きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.9.27 栃木・和紙の里 |
2008.10.10(金)
特に予定のない日。終日いただいた本を読んで過ごしました。
○日原正彦氏著『ことばたちの揺曳』 ――日本近代詩精神史ノート―― |
2008.10.20 高知県高知市 ふたば工房刊 3000円+税 |
<目次>
序 章 日本詩論のみなもと〈二つの「序」をめぐって〉・7
第一章 透谷、黎明の詩精神・・・・・・・・・・・・・・15
第二章 彼方へのまなざし〈藤村と透谷の詩精神の軌跡〉・23
第三章 魅惑することばの力〈上田敏と蒲原有明〉・・・・30
第四章 傷だらけの反旗〈口語自由詩運動の光と影〉・・・38
第五章 白秋、放心の海・・・・・・・・・・・・・・・・60
第六章 飛行機と少年〈石川啄木の求めたもの〉・・・・・76
第七章 世界原理と彫刻 高村光太郎 その1・・・・90
第八章 単眼の愛 複眼の愛 高村光太郎 その2・・・・101
第九章 旗はいかに引き継がれたか〈民衆詩派の運命〉・・116
第十章 「感情」という方法.萩原朔太郎 その1・・・・・131
第十一章 青いためいき 萩原朔太郎 その2・・・・・146
第十二章 詠嘆の挫折 萩原朔太郎 その3・・・・・159
第十三章 さびしいぞ 室生犀星 その1・・・・・・・・・171
第十四章 空白の母 室生犀星 その2・・・・・・・・・184
第十五章 拓次、宝石の瞳を持つうさぎ・・・・・・・・・・199
第十六章 変転する雲〈山村暮鳥の祈り〉・・・・・・・・・215
第十七章 青い哀しみの照明 宮沢賢治 その1・・232
第十八章 おれはひとりの修羅なのだ 宮沢賢治 その2・・245
第十九章 ジョバンニの涙 宮沢賢治 その3・・263
第二十章 行へよ! 中原中也 その1・・・・・・279
第二十一章 喪失の人 中原中也 その2・・・・・・294
第二十二章 「在りし日」の日々.中原中也 その3・・・・・・308
第二十三章 黒き爆弾〈マニフェストの時代〉・・・・・・・・325
第二十四章 お前は歌ふな〈中野重治とプロレタリア詩運動〉・340
第二十五章 幻影の人〈『詩と詩論』と西脇順三郎〉・・・・・357
第二十六章 心平、不可避の蛙・・・・・・・・・・・・・・・371
第二十七章 哀しみの火矢〈八木重吉の詩と愛〉・・・・・・・387
第二十八章 詩と自然〈三好達治の詩的出発〉・・・・・・・・406
第二十九章 ふたいろの郷愁〈三好達治と丸山薫〉・・・・・・422
第三十 章 主意の人〈伊東静雄というまなざし〉・・・・・・437
第三十一章 貧乏な天使 立原道造 その1・・・・・・・・453
第三十二章 雲と音楽 立原道造 その2・・・・・・・・467
第三十三章 薄明へ 立原道造 その3・・・・・・・・481
第三十四章 抽象への架橋 立原道造 その4・・・・・・・・496
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・519
初出一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・520
心平、不可避の蛙
痛いのは当り前じやないか。
声をたてるのも当り前だらうじやないか。
ギリギリ喰はれてゐるんだから。
おれはちつとも泣かないんだが。
遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
泣き出すことも当り前じやないか。
みんな生理のお話じやないか。
草野心平の詩「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」の冒頭部分である。「デリゲ」はもちろん、心平が命名した蛙の名である。ゲリゲは今まさにヤマカガシに喰われてゆく。一つの命が死に呑みこまれてゆく。だがゲリゲの声は決して悲観的ではない。もちろん楽観的であるはずはないのだが、全てを「当り前」という「覚悟」の中へ解消しようとしている。「みんな生理のお話」なのだから。生理は理屈ではない。ましてや感情でどうなるものでもない。遠くで仲間が歌っている。それもまた「生理」の歌だ。そこにもたくさんのゲリゲがいる。歌っているゲリゲも、喰われてゆくゲリゲも、同じ一つの命である。一つの孤独である。一つの大きな孤独に重なる、同じ大きさの一つ一つの孤独なのだ。孤独は数えることができないのだから。
どてつぱらから両脚はグチヤグチヤ喰ひちぎられてしまつて。
今逆歯(ぎやくし)が胸んところに突きささつたが。
どうせもうすぐ死ぬだらうが。
みんなの言ふのを笑ひながして。
こいつの尻つぽに喰らひついたおれが。
解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
解りすぎる程はつきり死んでゆくのに。
