイドさんはしきりに謝っていましたけれど、すかさず私は「この花が枯れる前を想像しましょう!」と一席ぶって顰蹙を買いました。人間が枯れても若い頃が想像できますよね!とまでは言いませんでしたが(^^;;;
写真は最終目的地の八方池です。ご覧のように霧が立ち込めて生憎の天気でした。それでも雨は降らずに、時折は強い陽射しもあるという、まずまずの天候だったかなと思います。
1990年代にパラグライダーで遊んでいたときは、隣の五竜遠見から飛び立って、この近くまで何度か来ています。八方池を上空から見た記憶はありませんので、飯森山を過ぎたあたりで引き返していたのでしょう。気流が悪い空域でしたから緊張の連続でしたけれど、当然ながらトレッキングにはそんな緊張はありません。これまでは山というと飛ぶために登るものでしたが、こうやってただ歩くだけというのも良いものだなと認識しました。少しはメタボのお腹もへッ込んだかな?
○千木貢氏詩論集『あ、の実現』 |
2008.10.20 埼玉県坂戸市 タルタの会刊 1000円 |
<目次>
T
修行としての詩的感性 6 精神としての「現代詩」 20
虚構としての詩の現実 30 可能性としての詩的現実 56
U
現代詩のたくらみ 74 日常性を超えることば 86
あ、の実現 104. 凝縮について 116
表紙/埼玉県川島町、オッペ川の白鳥飛来地
あ、の実現
ゆかの上の
光の縞を
思はず またいだりする
という一節を、私は長いこと気にしながら、それが詩の一節であることは分かっていたが、書いた詩人の名もその他の詩句の一部すらも思いだすことはなかった。詩の全体は失念しても、その一節だけが妙に記憶の片隅に引っかかったままで、容易に外れようとしなかったのだ。最近書庫を整理していて、偶然にその詩の全体を見つけた。『現代詩手帖』65年3月号に掲載された吉原幸子の「電車」という詩だった。65年といえば私も二十代半ば、そのころ『手帖』を読んでいたということも懐かしいが、それから四十年近く、そのなんでもない詩句をずっと気にしつづけていたということも、なにか尋常に思われない。
いまふり返って見れば、その一節は私にとって実に大切なものだったのだ。詩句としてでなく、詩人や詩の内容にも関わりなく、独立したことばとしてそれは私の精神に少なからぬ影響を及ぼしていたのだった。二十歳前後に詩を書いた覚えもあるが、唯一の表現手段として私が詩を書きはじめたのはすでに不惑に近い年齢で、友人の強い誘いもあったけれど、いまから思えば、一方でずっと引っかかっていたその一節が、私を詩のほうに導きだしたのも確かなことだった。それは私がなんとなくものを書きだした当初から、それゆえに書くことに惹かれつづけてきたのだと思うのだが、「思わずまたいだりする光の縞」を書こうとしていたのだと気づいたことで、自分でも納得がゆくことだった。そのとき吉原幸子の詩の一節は、それでいいのだよ、と肩越しに私に囁いたのだった。
だから正しくは「思わずまたいだりする光の縞」を書こうとしたのは、吉原幸子の詩の一節に影響されたからではない。その一節が気になったのはそれ以前からそのようなものを書こうとしていたからだった。文学的な目覚め、といった明確な契機にあたるものではないだろうが、ものを書きはじめた中学生のころに、やはりいまでも気になっているひとつの作品に私は出会っている。翻訳されたボードレールの散文詩で、教科書に載っていた。窓から見える貧しい老婆の働く姿からあれこれ想像をめぐらし、想像力の素晴らしさをたたえる内容だった。書くことは想像すること、想像力が書くことを促すものだと自覚させられた点で、そのときは分からなかったけれど、後から考えればこれは明らかに私の作品の姿勢を作った。