後悔なんてものは微塵(みじん)もなからうじやないか。
泣き声なんてものは。
仲間よ安心しろ。
みんな生理のお話じやないか。
おれはこいつの食道をギリリギリリさがつてゆく。
ガルルがやられたときのやうに。
こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
そしたらおれはぐちやぐちやになるのだ。
ふんそいつがなんだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
「死んだら死んだで生きてゆく」。ここに心平の、命というものに対する、いわばわしづかみの直観がある。あらゆる生きものの「死生観」についての、心身でする洞察がある。彼は生と死を単純な対立項として考えてはいない。生きることは死ぬことであり、また死ぬことは生きることである。つまりあらゆる命は、何か途轍もなく大きな「あるもの」に引き寄せられて生きている。その何が何だかわからないものに誘われて、やむにやまれず生きている、それがあらゆる生きものの「当り前」であり「生理」であり「自然」なのである。彼にとって命のあり方に理屈などはないのだ。命は「知」で整理できるようなものではない。いつの間にか生きている、そして気がついたら死んでいる、そういうものなのだ。彼は「蛙」を主人公にして、そのような命の原初性を表現して見せた。それが詩集『第百階級』である。
おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに。
ドシドシガンガン歌つてくれ。
しみつたれ言はなかつたおれじやないか。
デリゲじやないか。
満月じやないか。
満月はおれたちのお祭りじやないか。
「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」「地べたに生きる天国である」とも彼は言っている。彼にとっては地べたも天国も同じものだ。地べたが天国であり、また天国とは地べたにしか見つけられないものである。
詩集『第百階級』は一九二八年(昭和三年)十一月に刊行されている。その「序」の中で高村光太郎は次のように述べている。(抜粋)
詩人とは特権ではない。不可避である。
詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々
ならざるところに、既に、汽笛は鳴つてゐるのである。云々以後は千差万別。
彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。それになり切る程通俗ではない。又な
り切らない程疎懶(そらん)ではない。真実はもつとはなれたところに炯々(けいけい)として立つてゐる。このど
しんとはなれたものが彼にとつての不可避である。其れが致命的に牽(ひ)く。
詩人は、断じて手品師でない。詩は断じてトゥルデスプリでない。根源、それだけのことだ。
これらのことばは草野心平の詩精神のあり方をみごとに捉えている。「不可避」。生きていることは不可避である。それ故にこそ死ぬことも不可避。生と死は一如である。命とは、やむにやまれず生きていること。蛙の合唱も、鳥たちの囀りも、花たちが咲き満ちるのも、全てはやむにやまれぬ命のはだかの表現である。詩人が吐き出すことばはそれらへの共鳴、やはりやむにやまれぬ、切ない共鳴なのだ。そして、命がそのように、やむにやまれず吸引されていく、その何が何だかわからないもの、「云々ならざるところ」「どしんとはなれたもの」、それを光太郎は「根源、それだけのことだ」と断ずる。
ところで人間もまた、その根源という宇宙のまんなかに開いた真っ黒い原初の口に呑み込まれてゆく、一匹の生きものにすぎないのだろうか。彼は蛙を描きながら、その生きものとしての生理や自然に共鳴しながらも、決して蛙になりきっているわけではない。なりきっていないわけでもない。もちろん蛙と人間を対立物としてみているわけでもない。そのどちらでもないまなざしで、蛙にあって人間にないもの、人間にあって蛙にないものを、いわば「混沌としたまなざし」で、見分けようとしてはいる。詩集『第百階級』の「後記」の中で彼は次のように述べている。(抜粋)
蛾(が)を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。
この定義は悪魔だ。蛙を見て人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかへるを憎む。
人情的なあらゆるものを蔑視(べっし)する宇宙大無口。
そしてにんげん諸君。蛙とにんげんとマンモス、にんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて、
蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。
ぼくは蛭なんぞ愛していない!
蛙の死と人の死。死はどんな死でも死であり、同じである。だが蛙は死に意味づけなどはしない。その意味づけをしないことの意味、というより無意味と言った方がいいかもしれないが、それを心平はゲリゲに語らせているのだ。それも心平の、人としての意味づけなのであるが。そう、だから、人は死に意味づけをしたがる。これが人が人を殺す理由なのか。それは裏を返せば、生の意味づけ。存在の意味づけということでもある。そしてそれもまた、あの「根源」が為せるわざなのか。心平の目は「蛙」を通して、そこまで、その気の遠くなるようなところまでみすえているようである。根源は意味も無意味も呑みこんで、絶対の一である。「ぼくは蛙なんぞ愛していない!」という「後記」の最後の叫びは、「ぼくは蛙を愛している!」と言うことの裏返しでもある。彼の混沌とした存在観の、やむにやまれぬ表明なのである。
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1994年から2008年8月までに、主に詩誌『舟』に書かれた詩論をまとめてありました。今後、『舟』に投稿する予定の論までも含めた膨大な詩論集です。いずれも力作で圧倒されましたが、ここでは「第二十六章 心平、不可避の蛙」から冒頭部分のみを紹介してみました。有名な〈死んだら死んだで生きてゆくのだ。〉の解説に惹かれています。〈心平の、命というものに対する、いわばわしづかみの直観〉とは上手い言い方をするなと感心しました。高村光太郎の〈詩人とは特権ではない。不可避である。〉という言葉も佳いですね。避けることのできないものとして詩を選んだ、詩人になった、本来の詩人とはそういうものだろうと思います。
この論の続きも心平の生活から説き起こしておもしろいのですが、ここでは割愛します。他の論も含めて、ぜひ読んでみてください。副題通り、日本の近代詩を精神史として捉える好著です。
○全悳氏韓・日詩集『夕陽の前にて』 日訳:高貞愛 |
2008.9.20 韓国ソウル Coram Deo Community刊 1000ウォン |
<目次>
1 信仰
ガンの四季・12 夜明け・14
空きつぼ・16 お言葉の海・18
許されたこの一日を・22 復活生命・24
内の人が美しくなる時・28 山・川・野 そして時間・30
わたしの生の中には・34 消耗の機械・36
最後に熟すその陽光を・38 永遠な霊性の時間・40
2 望み
露の結ばない草原・44 石ころ・48
山寺の朝・50 伸びをして・52
大地の胸・54 叡知で生きる道・56
生(6)−召命はつねに新たな力を−・60 雪の降る朝・62
蘭の前にて・64 詩人・66
夕陽の前にて・70 風音について・72
山河・74 ろうそく・76
海・78 仮面舞踏・80
3 愛
永遠なる対話・84 夜明けの雨音・90
經かたびら・94 痕跡・98
オウム・100. 南と北・104
モミの木に聞いた・108. にわか雨の日に・112
耕作・116. 涙つぼ・120
切り株・122. お水になって・126
新年初日・128. 生きつ生きつ考えて・132
弧独・136. 家族・138
生!生・140. 祝日小考・142
*著者略歴・150. *訳者略歴・154
夕陽の前にて
Cくきれいな光が
霊の鏡になって
遙かな調べを
玲瓏と醸し出す
胸を包んで燃え上がる
無数に投げた言語
切なる祈りが
回想の縁で燃え立つ
鼻先が詰まり
目頭を濡らす
恋慕の夢たち
誓っては望んだすべてのことが
ひとつひとつ 燃え上がる瞬間
夕陽の前で
わたしのあらゆる影が燒けるのか
表題の通り、ハングル語と日本語が対になった詩集です。目次も対になっていましたが、日本語のみを記載させていただきました。お名前はチョン・ドッキさんとお読みするようです。ここではタイトルポエムを紹介してみました。第1連2行目の〈霊〉は日本語の霊とはちょっと意味合いが違うように思います。他の作品と合わせて考えると心≠竍魂=A英語のsoul≠ノ近いかもしれません。美しい詩だと思います。この美しさが詩集全体を貫いていると感じました。
○詩誌『hotel』第2章20号 |
2008.10.1 千葉市稲毛区 根本明氏方・hotelの会発行 500円 |
<目次>
■作品
冷やしシャンプーあります 川江一二三 2 堤をゆく 澤口信治 4