詩は詩論に沿って忠実に書かれるものでもなかろうから、詩論というのはたぶん体験的にならざるを得ないと思う。他のジャンルでも似たようなことなのだろうが、作品に沿って詩論は組み立てられてゆく。詩論が詩作に追従するなら、それは詩の言い訳にしかならないと考えるのはおそらく正しくないだろう。詩論はひとつひとつの詩について粉飾することばなのではなく、詩の柱、つまり詩人の背骨について語らねばならない。たとえば口語の詩ならそのまま読者に提示して何ら問題もないが、文語で表現するとなると、なぜいま文語の詩でなければならないかということを、作品それ自体で、あるいは詩論として説明しなければならない。その説明に必然がないなら、文語は詩の粉飾にすぎなくなる。詩作の裏付けとなる必然性を支えるのが詩論である。そこには詩人がそうせざるを得ないという姿勢が感じられなければならない。姿勢を支えるのがその人の背骨である。
凡庸であればあるほどそんな体験を持つと思うが、人生を決定づけるような出来事があるとすれば、それは特別な事件でも崇高な哲学でも衝撃的な宗教体験でもなくて、ある日、霧の中でひととすれちがったとか、夕暮れどきに野良仕事をする農夫を見たとか、そんななんでもないことに、あ、と思い当たることがあって、生き方を変えたり思い定めたりするのである。詩作の動機にしても同様で、私の貧しい体験の中で私の詩を決定づけた出来事は、教科書のボードレールの散文詩であり、吉原幸子の詩句の一節であった。その後、数多くのすぐれた作品を目にして、とても太刀打ちできない、とシャッポを脱ぐことが少なからずあったけれども、いくら感心してもそれでわたしの書く姿勢が変わるというようなことはなかったように思う。書くという促しがそこから生じたように、表現に向かう骨格は書く以前にすでに形成されていたような気がする。
ある特別な社会的事件を詩にしようとすると、当然それについての自分の意見を言わなければならなくなる。私は凡庸な人間だから、私が述べるようなことはだれもが口にする凡庸な意見になる。凡庸さはひとの心に安寧をもたらすだろうが、凡そそのような感想を聴きたいがために、ひとは詩を読むわけではないのだ。凡庸な私自身がなにかきらりと光るものや、ドキッとさせられることがないような感想詩を読まされる苦痛に耐えがたいのだから、ひとはなおさらそうだろうと思う。だから、それについての自分の意見を書かなければならないような特別な出来事は、私には詩にすることができないのである。私の詩は、それこそ霧の中でひととすれちがったとか、夕暮れどきに野良仕事にいそしむ農夫を見たとか、そんな凡庸な風景との出合いからはじまる。
そこではまだ何もはじまってはいない。出来事は何も起こっていない。白紙だから私はそこに思いを巡らせることができる。それについての私の凡庸な意見など開陳する必要もないのだ。それから私の思いは風景そのものにとどまらず、風景を媒介として別の風景へと展開し、あるいは風景の下に眠るもう一つの風景へと侵入してゆく。「光をまたぐ」という意識下の行為についても同様である。そこに意識のベクトルがまだ働かない、その風景について私の詩想は働きかける。そうせよとはボードレールも吉原幸子も言わなかったかもしれないけれど、私の詩作の指標は意識化された風景とは対極の方向を示していた。
白い紙の前に座って、私の頭の中にはほとんど何もない。やがて小さな出来事なり風景なりが浮かんでくる。あるいは日常のちょっとした光景に出合って、そのことが私を白い紙の前に座らせる。いずれにせよ私はそこから書き始めるほかないのだ。確かにそれまで私が出合ってきた様々な風景や出来事、それらの経験が詩のバックアップをしてくれていることは間違いない事実なのだけれど、私が詩を書き始めるそのときに、それらの経験はまだ何一つ蘇えってきていない。私は実際の風景を写すのではなく、紙の上に現実を作り上げてゆくのである。それは言語による紙の上の現実、書かれたその時点で食べられないリンゴでしかないのだ。作者にわずかな達成感を恵む小さなリンゴ、それがある確かなものに変幻してゆくときがある。紙の上の食べられないリンゴは、そのとき食べられる日常のリンゴとは別の次元で、別の意味を背負って実現してゆくのである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