暁 福田武人 7 鹿島仰観 片野晃司 8
足の舌 浜江順子 10 緋の迷宮/螺旋の閾 野村喜和夫 16
《宮殿をひとりの恋人たちが》カンバス、油彩、歌 海埜今日子 22
喝采2 根本 明 24 箱のなかにはまた箱があり かわじまさよ 26
■エッセイ
ざわめく美(5) 灯ることの温もって 海埜今日子 14
十二世紀の人々の息吹(2)「折に合ふ」ということ 根本 明 28
■詩集評
反詩の構想力 柴田千晶「セラフィタ氏」 根本 明 13
□terrasse 31
表紙/カット かわじまさよ
《宮殿をひとりの恋人たちが》カンバス、油彩、歌/海埜今日子
むかしむかし、恋人のようなすあしをかかえ、わたしたちは宮殿を
おりていった。まぎれもない述懐がころがり、べつのかたちをなぞ
るようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたない
ふとももです。いまだ歓喜のけはいがあるのは、ほうこう感覚もと
もにあるということなのか。いろがかんばすのうえをうたい、木々
は月あかりをどこまでも、ほねのようにみすえていた。たちつくす
切っ先、不動をちかったかのようなざわめき。
木かげにひびきながら、いきながらえながら、てんでに宮殿をのぞ
んでいたということが、わたしたちをじしんにくいこませていった
のだろう。こえがいろをさすり、やみのなかでちらめいていた。き
たはずのほうこうでは、樹木はすれたはだをたむけていた。月はは
がれてゆくものをてらしだせないことが罪であるかのように影をお
とす(と、かたほうがおもった)。ほねのすける感情、ゆさいのよ
うなべつのまぐわい。それでもだれかはあたたかい。
宮殿、それはすはだを客人にもたらす、たったひとつの序曲である
といってもいい。ぬくもりをかかげたさんはんきかんが口ずさまれ
ていた。静謐をとどこおる切り口に、もはやつめたさがあてがわれ
ていたのかもしれない。いしんでんしんがつたえられてひさしかっ
たが、木々はそうとはしらずにたがいにふでづかいにつかまれてい
った。腐肉さながらにやわらかいねがいをこぼす月、まぶしいせん
りつがわたしを入り口にはぐくんでゆく。
あるいは愛人のようにすあしをもてあまし、わたしたち、といって
いいのか(と、かたほうもといかけていた)、すべてを離反する、
すくれいぱーでむきだしになった国境のように、いまだこないわか
れに、宮殿のためのにぎやかさをあつめていた。だからほねはろれ
つのまわらなさになみうち、べつのほとばしりをまさぐるのだ。ず
いぶんとさわった、といちまいがたとえようもなくのこってゆくが、
しることのなくさけびをふるえる。
枝のくすんだもてなしに、みみひらけ。それはわたしたちの分散な
のだとかたほうたちはこえをこぼし、ねがいをはだにはなっていた。
かなしみをうたいつぎ、切っ先をのぼればよかったのだ。よろこん
んで。えふでにさらされた恋人は、ほねのようにひとけがなかった
が、こんせきはべつべつに、だがたしかにたたずんでいたのだから。
たいじするほうこうがふとももをらせんにみつめあっていた。宮殿
はのをこえ、やまをこえ、むかしむかし、いまをくらしたという。
この詩はタイトルが大事だと思いました。〈カンバス、油彩、歌〉とあります。〈歌〉はちょっと措いても〈カンバス、油彩〉によって、この詩を絵を観るように読めばよさそうだと気づきます。そう意識すると〈いろがかんばすのうえをうたい〉や〈こえがいろをさすり〉、〈ゆさいのようなべつのまぐわい。〉、〈木々はそうとはしらずにたがいにふでづかいにつかまれていった。〉などの詩語が眼に飛び込んできます。タイトルという面では《宮殿をひとりの恋人たちが》という言葉にも注意が必要でしょう。単数と複数が混在しています。これは一人の中の多重人格と採ってもよいかもしれません。
そうやって理屈でこの詩を読むのはおそらく正しくないでしょう。一番良い読み方は〈宮殿〉の絵の前で読むこと、さらに良いのはその絵の前で作者自身による朗読を聴くことではないかと思います。そういう面では読者に、あるいは聴衆に、読むべき聴くべき場を限定させる作品ではないかと思いました。
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