詩誌『タルタ』や『青空』にこの5年ほどで書かれた詩論をまとめたものでした。著者の詩論はおもしろくて、いつも興味津々で拝読してきましたが、こうやって1冊にまとまると体系的に読むことができ、やはり良いなと思います。どの章を紹介してもおもしろいのですが、ここではタイトルとなっている「あ、の実現」を紹介してみました。これは3部作になっていて、このあとにさらに詳細な分析が続きますけれど、それは割愛します。機会のある方はぜひ手に取って読んでみてください。
なぜ詩を書くか、何をどう書くかは個々の詩人にとっても大きな問題です。厳密には一人ひとりに個々の詩論があるわけですけど、ここでは〈詩論はひとつひとつの詩について粉飾することばなのではなく、詩の柱、つまり詩人の背骨について語らねばならない〉と明解です。それを〈姿勢〉と言い、別のところでは〈文体〉とも称しています。そこは私もまったく同感です。
この論の真髄は〈そんななんでもないことに、あ、と思い当たること〉が詩ではないかという点にあると思います。そこから詩論のタイトルも付けられているわけですけど、これには眠っていた魂を揺さぶられるような思いをしました。雄大な景色を見たりしたときの単なる感動ではなく、〈なんでもないこと〉から受ける感動と私は読み取りました。その具体例が吉原幸子の「電車」の1節というのは分かるように思います。
こんな短文ではとても紹介しきれませんので、くどいようですがぜひ読んでみてください。詩とは何かという永遠のテーマの一つの回答がここにはあると思っています。
○隔月刊詩誌『叢生』158号 |
2008.10.1 大阪府豊中市 叢生詩社・島田陽子氏発行 400円 |
<目次>
詩
約束 由良 恵介 1 コネティカットからの訃報 吉川 朔子 2
付け文 竜崎富次郎 3 ゆるゆる と 秋野 光子 4
バサバサと 江口 節 5 のっペら坊 姨嶋とし子 6
我が家は耐震工事中 木下 幸三 7 蚤のふとん 佐山 啓 8
このからだから 島田 陽子 9 根 下村 和子 10
叫ぶ少女たち 曽我部昭美 11 赤い風車 藤谷恵一郎 12
フィーリングカップル 福岡 公子 13 十三夜 他 原 和子 14
浮いてるもんに 麦 朝夫 16 「とうし」と「からかみ」は相似
制御室 八ッ口生子 18 の紙でも 毛利真佐樹 17
美とは 山本 衛 19
本の時間 20 小 径 21 表紙・題字 前原孝治
編集後記 22 同人住所録・例会案内 23 絵 森本良成
のっぺら坊/姨嶋とし子
家に帰って鏡を見たら
ライオンの顔になっていた
昼間淀屋橋のたもとですれ違った
目付の鋭い初老の婦人に
魔法をかけられたのかも知れない
慌てて人間の顔に戻そうとして……
待てよ どうして人間の顔なんだ
普段から人間の残忍さは
ライオン以上だと思っているくせに
戻そうとするのが
やっぱり人間の顔だなんて
発想が貧しいんだよね
ほんとうはライオンも嫌い人間も嫌い
と言って他になりたいものもないし
さし当たってのっぺら坊にでもなっておくか
〈家に帰って鏡を見たら/ライオンの顔になっていた〉という発想がおもしろく、決して〈発想が貧しい〉とは思いませんでした。しかも、〈と言って他になりたいものもないし/さし当たってのっぺら坊にでもなっておくか〉としてところに発想の豊かさを感じます。詩は意味を解釈するものではありませんけれど、この〈人間の顔〉、〈ライオンの顔〉、〈のっぺら坊〉には天地空や真善美を当てはめることが可能かもしれません。そういう思いがけない世界を想起させる作品ではないかと思いました。
○詩誌『花』43号 |
2008.9.20 東京都中野区 菊田守氏方・花社発行 700円 |
<目次>
評論
西脇順三郎の禅僧性について 佐久間隆史 22 私の好きな詩人(7)普遍不幸に殉じた詩人八木重吉 宮崎 亨 46
詩
軍犬綺譚 高田太郎 6 純青(ひたさお)の音の譜 田村雅之 7
身ひとつ 山田隆昭 8 蝉 佐久間隆史 9
御蚕ぐるみ 神山暁美 10 扉 川上美智 11
それでも 青木美保子 12 サックスを吹く男 峯尾博子 13
鴉 岡田喜代子 14 こいつ 沢村俊輔 16
バラの花 呉 美代 17 「四季雑録」抄 柏木義雄 18
夕焼けの中で 林 壌 20 キャラメル 坂東寿子 28
再生 酒井佳子 29 ふるさとハもうない 馬場正人 30
新しい畑 飯島正治 31 人造湖・春 湯村倭文子 32
王に会いに 中村吾郎 33 湯気の音 佐々木登美子 34
紅しだれ 水木 澪 35 沈黙 甲斐知寿子 36
シロツメクサ 小笠原 勇 37 汐見橋 北野一子 38
前髪を 都築紀子 39 年齢って それ何 菅沼一夫 40
なななぬかの螢 和田文雄 41 真綿のむこう 清水弘子 42
骨考 ――序 鷹取美保子 44 香典返し 鈴切幸子 52
水の足音 塚田秀美 53 十五歳の夏 天路悠一郎 54
嗄七馬人(シアチマーパー) 山田賢二 56 凍る 平野光子 57
小春日和 吉田隶平 58 風信雲書(東寺にて) 宮崎 亨 59
母たちの哀歌(二) みぞれ降りしき 篠崎道子 60
いけんとよ 原田暎子 62 胼胝(たこ)を撫ぜる 狩野敏也 64
猫の実 秋元 炯 66 地球温暖化余録 丸山勝久 68
わが泳法 宮沢 肇 70 縛られる 菊田 守 72
エッセイ
この一篇(3) −自作・自注 坂東寿子 50 落穂拾い(9) 高田太郎 78
木の花 木の実(4)みずきの窓 篠崎道子 79 詩の川の辺り(4) 藁灰と靴の中の太陽 −武田隆子 菊田 守 80
書評
母胎の内側から−高田太郎詩論・エッセイ集『詩人の行方』を読んで 金子以左生 74
画家の伝記を翻訳した詩人に生じた疑問の意味
ジークフリート・ブレスラー著・鈴木俊訳『ハインリッヒ・フオーゲラー伝』 宮下啓三 76
編集後記 81
掲示板 82
軍犬綺譚/高田太郎
まだけもののにおいのするがらんどうの戦
後の弾薬庫の中で ぼくらは新しい花ことば
を用意した 〈平和〉と〈反戦〉 だが 花
の秘密に気づかぬまま いつのまにかぼくら
は舌を切られ骨を抜かれ 相手が嫌がること
が言えない 謝罪と反省の囚徒となった 負
けたのだから仕方がない と本音を言ったら
一匹の軍犬が出て来て甲高く吠えた かれは
しきりに後ろを振り返っていた 眼はこちら
を向いているが 後ろが気になるのは人と同
じだ 人と違って一度嗅いだ弾薬のにおいは
忘れないが かれは鼻を捨て訝しげに耳を動
かした たしかに歴史の異次元に堕ちこんだ
旧主人の乱れた足音を後ろに聞いたのだ 軍
犬は跛行を許されない 黄砂の戦場を流れる
ように疾駆しなければならなかった だが
戦後瘡蓋に覆われた幽鬼の犬は 今 何処を
彷徨っているだろう 主人は自虐のうちに唖
者となり 謎の身体を鬼怒川に浮かべてしま
ったし 中国大陸からはたった一匹の仲間の
復員もなかったはずだ 敵兵に仰向けに寝こ
ろんで腹を見せ尾を振ったおろかなやさしい
犬 ぼくらは今 白いどくだみの花咲く霊園
のような美しい国で その末裔を祀っている
そういえば軍馬と同じように〈軍犬〉もいたのだなと思い出します。おそらく〈中国大陸からはたった一匹の仲間の復員もなかった〉のでしょう。その〈かれはしきりに後ろを振り返っていた〉状態は、戦後のみならず現在も続いているように思います。この〈後ろを振り返〉るという動作にこの詩の真髄があるのでしょう。〈眼はこちらを向いているが 後ろが気になるのは人と同じだ〉というフレーズに〈歴史の異次元に堕ちこんだ旧主人〉の姿が鮮明に浮かび上がります。今号の巻頭詩としても見事な佳品だと思いました。
← 前の頁 次の頁 →
(10月の部屋へ戻る)